眠り

 龍は話を続ける。再び顔の高さを合わせてやや左を向き、右目で僕を見ている。瞳孔が周囲の暗さに合わせて丸く開いていた。

「靴は大きな判断材料になったのは確か。だけどそれでも確信があったわけではないの。あなたは英語やペルシャ語で答えたかもしれなかった」龍は言った。

「もし君が英語で話しかけていたら、僕も英語で答えていたはずだ」僕はあくびをしながら答えた。あくびにつられて目を瞑りそうだったけれど、危うく頬を下げて我慢した。「もしそうだったなら、僕は君に対してこんなに心を開いていなかっただろうね」

「母語でなければ、心を開けない?」

「いいや、そんなことはないよ。最初の一声さえ僕の母語だったなら、今この会話は英語で交わしていたって別に構わないだろうと思う。つまりね、最初から君が僕の母語で話しかけたことによって、僕は君に見透かされたような感じを受けたんだ。君のことがいっそう非現実的で超越した存在に思えた。抵抗も拒絶も無意味であるように感じられた。あるいはそれは諦めと表現してもいいものかもしれない」

「諦め」龍はその言葉の音を確かめるように口にした。

「そう」

 龍は両肘を地面に置いて体を伏せ、足を動かして体の下にある石を外へ掃き出す。首を少しもたげて顔の高さを合わせた。

「だけど、ねえ、人間さん、あなたは本当に心を開いているのかしら?」龍は訊いた。

「どうだろう」

「あなたはとても疲れているように見えるわ。あなたはとても眠たそうに見える。そのせいであなたはとても険しい顔をしている。だけど私の前で休もうとはしない。そこにはまだ警戒心が感じられる。きっとまだ不安なのよ。あなたにとって私が有害な存在でないかどうか。たとえ私が勤めて友好的に接しても、私の望むと望まざるとにかかわらず、私の存在そのものがあなたに害を及ぼしたり、危険を招いたりすることはあるでしょうからね」

「うん。それもあるだろうね。ただね、それは君が消えてしまうことへの不安に比べたら大したものではないような気がするよ。僕は君から目を離したくないんだ。何しろ僕は疲れているし、君がもし夢や幻覚の中の存在だったら、きちんと見ておかなければ消えてしまうかもしれない」

「あなたはまだ私を見ていたいのね」

「そうすべきなのだと思う。今日のうちにもう少し距離を稼いでおきたい気持ちもあるのだけどね」

「あなたの使命は街に辿り着くことであって、歩き続けることではないわ。あなたの他に人間の気配もないし、それにもう日没よ。今日はここで休みなさい」

 稜線の影が赤い線になって東の空に伸びている。急速に夜が近づきつつあった。僕たちのいる小さな盆地ももう半分以上が陰に覆われていた。日向は東の稜線に三日月のようになって残っている。龍の体はそうした薄闇の中で仄かに明るく見えた。刻々と変わる夕暮れが龍の存在をいっそう不確かなものに感じさせた。

「わかった。今日はここで休もう。僕が思っていたよりも時間が経っていたみたいだから。でも、君はどうなの? 君にはまだ人間に会うつもりはなかった。僕が近くにいても不都合はないと、本当に言えるだろうか」

「ええ、言えるわ。あなたは私にとって有害なものではない」

「そうか」僕は絶望的に頷いた。龍にとっての人間の価値と、人間にとっての龍の価値の間には果てしない高度差があるのだ。

 僕は重たいリュックサックを下ろした。足元に尖った石が落ちていないか確かめてから座る。途端に足の裏が充血して膨れてくるのを感じた。靴紐を緩めて圧力を逃がす。

 太陽の明るさはものすごい速さで稜線の向こうに逃げつつあった。先ほどのわずかな日向ももう消え去っていた。

「でももう少し話を続けてくれないかな」僕はブーツの口を広げながら言った。

「いいけど、何を話すの?」龍は体の下で地面の砂を触っていた。

「君は人間のことをよく知っている。でも僕は龍についてほとんど何も知らない。僕が知っているのは、君が人間の研究にやってきたこと、龍という種族が道具を持たず、目的に合わせて長い時間をかけて自らの身体を変化させること、その程度だ」

 僕はとても疲れていたし、シューシュタルに辿り着けるのかどうかについても常に考え続けていた。そんな状態で龍の難しい話を理解できる余裕があるとも思えなかった。けれど聞いておかなければきっと後悔する。そんな予感はあった。もし生き残って考える時間ができたなら、その時にきちんと解釈すればいい。

「あなたは龍について知りたい」龍は言った。

「知りたい。例えば、龍は眠るのだろうか」

「眠る。龍にも眠りはあるわ。本質的には、とても大きな自己変化を行う時に、その変化を早めるために眠るの。自分の内側と自分の外側とを切り離して、内側の変化に集中するのよ。外から見るとそれが眠りに見えるの。人間の眠りと似たような状態になるのよ。それとも、私は自分が調べたものや観測したものについてじっくり考えを巡らせる時に自分が眠っていると感じることもあるわね。人間の眠りにはその日の出来事を整理して概念的な記憶に変換する機能があるのでしょう? だとしたら意味的には後者の方がより眠りに近いと思うの」

「龍は記憶の概念化を行わないの?」

「行うわよ。だけど人間のように全ての出来事を概念化するわけではなくて、そのままの記録として残す機能も持っているし、概念化の作業のためにいわゆる『意識』を停止するのは非合理的だという考え方が支配的なのよ。もちろん好き好んで眠っている個体もいるのでしょうけど」

 僕は様々な体の色をした龍の長老たちが「眠りは非合理」と題打ったビラを街角のあちこちに貼り付けていく様子を想像した。若い龍はビラの内容になんか目もくれず、片笑いで颯爽と通り過ぎていく。

 でもそんな光景は現実にはあり得ない。龍は道具を持たないのだ。ビラのための紙もインクも、糊だってありはしない。だいたい「龍の街」というのが存在しないのだろう。ビラを貼り付けるべき建物も、颯爽と通り過ぎるべき道も。

 考えるうちに僕はとても自然に目を閉じていた。僕は自分の膝を抱えたまま眠りかけていた。

「眠いの?」龍が訊いた。

 もし龍が幻覚だったなら今の不注意で姿を消していたかもしれない。でも実際には龍の声は聞こえたし、目を開けると龍はそこにいた。

 もう周囲は真っ暗だった。龍の体を膜のように覆っていた淡い光も消え去っていた。龍の羽毛は周囲より少し色の薄い紺色で塗り込められていた。

「また険しい顔をしてる」と龍。

「僕には自分の眠りを押しとどめる機能はないみたいだ」

「お眠りなさい」

 僕はリュックサックから寝袋を外して膨らませた。ブーツを完全に脱いで寝袋に入り、上体を起こしたまま前を閉める。

 龍は僕の方へにじり寄って、右手を伸ばして指の背で僕の額に触れた。羽毛は筆のようにしなやかで柔らかく、その下にある皮膚は温かかった。龍は指の背でそのまま押して僕を寝かせた。

「感じられる?」龍は訊いた。

「温かい」

「私はここにいる。その熱が私の存在を示してくれるわ」

「触れられるものは、存在するのだろうか」僕は重い睡魔の中から訊いた。

「存在するもの全てが触れられるとはいえない。でも触れられるものは存在している。人間にはそうした機能があるのでしょう?」

 その言葉は急速に沈みゆく僕の意識の穴にするりと滑り込んだ。そして暗い洞窟の中で反響を繰り返していた。

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