死神と運命の女
死神と運命の女1
ソレが抱えていたものは、言ってみればありふれた、単純な感情だった。
だからこその孤独。だからこその絶望。
眩しいものを見ていられない。妬ましいと思ってしまった。欲しいと思ってしまった。
だから。
「幸福な貴女に、呪いを差し上げます。ママン」
今は昔、ある一人の女に神は呪いを与えた。
* * *
薄い雲から月明かりがぼんやりと降りてくる、静かな夜だった。
長く着古した襤褸を纏うその初老の男は、先日くすねたばかりの小さなランタンの火を頼りに、空き家の棚を漁っていく。
多くの国を巻き込んだテリオワ大戦がとりあえずの終結を迎えても、民草はすぐには元の生活に戻れない。特に国境の町や村の有様はひどいもので、この里にはひとっこ一人残ってはいなかった。飢えた敵国の兵士が略奪を行ったのか、食糧の類はパンの一片すら残されておらず、男は思わず舌打ちをする。とりあえず闇市で売れそうな日用品を丈夫な袋に詰め込んで、男はそれを背負った。
「?」
ふと、何かの気配を感じて、男は振り返る。長くこういった窃盗をしているせいか、彼は人の気配にひどく敏感だった。
気配があるのは窓の向こう側だ。男は慌ててランタンの火を消し、その場にしゃがみこんだ。息を殺しながら、そろりそろりと窓に近づく。そして注意深く、彼は窓の外を覗いた。
窓の外に見えるのは、この里の墓地だ。この戦で果てた兵士もどうやら埋葬されているらしく、急ごしらえなのか、墓は少し雑に並んでいた。遠くで、土を掘り返す音がする。
墓荒らしか? 罰当たりな、と自身のことは棚に上げて、男は眉をひそめる。
しかし、彼の目に入ったのは、そんな不埒者ではなかった。
「……!」
男は思わず失神しかけた。――子鬼だ。それも大量の。
視るのも恐ろしく、どこから沸いたのかと疑うくらい、蜘蛛の子のように沢山いる。どこで聞いたかももう覚えていないが、子鬼は人間の心臓を食らうという。
この里に真新しい死体が沢山あることを嗅ぎつけて、奴らはそれを食らいに来たのだ。
男は自らの口を押え、震える身体をぎゅっと硬直させた。
見つかれば自分も食われる。ここでどうにかやりすごさなければと。
……それから数分経った頃だろうか。しばらくすると、土を掘削する音が突然ぴたりとやんだ。
途端に烏のようなけたたましい鳴き声がガアガアと響く。何事かと、男は薄目を開けて窓の外を覗った。
男はその光景に目を疑う。あれだけ沢山蠢いていた子鬼が、全て地に伏し息絶えていたのだ。立っているのはただ一人、すらりとしたシルエットの、男。
折よく雲の切れ目から月がその姿を現し、男の姿を照らす。黒い外套と、子鬼の血を浴びたかのような真っ赤な毛髪が彼の目に焼き付いた。
死者が眠る墓地において、子鬼の亡骸の上に立つその美しい男。
その晩の出来事を、彼はのちにこう語る。
『死神』を見た、と。
* * *
教会――国家安全対策本部内悪魔その他スピリチュアリテ対策特化専門修道士教会は、この国の悪魔祓いの大部分を統率する国の機関だ。
首都ロンディヌスの市街地にある支部を教会の本拠地だと勘違いしている一般人も多いが、本部はロンディヌス領の離島、一般人は居住を許されない特別な土地に存在している。
教会本部の建屋を海の上から遠目で見る船乗りたちは、その姿をまるで、天を突くような針だと比喩する。比較対象こそ周りにないが、間違いなく、あれは国内で最も高い高層建築物だった。
「今から渡るつもりかい?」
波止場から海を眺めていた黒装束の男に、船乗りが声を掛ける。
「悪いことは言わない、今は海に出るのはやめておいたほうがいい。最近でかい鯨の化け物が出るって話だ。今日みたいな波の高い日はそいつが十中八九いるって話だよ」
だから渡り船がひとつも出ていないのかと、丸眼鏡の男は穏やかに笑った。
「できれば船がよかったんだけど、そういうことなら仕方ない」
男はそう言って、ぱっと波止場から飛び降りた。
「ちょっとあんた!?」
驚いた船乗りは慌てて身を乗り出す。しかしその男は海に落ちるどころか、宙に浮いていた。
「これでは情緒がないからねえ」
男はそのまま加速し、その姿は瞬く間に見えなくなった。
「ば、ばけもんかよ」
船乗りは目を剥いたまましばらく呆然と立ち尽くした。
「主様。船のほうがよかった?」
飛行中、遠慮がちの、それでいて少しカタコトのか細い声で、マグナス神父の使い魔ホノオは尋ねる。
「船の移動のほうが人間ぽいからねえ」
「主様、魔王言われる、嫌? 飛べるの、カッコイイ。ホノオ、そう思う」
「ありがとうホノオ。嫌というか、リィの言を借りると大人げない感じがしないでもないというか。マリアにすら『やんちゃをするな』と言われているしね」
「主様、レディに弱い」
ホノオの言葉に笑いながら、神父は教会本部、『城』の上層階バルコニーに降り立つ。
「ここから先は私ひとりで行くよ。悪魔が入れば何をされるか分からない」
神父が一歩踏み込むと、彼を迎え入れるように、その扉が開いた。一瞬だけ、神父はぴたりと動きを止める。そして振り返った。
「……ホノオ。君に頼みたいことがある」
「?」
小首を傾げた彼に、神父はある一言を伝えた。
無機質な石造りの、高い天井。半円状の机には、神父と同じ、黒いカソックを纏う老年の男たちが五人、座っていた。
「こんにちは、長老様方。相変わらずいかめしいお顔つきで、皺が濃くなったんじゃないですか?」
神父の軽口に乗る者はおらず、誰一人として微動だにしなかった。
神父は肩を竦めて、机の向かいに用意されていた椅子に座る。さながら裁判にかけられている罪人のような配置だと、神父は内心苦笑した。
「マグナス。お前を呼んだのは他でもない、『供物』の件だ」
半円上の机の中心に座る男が口を開く。
この場に座っているのは、教会の悪魔祓いとしては引退をしている者達ばかりだが、今の教会の前身――国家の機関として組み込まれる前の時代から、組織の中心として多くの悪魔祓いを指導してきた『長老』達だ。
教会が旧時代から隠匿し続けた長寿の秘酒をもって、彼らは百年生きながらえているという。彼らの存在を知るのは、教会本部の重鎮と、マグナス神父のみだ。
「先刻そこの海で魔物を見ましたよ。三世界への扉の結界が随分弱まっていますね」
「左様。早急に手を打たねばならん」
マグナス神父は机に肘をついた。
「手なんてあるんです? 国同士がしのぎを削っていた百年前とは時代が違う。流石にもう、武力戦争なんて時代錯誤なものは起こせないでしょう?」
「その通りだ。だが、いかに時代が移ろうとも、冥界に送る魂は確保せねばならん。それが神との契約であり我々の義務だ」
神様ねえ、と神父はつまらなさげに目を伏せる。
「我々も手をこまねいていたわけではない。策は練った」
「へえ、それはすごい。それで、どんな妙策なんです?」
「『死神』を探せ」
その言葉に、神父の表情から軽薄さが消えた。
「貴様なら魂を食らうあれをおびき寄せることができるだろう。人間より長く生きる悪魔の魂の質量は、人間ひとりの数倍だ。上級悪魔となれば数十倍はあるやもしれん」
「私の使い魔の命と引き換えにしろと?」
着座している長老の誰かが、嘲るような笑いを零した。
「我々の悲願はこの世界を完全に人間のものにすることだ。地上に残る悪魔はいずれすべて掃討するとお前にも伝えていたはずだ。その時が来ただけだよマグナス」
「お言葉ですが、定期的に冥界に供物を捧げなければいけない誓約がある時点で、この世界は未来永劫人間のものになどならない。貴方方はその事実に目を背けているのでは?」
神父の言葉に、誰かが「知ったような口をきくな」と一喝した。
「これは神が我々に与えた試練なのだ」
また神か、と神父は失笑した。
かつて、世界は天界、魔界、冥界とつながっていて、力弱い人間は他の世界の住人達に翻弄され続けたという。疲弊した人間達は涙を流しながら、慈悲深い神々に懇願した。「どうかこの地上を切り離してください」と。
紆余曲折を経て、神々はそれを容認したが、魔界はそれを拒絶した。冥界は容認する代わりに、ひとつ条件をつけた。
結果、地上は神の力をもって半ば強制的に他の三世界と切り離されたものの、地上には一部の悪魔が残り、冥界には定期的に、一定量の魂――供物を捧げることになった。それを怠れば再び、三世界への扉が開いてしまうという。
「魔界への扉が開けば魔界の悪魔どもは必ず我々に報復する。冥界の扉が開けば生と死の境界は曖昧になり、この世界の根底を覆しかねん」
この城――教会本部は、三世界の扉のひとつ、冥界へ続く扉を守っているのだ。
「過去の選択を今さら悔やむことなど我々には出来ない。すべてはこの世界の存続のためと、我々は多くの犠牲を払ってきた。貴様もその一端を担っていることを忘れてはおるまい」
冥界への供物は、これまで『人為的な』災害や戦争によって賄われてきた。
テリオワ大戦も、裏で糸を引いたのは教会だ。
争いの種が多く燻っていた時代で、国同士をけしかけることは簡単だった。
「収拾がつかなくなって泣きついてきたのはそっちでしょう。貴方達に加担したことを否定はしませんが」
神父が椅子から立ち上がり、踵を返す。長老たちの厳しい視線が一点に集中した。
「逃げることは許されんぞマグナス」
「それ、脅してます? どうせ私以外にアテなんてないんでしょう?」
「思い上がるな。死神の探索はすでに動いている。貴様の弟子をだしにしても良いのだぞ」
神父は心の底から溜息をついた。
「……本当に最近の貴方方は、駒を繰ることしか考えていないようだ。それこそまるで、神様みたいな気分なんでしょうね」
「マグナス、口が過ぎるぞ。この城の中では貴様の自慢の僕たちはその力を使えん。反逆するならここで貴様の首を落とすことも出来るのだ」
ああ、と神父はうなだれた。
やはり。しかし。
けれど次の瞬間に、彼は決断した。
「!」
「――もう血も流れていないのですね」
神父は一瞬の間に、卓の中央に座していた長老の胸を短剣で貫いた。
「なにを、」
声を上げたその隣の男の首を折り、逃げるように背を向けたその隣の男の背中を一突きした。
「貴様!」
向かいの男が銃を構え発砲する。弾は神父の左腕に確かに命中したものの、彼は一瞬たりとも苦痛の表情を見せなかった。赤い血を傷口から滴らせながらも、彼はその負傷した腕で、血が跳ねて汚れた眼鏡を外し、床に落とした。
「化け物か」
「お互い様でしょう」
彼はそのまま男に短剣を投擲し、男はこと切れて後ろに倒れた。
その隣で、最後のひとりがただ苦々しい面持ちのまま、マグナス神父を見つめる。
――否、マグナス神父であった男の姿は、この時既に別のものに変容していた。
ブラウンの髪、にこやかな瞳と、誰が見ても穏和に見える掴みどころのなかった容貌は一転。髪は炎のような真紅に染まり、鋭い眼光はまるで鷹。この世のものとは思えぬ神々しさの、中性的な顔。
さながらその姿は、まさに魔王。いや、むしろそれは。
「はは、」
最後の長老は笑うしかなかった。そして自ら舌を噛んで死んだ。
五つの死体に囲まれぽつりと佇む彼の頭上から、男の声が降ってくる。
「――見ものだったよ、ファントム」
彼の前に降り立ったのは、彼とよく似た容貌の紳士だった。黒い外套、真紅の髪、恐ろしいほど美しい顔。髪の色といい、その美顔といい、双子と言っても遜色のないほどよく似ていたが、纏う圧が違った。
「ご主人様、お久しゅうございます」
マグナスと名乗っていた男はその場に片膝をついて、もうひとりの男に首を垂れる。
「かつての戦友だったんだろう? 殺してもよかったのかい?」
「彼らは随分変わってしまいました。残念なことですが……しかし」
「しかしその変化が羨ましくもある。我々にはないものだから、ね」
赤毛の紳士――死神がそうぼやくと、彼はそうですねと同意した。
「さて私の
「今しばらくお待ちを。引き金がもう一手足りないのです」
ファントムの言葉に、死神はふふ、と笑みをこぼした。
「それなら早く言ってくれたまえよ。面白い駒なら私が沢山用意している。ママンもいないこの長い時間、とても退屈だったからねえ!」
嬉々と笑う主人に、ファントムは目を伏せ、数分前の自身の言葉を反芻する。
彼の主人こそ、まさしく神様なのだ。
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