悪魔祓いと魔女8

 ふたりがボルドウの屋敷に帰り着いたのは、出立した日から数えて5日が経過した夜だった。


「……疲れた」

「移動の距離も長かったですしね」


 くたびれた様子で居間のソファーに腰かけるロアに、マリアが言う。


「さあロア、脱いでください」

「――へ?」

「へ? じゃないです。貴女背中に大やけどを負ったでしょう? 外では人目を気にして診られませんでしたが、屋敷の中ならもう大丈夫です。さあはやく」


 マリアはロアのシャツに手をかける。ロアは慌てて飛び退いた。


「いや、ちょっとま、平気! 平気だから脱がさないで!」

「何を今さら恥ずかしがっているんです? 貴女の肌はもう見慣れています」

「傍から聞いたら誤解を生みそうな台詞を真顔で言わないで!?」


 わんわんと抵抗し逃げようとするロアを掴まえて、マリアはやや強引にロアのシャツの背中の部分をたくし上げた。


「……、」


 マリアはそれを見て絶句する。

 ロアの背中は火傷の痕跡などひとつもなく、綺麗なものだった。


「あのね、ミズ・シーラーに治してもらったんだ。綺麗でしょう?」

「……え、ええ」


 ロアはぱっとシャツをもとに戻して、マリアの手をとる。


「それよりマリアの腕の怪我をちゃんと手当しなくちゃ。先にお風呂に入って、包帯を巻きなおして。マリアの怪我も治してもらえばよかったね、思い至らなくてごめんね」

「大怪我ではありませんでしたし、それは別に構わないのですけど……。私、今回は役に立たないどころか貴女の足を引っ張ってしまって……」


 すみませんでしたと俯き加減に謝るマリアの瞳は、少し赤くなっていて、潤んでいるようにも見えた。ロアは両手でそっとマリアの頬を覆う。


「君を連れ去られたのは私の落ち度だよ。君を守るって、偉そうなこと言ったのに、怪我もさせて、本当にごめん」


 ロアの紅い瞳に後悔の色が滲んでいる。マリアは自身の頬に触れるロアの手に重ねるように手をやった。


「いえ、貴女は言葉通り私を守ってくれました。貴女が謝ることはないのです、ロア。……私ももっと悪魔祓いとして研鑽しなければなりませんね」

「マリアはそのままでいいよ、私がもっと……」

「いえ、そういうわけにはいきません。絶対に」


 ロアが少し驚くほど、マリアははっきりと答えた。

 先ほどまでの憂いの表情から、決意のそれに変わっている。

 なにかあったの、とロアが尋ねる前に、マリアがロアの手を解いた。


「お言葉に甘えて、先にシャワーを浴びてきます。すぐ出ますから」


 マリアは足早にシャワールームに向かった。


 5日ぶりの、クロワ家のシャワールーム。

 蛇口をひねってしばらくすると、シャワーヘッドから温かいお湯が雨のように降ってくる。

 腕の切り傷にお湯がしみて痛んだが、マリアの意識はその痛みよりも、あの一本角の悪魔の言葉に寄っていた。


『一度悪魔に身を堕とした者がそうも容易く人間に回帰できるものか』


 そんなことは分かっている。

 予知能力保持者の存在を知って浮かれてしまった自分が、今になって思い返すほどに恥ずかしく、馬鹿らしい。


『あれは確かに、今は見苦しいほどに半端者だが、徐々に私のようなスピリチュアリテに近づくぞ。悪魔の侵食に例外はない』


 ――その前に、なんとしてでも糸口を掴む。

 喉の奥に鉛が詰まったような息苦しさを感じながら、マリアはぎゅっと、目を閉じた。




 マリアがシャワールームから戻ると、ロアは彼女の定位置であるロッキングチェアに座ってうたた寝をしていた。

 その、呆けた寝顔にマリアは破顔する。


「……もう、眠るならちゃんとシャワーを浴びて寝室で寝てください」


 マリアがロアの肩を揺さぶると、彼女は重たそうな瞼を開いて寝惚けた声を上げた。


「……ふぁい」

「お風呂に入りながら寝ては駄目ですよ。溺死しますから」

「…………寝そう」

「ふかふかのベッドが待っていますよ」


 するとロアはマリアの腕をそっと掴み、少し湿り気を帯びた紅い瞳で彼女を見上げた。


「……マリアは待っててくれないの?」


 真っ直ぐにそんなことをねだられて、マリアはしばし硬直する。

 そして、観念したように


「…………ふかふかのベッドで待っています」

「やったぁ」


 現金なもので、ロアはマリアのその返事を聞いた途端に元気よくシャワールームに向かっていった。


「もう」


 マリアは苦笑交じりの息を吐き、一足先に二階へと上がった。


 ** *

「ねえマリア。眠る前に、君にひとつだけ言っておかないといけないことがあるんだ」


 数日ぶりのふかふかのベッド。

 ロアの部屋のベッドはいわゆるクイーンサイズで、大人がふたり、ゆったり並ぶことが出来、かつ、シーツも肌触りの良い上等な品で、疲れた身体でひと転びすればすぐに幸福な眠りへと誘う船だ。

 しかし、ベッドに入ればあとは眠るだけ、というマリアの考えは甘かった。


「……それは、このような状態で言わなければならないことですか?」


 ベッドの上で、ロアは横たわるマリアの動きを封じるように手をつき、覆いかぶさるようにして彼女を見下ろしていた。


「うん。マリアには少し反省して貰わないといけないからね」

「反省」

「少し時間をあげるから考えてみてね」


 ロアは目を細め、一見愉しげにしているようにも見えるが、その笑みの中に潜むそこはかとない不穏さをマリアは肌で感じ取った。


「……怒ってます?」

「うん。ちょっとね」


 マリアは非常に申し訳なさそうな顔をして小さく呟いた。


「先に居眠ってしまってすみませんでした」

「そんなことでは怒らないよ。マリアの寝顔は可愛いしね」


 ロアの発言内容はともかく、そのことでないとなると一体何なのか、マリアにはさっぱり見当がつかない。


「思ったよりも留守が長くなって領主としてのお仕事が溜まってしまったから?」

「違うよ」

「わかりました、お腹が減ったんですね? 夕食を作らなかったから」

「違うってば! 小屋の時といい、わざと言ってるの!?」

「もう! もったいぶらないで言えばいいじゃないですか!」


 ロアがぎゅ、と唇を噛む。


「…………私以外の人のメイドなんて、しないでほしかった」


 ロアが絞り出した声は、本人にとっても恥ずかしかったのか非常にか細く掠れていて、なんだか本当に、子どもが拗ねたような声色だった。


「そのこと、まだ引きずってたんですか……?」


 マリアは、もともと丸い栗色の目をさらに丸くして目をしばたいた。ロアはうぐぐとさらに唇を噛みしめる。


「ひどいよマリア! 私はあの屋敷にいる間ストレスでハゲそうだったのに、マリアはすんなりメイド服に袖を通すし、掃除も、料理もそつなくこなして!」

「そんな涙目になって言わなくても……それにメイドといっても条件付きの一時的なものでしたし」

「一時的でも嫌だったの! マリアは私が別の人の使い魔になったらどう思うの!」

「それはまずないでしょう」

「仮の話!」

「……まあ、嫌ですけど」


 ほらね!? という勝ち誇った顔をするロアに、マリアは内心やれやれと溜息をついた。


「――それで?」


 マリアの瞳が、ロアを試すように見つめる。


「貴女はどうしたら私を許してくれるんです?」


 いつの間にか見せるようになった、少し大人びた微笑。

 そして、ほんの少し意地の悪い、穏やかな声。

 マリア自身は無自覚なのかもしれないが、それらはまるで強酒のようにロアを煽り、頭をくらりと刺激する。

 その刺激を奥歯で噛みしめて、ロアは口の端を僅かに上げる。


「マリア。それだと、何でもしてくれるみたいに聞こえるよ?」


 マリアは案の上、少し赤くなって否定した。


「別にそういうつもりで言ったわけでは、」


 言い切る前に、ロアの顔が近づいて、マリアは思わず目を瞑る。

 身構えていると、ちゅ、と優しく額に口づけられて、マリアはそろりと目を開けた。


「知ってる。けど誤解させるようなことは言わないほうがいい。私以外にはね」


 ロアはそう微笑んでから身体を起こし、掛け布団を引き上げて、改めてマリアの隣で横になった。


「……、」


 なんだか納得がいかないマリアはむ、と口をとがらせつつ、隣で瞼を閉じようとしているロアを睨む。

 その視線に気づいたのか、ロアはマリアのほうに顔を向けた。


「どうしたの?」


 ロアの、少し愉しげで意地悪な声に、マリアはさらにへそを曲げた。


「何でもありません」


 そう言い放ってマリアはロアに背を向けるように寝返りを打つ。


「拗ねてるマリアも可愛いね」

「拗ねてませんから。からかっていないで寝てください。貴女だって疲れているでしょう」

「はぁい」


 ロアはそう返事すると、マリアの背後から彼女の腰に手を回し、身を寄せた。


「……こうしたらようやく安心して眠れる」

「私は抱き枕ではないんですけど」


 そう言いながらも、マリアはそのまま離れることはせず、自らの手をロアのそれにそっと重ねた。


「おやすみなさい」


 暫しの安寧の夜。

 ふたりは確かな温もりを感じながら瞼を閉じた。

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