零章 とある夜の諍い

「待て!」


 誰かを止める声が外へ響いた。

 慌てた様子の男性が、声の後を追うように、家から出て来る。あたりを照らすのは揺らぐ不確かな明かりのみで、詳しい年齢は見て取れない。声質から判断するに、壮年、もしくは老年くらいの年齢だろうか。


「……何?」


 その幽かな光も届かない死角から、不機嫌な声が聞こえた。

 よく見れば、気配とともに、影が薄く人の形をかたどっている。


「おまえには役目があるだろう! どこへ行く!」


「あなたが出ていけって言ったんでしょう」


「それはそうだが……。とにかく、戻ってこい!」


 両者動かず、水面を撫でるように会話を交わす。


「私はずっと、あなたに──あなた達に従ってきた……。物心つく前からずっと……」


「それがおまえの運命だ」


 暗闇で本人だけが分かる小さな奥歯を噛む音がした。


「そう。それなら、ここで出て行くのも私の運命です。あなたが私の運命を決めるんじゃない」


 男に背を向けた影が、闇の中へと溶けようとする。


「どうしても戻ってこないのか……」


 顔に影を落とす男は、手首を反対の手で握りしめていた。

 強く揺らぎ始める光が、彼を慰めているよう。


「私の自由にしていいなら戻ります」


「それは結果的に同じことだ……。ならば……」


 直後、辺りから光が消える。


「力ずくで連れ戻すのみ!」


 お互いに地面を蹴るのは同時だった。

 すぐさま高速の域まで加速した相手に、男はそれ以上の加速で追いすがる。

 脇目も振らず逃げる影。その背中を捉えて、男が勢いそのままに一撃を加えた。

 鈍い破裂音が空気を伝う。

 文字通り転がってなお逃げようとする相手に、男は追撃を仕掛ける。

 振るう拳が鳩尾を射抜き、しなる足は片腹を薙ぐ。


 一方的だった。

 だからこそ、男は疑う。


 男の一挙手一投足は相手をほふるものであり、自分が追っている人間が防御する想定で狙っている。

 当然、視界が無くともそれくらいはできる相手と分かってのことだ。何なら反撃もできるだろう。


 しかし、相手は逃げることしかしていない。

 攻撃には見向きもしないで、ひたすらに逃走を続ける。地面に転がろうと、木々にぶつかろうと、体勢が崩れていようと、前に進もうとする。


 命懸けならぬ、命欠け。

 それは自殺も同然の行いだった。


 回し蹴りも簡単に決まり、逃走者は闇の中へ飛んで行った。追って聞こえる爆音から、何かしらの障害物にぶつかったのだろう。

 すぐに向かうと、案の定、木の下で逃走者を見つけた。受け身すら取っていないようで、うなだれ微動だにしない。


 そこで男は追撃の手を止めた。

 自らの間合いの端に捉えつつ、相手を真正面から見下ろす。


「何故、自分を守らない──反撃しない……。全て教えたことだろう」


 反応もしない影。

 沈黙を気絶と捉えた男は、眼前の相手へ距離を詰める。

 相手の意識がなくなったからには、担ぐなりして帰る他ない。ここに置き去りなど決してできない。

 なぜなら、この逃走者は──


 腕を伸ばし、男の手が相手の服に掛かろうとする。

 読んで字の如く、その一瞬、男の手の甲に衝撃が触れた。

 腕は肘から正しい方向へと転換し、肩をも曲げて、前に出した指が目を狙って飛んでくる。


 理解より先に、体が動く。

 危険を回避するため、顔が横へと逸れる。

 恐らく、意識を失ったフリをしていた相手が、手を払うことで顔を狙ってきたのであろう。

 であれば、反対の手で取り押さえればいい。

 次の行動を決めつつ、自分の手が顔の横を通り過ぎた頃、男は反対の腕を前に伸ばした。


 ただ、彼の考えには少しの読み違えがおきていた。


「むっ」


 避けた先には危険がないと、一体、誰が決めたのだろう。

 文字通り目に飛び込んできたのは、まるで煙のように細かな砂だった。


 伸ばしていた腕が空を掴む。

 痛む目を無理にこじ開け、歪む視界に人影を探すが、辺りには闇が広がるばかりで、生物の息遣いすら無くなっていた。


 ──しくじったか……。


 細長く息を吐いた男は、影の居た場所にしゃがみ込んだ。

 地面には土を握り取った跡が残っている。

 初めに手を掛けようという際、まばたきをなどしてしまったのが仇となったらしい。

 初めから拳に隠していたなら、男は即座に相手の腕をへし折っていたはずだ。


 油断。


 それ以外の何ものでもない。

 誰かを追う時に限らず、敵からは目を逸らすなと、男は弟子である影にも教えていた。

 それでも、男はまばたきをしてしまった。


 ──こんなミス、いつ以来だ……。


 拾い上げた小石をもてあそびながら、男は原因へ思いを馳せる。


 ──老化……、いや、劣化か……。


 頭はそう結論付けた。

 しかし、全身が当然の帰結だと騒ぎ立てる。


 追跡、攻撃、反撃を予測しての防御、また追跡と、様々な動きを繰り返す男に対し、逃走者が意識したのは、逃走のたった一つのみ。

 考えることが少なくなれば、おのずと隙は狭まる。単一化に至れば、集中している限り、隙が無くなる。

 男と逃走者では、動作に向かう脳の切り替えの回数が、圧倒的に違いすぎたのだ。


 さらに言うなら、反撃がないからと、男は防御に対する警戒を緩めてしまっていた。

 形だけの防御など、隙でしかない。

 そして彼は目を閉じてしまったのだ。


 男は経験という式から最適解をはじき出す。

 逃走者はその経験を、追われながらに誤ったものへと上書きをした。

 狂った計算式では、大きな誤算を引き起こす。


 全て相手による打算。


 自らの力に自信を持つ男だからこそ、全ては逃走者の策だったのではないかと、直感が働いていた。


 理性と本能が起こす不一致をぶつけるように、男は小石を近くの木に向かって投げた。

 暗闇かつ小さいことを除いても、消えたかのように放たれた石は、逃走者が蹴り飛ばされた時などとは比にならない轟音を立てて、その木を薙ぎ倒す。

 それだけは飽き足らず、さらに数本の木々で勢いを殺し、最後は一本の木の樹皮と共に砕けて散った。


 ──やはり限界だな。昔のように貫通させられない。


 言い聞かせるように納得した男は、切り拓かれた道を通って、家へと戻って行った。

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