死神と運命の女8

 まだ幼かった頃、ロアは不思議な夢を見た。


 眩しい世界を暗闇から俯瞰して見ているような、そんな視点。そこからロアが最初に視たのは、父と、メイドのアリシアの仲睦まじい姿だった。

 いつもしかめ面しか見せない厳格な父が朗らかに笑っていて、その隣には『ひとりの女』の顔をしたアリシアが寄り添っていた。


 胸を締め付ける、疎外感に近い浮遊感と孤独感。

 あの視点、あの感覚がなんだったのか、ロアはわりと最近になってようやく理解した。

 あれはきっと、仮定の世界だったのだ。

 自分が存在しなかった別の世界の、夢まぼろし。


 それに気づいたのはこの春だ。

 夢の中で、修道服姿のマリアとエレンが皮肉を言い合いながらも背中を預けあっている姿を垣間見た時。自分がいない世界では、あの子の隣にいるのは彼女エレンなのだと知ってしまった。

 だから、マリアが言ったことは正しいのだろう。気に留めないように努めてはいても、やはりロアは、エレン・テンダーが苦手なのだ。


「――残酷。神様って本当に残酷。そんな、あまりにも意味のない特異能力が存在するなんて、私知りませんでしたわ」

「!?」


 目を開くと、目の前にあの金髪の女がいた。ロアは反射的に身を起こそうとするも、身体は言うことをきかなかった。女はロアの身体の上にぴたりとのしかかり、赤い唇で綺麗に笑う。不思議と女の体重はまったく感じられなかった。


「ボンソワール、ロア様。夢の中での逢瀬ってロマンチックで素敵でしょう?」

「……夢の中?」


 自身の声が声帯から発せられたのかどうかも曖昧だった。ロアは眼球を動かして、辺りを見る。ホテルのベッドにいたはずなのに、辺りはいつの間にか、なんの風景もない、真っ白な場所だった。


「そう。ここは夢の中。ここなら他の誰にも邪魔されない。弾丸もナイフも飛んでこないの」


 アリシアと名乗った女はそう言ってロアの唇に指で触れる。口内に指を差し入れようとしたところでロアが眉をひそめて嫌悪感を示すと、


「こういうのはお嫌い? だったらゆっくり座ってお話ししましょう? 『あの人』に良く似た貴女のこと、もっともっと知りたいわ」


 アリシアがそう言うと、周りの風景ががらりと切り替わった。ボルドウの屋敷の客間のソファーにいつの間にかロアは座らされていて、向かいにはアリシアが上機嫌な顔で座っている。「素敵なお屋敷ね」と彼女は微笑んだ。

 ロアは警戒しながら問う。


「……あなたが言う『あの人』とは誰のことを指している?」

「あら、貴女が私に質問するの? でもいいわ。貴女が私のことをどうしてそんな辛そうな目で見るのか、ここに来て分かってしまったもの。貴女の初恋の人、私と同じ名前なのね」


 ロアが僅かに顔をしかめたのを愉しむように、アリシアは口の端を上げた。


「少し意地悪だったかしら。そうよね、お互いがお互いのことをよく知らないと駄目だものね。私のこともお話しするわ。貴女は死神様にとても良く似ているの」


 ロアは目を見開いた。


「死神様は燃えるような赤い髪の、月のように美しい方よ。私に、能力の使い方を教えてくれた人。カルロスの記憶の中にもあの人がいたけど、結局行方の手掛かりはつかめなかった」


 彼女は恍惚としながら、儚げに語る。


「……あなたはその人を探している?」

「ええ、そう。私はあの人の運命の人……ファム・ファタールになりたいの。あの人の花嫁になりたいの。ファム・ファタールって世界を転覆させるほどの大きな力を持つ女の人のことなんでしょう? だから私、世界中の沢山の人の力をコピーしたの、すごいでしょう?」


 推測通り、彼女の特異能力は『複写』だった。しかし今のロアには、それに対処できる術がない。


「さ、私のことはお話したわ。次は貴女の番。ねえ、どうして貴女はそんなにもあの人に似ているの? あの人の生まれ変わりなの? それとも血縁?」


 そんなことはロアの知ったことではない。けれどこの状況で、どう切り出せばこの状況をうまく打開できるのか、ロアの思考はそればかりに集中していた。そしてそれを見透かすように、彼女は笑う。


「この状況が怖いの? 強がっているけど、貴女の瞳に焦りが見えるわ。貴女は本当は弱い人。そしていつまでも『アリシア』を引きずっているのね、可哀想に」


 再び、風景が切り替わる。そこは屋敷の中央階段の踊り場――父がアリシアに殺された場所、そしてロアが彼女を殺した場所だった。

 そしてロアは息を呑む。目の前にいる彼女が、『アリシア』に姿を変えていたからだ。


「ねえ、貴女が『アリシア』に罪悪感を覚えているのなら、代わりに私を愛してくれればいいのよ? 私が貴女を許してあげる、絶対に貴女を許さなかった『アリシア』の代わりにね」


 いつの間にかロアに馬乗りになっているアリシアは、ロアの唇から喉元、そして胸元へと指を下ろしていく。「やめて」と声も出せず、身をよじりたくてもそれが許されない状況に、ロアは苦悶の表情を見せた。


「ふふ、そういう顔も素敵。やだわ、今すぐ貴女をいただきたくてたまらなくなってきた」


 ぞくぞくと身を震わせ、女の瞳が狂気に染まる。


「貴女の唇とともに、貴女の記憶も全て頂戴。あの人がいるかもしれないから」


 軽く舌なめずりをして、アリシアはロアの唇を奪いにいく。

 その時だった。


「だーーれが人の専売特許を奪おうとしているのかしらぁ?」


 ハッキリとした女の声が響き渡る。途端、風景は最初の真っ白な世界に切り替わった。

 ロアに触れようとしていたアリシアはぴたりと動きを止め、声の主を睨みつける。


「……誰よ。この世界に干渉するなんて」

「それはこっちの台詞よ。たかだか人間風情が夢魔の技を横取りするんじゃないわよ?」


 次の瞬間、アリシアの身体はロアの身体から引きはがされるように吹き飛んだ。

 同時に、ロアの身体に自由が戻る。ロアは上身を起こし、突然に訪れた救世主を見る。そこに立つのは、非常に布面積の少ない蠱惑的な衣装の、長い髪の女性。


「リィ……」

「本当に、本っ当に悪い虫に付かれやすいのね領主様って」


 長い尾を苛立たしげに動かしながら、彼女は呆れた顔で言い放った。


夢魔サキュバス……。そう、そんなお友達がいたなんて驚きだわ」


 吹き飛ばされたアリシアは、敵意の篭った眼でリィを見た。しかし、彼女は反撃する素振りを見せない。

 否、夢魔であるリィの力に縛られて、反撃が出来ないのだ。


「あんたがいかに特異な人間でも夢の世界では私に勝てっこないわ。さっさとここから出ていきなさい」


 リィの言葉通り、アリシアの姿は一瞬で消えた。ロアの夢の世界から、弾き飛ばされたのだ。

 ロアは深い息を吐いてから、リィを見上げた。


「……どうして君がここに?」

「どうしてって、夢魔は夢の中を行き来するのよ? 好きな人の夢へならいつでもパスを開いてるわ」

「それは追い追い聞くとして、でも助かったよ。君に助けられたのは二度目だね」


 ロアが心底からの礼を言うと、リィはそれを感じ取ってか、蛇のような尻尾をくねりと持ち上げて嬉しそうに笑う。


「ようやく私を抱いてくれる気になったかしら? ここなら時間は無制限、いつでもフリータイムよ❤」

「いいや。それはないかな」

「意地悪! 領主様なんてさっきの金髪クソ女に滅茶苦茶にされたらよかったんだわ!」


 リィの暴言にロアは苦笑いしたところで


「それよりマグナス神父は今どこに? お陰でマリアが教会にがんじがらめだ」


 ロアの問いに、リィは「は?」と目を見開き、首を傾げた。


「マグナスって誰?」


 今度はロアが目を丸くする番だった。


「誰って、君の契約者……」

「やだ、私誰とも契約なんてしないわよ? これでも上級悪魔なんだから」


 ふん、とリィは髪を揺らした。


「本気で言ってる? クレセント・J・マグナス神父だよ?」


 噛み合わない会話に、リィも眉をしかめる。


「もう、領主様ったら頭でも打ったの? やっぱり私がつきっきりで看病する?」

「いや、遠慮しておくよ。最後に教えて欲しい。私はここからどうやって出ればいいのかな」

「あら、夢の出口を知らないの? なら私が教えてあげる」


 そう言って、リィは少し背伸びをして、ロアの唇に軽く口づけた。目を丸くするロアに、リィはいたずらに笑った。


「目覚めはキスって、お伽話の鉄則。ついでに夢の扉に鍵をかけておいてあげたから、あの女はもうここには入って来れないわ」


 またね領主様、と彼女が手を振ったところで、ロアの意識は完全に白い世界から浮上した。

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