3. 失敗



「きっと、何か原因がある。事前に口にした食べ物とか、あの場所に流れる風とか、あの奇妙な老鳥の言葉とか…」


姉がぶつぶつと呟くように、独り言を言う。


我々が兄を失ってから、3日が経っていた。兄の喪失は巣の中で誰よりも、姉を神経質にさせていた。


家族は口にしないが、姉があの台座にあがる日がもうそこに迫っているのは、誰もが感じていた。


決して他人事ではない。自分だってすぐに同じ舞台に立つ日が来る。そう理解しているのに、ここ数日の自分の意識は、姉の行動や言動に向かっていた。


その日、姉は前に立ちふさがり、命令した。


「お前、私が飛ぶ時に一緒に登れ。台座に立つ私の背後にいて、巣立ちの儀式を見ているんだ。そして何か怪しい変化があれば、すぐに私に合図しろ」


冷静で知的で、そして傲慢な姉らしい言い方だった。けれど自分は躊躇した。すぐに同意できない理由があったからだ。


「ふん、意気地なしめ。そんなに掟が怖いか。『試練へ挑む時、台座へ登る者はひとり』。呪縛に惑わされおって」


姉の嘲笑はどんな海風よりも冷たく染み込んだ。


「どんなに古い言葉が語ろうが、しなびた老鳥が口を挟もうが、そこから飛んでしまえば終わり。その者が勝者なのだ! これは私の巣立ち――誰にも邪魔をさせるものか!」


姉は唾を吐き、最後にこう告げた。


「弱き弟よ、ならばその安全な・・・場所で震えながら、私の儀式を見ているがいい。せめて――出来るものなら――何か異常を感じた時には、大声を出して私に呼びかけろ。貴様も高き空を舞う一族のはしくれだ。それぐらい可能だろう」


言い捨てると、彼女は翼をひるがえし、巣の奥へと歩き去った。自分には姉の白い背を見ても、言葉のかけようがなかった。そして振り向いた時にそこにいた両親も、黙って去りゆく娘を見つめていた。



次の日も来てしまった。


朝焼けが終わり、もう海からだいぶ離れた太陽が、岸壁を白く照らしていた。風も少なく天候はとても恵まれていた。


両親の始まりの鳴き声を耳にした姉が、無言で前を通り過ぎていく。ちらりと目の端で自分を見たように思えた。そうだったとしても、それは一瞬だった。


姉は兄が登った崖に足をかけた。彼女の方が少しだけ体重が軽いせいか、身のこなしは滑らかで、無駄がない。岩から岩へ次々とジャンプし、あっという間に目的の台座まで登り着いた。


自分が巣穴から頭を出すと、すでに台座の上で、周囲の様子を確認している姉の顔が見えた。例の老鳥はまだ来ていないのだろう。


少しの時間も無駄にしたくないのか、用心深く息を吸い込んだり、鉤爪で足元の岩の硬さを確認するなど、姉は準備に余念がなかった。


バサッと、今度は誰にでも聞こえる音と共に、天空から老ハヤブサが姿を表した。彼はゆったりと回転しながら滑り降りてきた。兄の前にあらわれた時と同じ、岩から突き出た枝に止まった。


見つめ合う2羽。激しく何重にも鳴り響く波音のせいで、彼らの会話は相変わらずよく聞こえない。


何か確認の言葉を投げられたのだろう。姉は口を閉じたまま、静かにうなずいた。


ここまでは何も変わらない。儀式の進行は兄の時と同じだった。


けれどその場にいる姉は、兄よりもさらに落ち着いているように見えた。


「今度こそ、旨く飛べるかも知れない」


だんだんと、そう思えてきた。ここで仲間の1羽が飛び立てば、悪い流れが断ち切られ、自分にも生のチャンスが舞い降りる可能性もある。


不安な気持ちが払拭されて安堵に変わる、そのほんの1秒手前だった。


「ピィーーーーーーー!!」


あらゆる周囲の音をつんざいて、悲鳴が聞こえた。巣の両親や自分はもとより、周囲で暮らしている同朋や、獲物の海鳥でさえも、その異様な音が聞こえたと思う。


悲鳴の主は、自分の姉だった。


できればその姿を見たくなかった。けれど見えてしまった。


気の毒なぐらい、兄とそっくりな怯え方。彼より落ち着いていただけに、その後の狼狽する様子がいたたまれない。


彼女もまた、何かを見て、我々にはわからない恐怖の影に怯え始めていた。


この儀式の間で始めて、父と母が顔を見合わせ首を振った。


「そんな…」


まだそれ・・は終わっていない。なのに諦めの仕草を見せる父と母に、思わず声が漏れた。


姉が再び、金切り声を上げた。今度は苦しみを訴える叫びだった。


そうすれば痛みから逃れられるかのように、姉はしきりに上下に頭を振り、顔をかきむしった。


それでも、彼女は耐えていた。何とか目を見開いて意識を保つ。ただそれだけに精一杯で、体が左右に揺らいでいた。


このままでは兄と同じ命運をたどってしまう。


そんな時、自分はすっかり忘れていた事を思い出した。


もうすでに遅いかも知れない。けれど、すがる思いで精一杯息を吸い込み、思いっきり大声で鳴き叫んだ。


奇跡的に、自分の声が岩棚にいる姉に、届いたようだった。


姉の激しい動作がピタリと止まった。激痛に耐えるため、強く押し付けていた鉤爪が顔面に食い込み、額が赤い血に濡れていた。


荒い息であえいだ後、彼女は弟の声に応えて、こちらを振り向いた。


いままで側面からしか見えなかった姉の顔を、あらためて正面から見ることができた。


その異様さに驚愕した。


左側の眼球が真っ赤だった。そして目をぐるりと一周、取り囲むように血が吹き出ていた。


「ぐぐぐ…」


目元からゴボゴボと血が溢れ、赤い涙の筋が頬を伝って伸びていった。その血化粧は、大人たちだけに付いている、くまどり模様を思い起こさせた。


血まみれの眼が眼窩の中で、ぐるりと半回転した。言葉にならない原始のうなり声をあげる姉に、もはや意識があるのかすら、わからない。


苦しみに暴れる姉の動きがだんだんと鈍くなっていた。それだけ体力を消耗している証拠だった。


大地をつかんでいた片方の膝ががくりと折れた。バランスの崩れた体が、吹き下ろす風の圧力に耐えられなくなっている。


この台座は、実は海に向かって少し傾斜していた。まもなく訪れるであろう死が、姉の体へ手を伸ばし、崖のある方へと引きずっていくようだった。


どうしようもない。


悲しみとかそんな感情はない。ただもう一度、自分は無意識に姉を呼んでいた。


一瞬だけ、ずり落ちる姉の瞳がうっすらと正気の光を帯びた。そして姉の口が言葉を形作った。音にならずとも、その意味が理解できた。


「あなたには無理…逃げなさい…」


そして、彼女は落ちていった。


途中、尖った岩に姉の頭が当たり、血しぶきがとんだ。その勢いで体が縦に回転し、力の失われた羽がばっと開いた。


その後も彼女は何度も岩にぶつかり、ねじれ、やがて見えなくなった。

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