悪魔祓いと女学院6

「……!」

「大丈夫だよ。マリっちは私の大事なルームメイトだから、出来るだけ痛くないように入れてあげる。ううん、痛くても、痛みを忘れるんだって。エリー、ミラ、ケイト、ジェシカ、サリー、リタだって、皆お腹にこれを入れられたこと、忘れてたもの」


 マリアは目を見張った。

 アンナの手に握られているのは、ここ2日マリアが格闘し続けた例の青い石だ。

 しかしそれよりももっと驚くべきは。


「アンナ、貴女、それ」


 アンナの胸元に埋め込まれた、禍々しく光る赤い石。

 他の少女たちに埋め込まれていた石とはまた違う。

 石は完全に彼女の身体の肉と一体化しており、あれを剥がすことは容易ではないことが見て取れた。


「なあに? マリっちはこっちに興味があるの? でも駄目、この石は私だけのものだよ。これは、私とあの人の『愛の証』だもの」


 半ば恍惚とした視線で、アンナは自らの胸元に光る赤い石を見つめる。

 洗脳されているのか、それともこれが彼女の本性なのか、マリアには判断がつかなかった。

 少なくとも言えるのは、アンナに悪魔は憑いていないということ。


「どうして、貴女がこんなことを」

「私の大好きな人がね、力が欲しいって言ったの。愛する人のために尽くしたいって思うのは、間違いじゃないでしょう? マリっちはさ、そういう気持ち分かってくれると思ったんだけどな」


 アンナは青い石を持った手を、まるで石鹸を滑らせるかのように、マリアの太腿に走らせる。そればかりか、その線を追うように唇をも這わせた。


「……やめて」

「ふふ、抵抗されるのって、なんだか新鮮。ぞくぞくするね。今までアルバ先生のおこぼればっかりで、皆半分眠っていたようなものだし」

「アンナ」

「本当に不思議。マリっちって不思議な魅力があると思うの。貴女の眼を見ていると、欲しくなるのよね」


 マリアの声は、今のアンナには届かない。

 アンナは狂気じみた真っ直ぐな青い瞳でマリアを見上げ、囁く。


「ねえ、ほら。はやく」

 ――脚を開いて。


 マリアは覚悟し、空いていた手を上げた。


「っ!?」


 次の瞬間、熱いものを感じてアンナはマリアから飛び退いた。

 彼女は何が起こったのか分からず、そのままその場にしりもちをつく。

 見れば、胸元に横一閃、赤い血が滴っていた。

 胸の石にも、ヒビが入っている。


「……え? なんで?」


 アンナは目の前に立つマリアを呆然と見上げる。

 彼女の手には、小さな刃物――髪留めに隠し持っていた手裏剣があった。

 アンナの胸元の石が、パラパラと砕けて破片が零れていく。

 それを見た彼女は胸を押さえて叫んだ。


「ひどい、ひどいよマリっち‼ なんでよりにもよってこれを壊しちゃうの!? なんで!?」


 アンナは顔を真っ赤にして、泣き喚く。

 ついにはマリアに掴みかかった。


「壊すぐらいなら殺してよ! ねえ!? ラモー先生にもらった、私の命より大事なものだったのに!」


 マリアはアンナの頬を平手ではたいた。

 アンナは衝撃で、再びその場に膝をつく。


「死ぬなら彼女らに謝罪してからになさい、アンナ・キャロル。貴女が真に他人を愛することを知っているのなら、彼女らが知らぬ間に貴女に奪われたものがどれほど大きいか分かるはずです」

「……、っ」


 アンナは頬を押さえ、口をつぐむ。


「……残念です。貴女とは良い友人になれると思ったのに」


 マリアはアンナの脇を通って浴場を出ていく。

 しばらくして、何もかも失ったアンナは声を押し殺して泣き始めた。




 ** *

 美術室は、半年前に壁を真っ白に塗りなおした特別教室のうちのひとつだ。

 真っ白なこの教室が、夕日の色で真っ赤に染まる時間を彼女はとても気に入っていた。

 気が遠くなるほどの昔、同胞の誰かが『故郷の空の色は赤いのだ』と言ったのを耳にして以来、彼女は赤色が好きになった。

 それはどんな赤なのか。純粋な赤なのか、朽ちたような赤なのか。それとも、想像もつかないような色なのか。

 夕焼けの色を眺め、まだ見ぬ故郷に思いを馳せることは、長く生きすぎた彼女の、唯一の楽しみだった。

 今日もそれを堪能し、彼女は日が落ちてからもずっとこの場所に佇んでいた。


 献身的な彼女の下僕――アンナ・キャロルのお陰で少しは力もついた。

 けれどどうやら、アンナの赤い石は割れてしまったらしい。

 青い石はいくらでも精製できるが、あの赤い石だけは精製するのに労を要する。

 今回も、そろそろ引き際が来たようだ。


「――何が目的だったのかな、あなたは」


 教室の扉が開いて、凛とした女の声が響く。

 現れたのは、赤い眼をした用務員だった。


 ミカエラ・ラモー――改め、彼女に憑いた悪魔は「来ることはわかっていた」と言わんばかりの笑みを湛えてロアのほうへと振り返った。


「こう言うとあんたに怒られるんだろうけどさ、ちょっとした休養のつもりだったんだよ」


 悪魔がそう言うと、ロアは「休養?」と僅かに首を傾げた。


「あんたはまだ若いから知らないんだろうけど、もうすぐ大きな災厄が降ってくるんだ、人にも悪魔にもね。それを乗り切るには私みたいな老齢の悪魔は力を少しでも蓄えておかなければならないのさ」

「悪魔にもそんな占術じみた思想があるなんて思わなかったよ」


 ロアの言葉に、悪魔はさらに笑った。


「信じないだろうなあ、そうだろう。こんな姿だから余計か? ならば見ろ、老いた私の姿を」


 悪魔はそう言って、ミカエラ・ラモーの身体を手放した。


「……!」


 干からびた、コウモリのような漆黒の羽根が広がる。

 ミカエラに憑いていた悪魔は本来の――老婆の姿を現した。

 ロアのズボンのポケットの中から、獣の形をした悪魔が顔を出す。


「コウモリ婆さんだ! ここら一帯長いことシマにしてた年季もんの悪魔デスぜ!」


 獣の言葉に、悪魔は軽く頷く。


「前回はそうだな、100年ぐらい前だ。大国間同士の大きな戦争があったろう? あれも災厄のうちのひとつさ。神様の加護がなくなったこの世界には、周期的に災厄が降りかかる。紛争、疫病、理不尽な迫害……信じないならそれでもいい。どうせそのうちすぐに分かるよ」


 ロアは少しだけ色を正した。


「……あなたが短絡的で凶暴な悪魔ではないことは分かった。しかし少女達から精気を奪ったのはいただけない。私はあなたを滅しなければならない」


 老齢の悪魔はゆるゆると首を振る。


「栄養をとることがそんなにいけないことかね。悪魔はただでさえこの世界で生きづらいのに、神様に見捨てられて故郷に帰ることも出来ない。あんたと親近感を覚えるって言ったのはね、あんたも似たようなもんだと思ったからだよ」


 悪魔の言葉に、ロアは目を細め虚空を睨む。


「あんた、吸血種だろう? 他人の血を啜ることでしか生きられない種族だ。どういうわけか教会に与しているみたいだが、居心地が良いわけないわな? あんたは悪魔の側にも、人間の側にも完全には立てない可哀想な子だ」


 悪魔は慈悲の表情を浮かべる。


「悪魔として生まれたわりに、取り立てて力があるわけでもなく、日陰でずっと生きてきた私には、あんたの気持ちが手に取るようにわかるよ。さぞ苦しいだろう」


 その言葉に嘘はない。

 老齢の悪魔には、悪魔祓いに攻め込まれる場面をやり過ごす体力も、力もほとんどない。

 彼女にあるのは、歳を積み重ねて得た処世術のみだ。


 老いた姿をとれば、大抵の相手はひるむ。

 こちらから手は出さない。思慮深さを見せるためだ。

 相手の不幸な境遇には同情を見せればいい。

 そうやって、油断をさせて、逃げおおせられれば上々。

 ――そして、籠絡できるのならば、なお良い。


 ミカエラに代わる、新たな身体が彼女には必要なのだ。


 老婆はゆっくりとロアに近づき、皺が深く刻まれた手でその頬に触れようとする。

 そこへ


「――その人に汚らわしい手で触れないでくれますか」


 静かな怒りを瞳に宿す、栗色の髪の少女が現れた。


 ロアは彼女のほうを振り返る。悪魔は手を止め、素直に一歩下がった。


「ロアがあなたを罰せなくても、私はあなたを許しません。何故だか分かりますか」


 明確な殺気を纏いながら、少女は間合いを詰めていく。

 彼女の手には、長物の武器が握られていた。


「……さて、ね。アンナに犯されでもしたかな、お嬢さん。でもそれは、あの子が進んでやったことだよ」


 そう言いながら、悪魔は気づく。

 引き下がろうという意思に反して、自らの足が全く動いていないことに。

 かつてないほどの危機感に、脂汗が噴き出してくる。


「ねえ、私は悪くない、悪くないよ、ねえ? 我が同胞! あんたなら分かるだろう!?」


 悪魔は頼みのロアに懇願するも、彼女はただ無表情に、紅い視線を投げるだけだった。

 先刻まで迷いに染まっていたその眼は、ぞっとするほど怒りに満ちていた。


 悪魔は間違いに気づく。

 自らが、彼女の前で言ってはならない言葉を吐いたことを。

 彼女がどうして教会に与しているかをもっとよく考えるべきだった。

 彼女が立つのは、教会の側ではない。

 あの少女の傍らなのだ。


 栗色の髪の少女が、その刃を鞘から抜く。

 僅かな月の光を集めて輝くその白刃は、まさしくコウモリの悪魔にとって、首を落とす死神の鎌だった。


「Vieille peau,あなたの罪は、アンナの心を弄んだことです。あなたは自身の手を汚さず彼女を操り他の少女も傷つけた。それを言い逃れするのは見苦しい」


 時が止まったかのような感覚。

 死の間際とは――散る瞬間とはこういうものなのだと、老齢の悪魔は瞬時に悟った。


 容赦なく白刃を振りかざす少女の瞳は、どちらが鬼かと憎らしいほどに冷徹で、しかしどうしてか、目が離せないほどに美しかった。


 心臓を、魂を掴まれるような冷たさ、鋭さ。

 その真っ直ぐさ。


『魔界の空は赤いんだよ』


 夕焼けのような赤を、彼女は少女の瞳の中に視た。


 それが自らの血しぶきの色だと理解したときには、コウモリの悪魔の身体はこの世を去っていた。

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