ホルスの目

まきや

1. ハヤブサ



さっきから数種類の音が、繰り返し入れ替わり、頭の中で聞こえている。


速く冷たい風が、耳元の空気を切り裂く音。


同じその風にのって聞こえる、波が岸壁にあたって砕ける時の音。


風に強い草たちが、海風に揺れて擦れる、不規則な調べ。


自分のトレッキングシューズが、ざっざっと、足もとの砂敷きの細道を、踏みしめていく音。


そして――遥か上の空から降りてくる甲高いキィという猛禽の鳴き声。


「ずいぶんと高い所を、飛んでいるなぁ」


その独り言を、歩き続けて荒くなった息とともに、吐き出した。


オレンジ色のキャップをかぶる女性は、ひときわ大きな息継ぎをして、その場で足を止めた。


ずしりと重く食い込んでいた、バックパックのショルダーストラップを、肩からそっとずらす。筋肉が紐の形に痺れていて、その部分の感覚が極端に鈍かった。


彼女は背負っていた荷物をいったん地面に下ろし、痛む腰に手を添えた。ぐっと背筋を反らすと、自然と顔が空の方を向いた。


キャップの下で、球になっていたいくつもの汗が、振動でくっつき、筋となって額から流れ落ちてきた。その汗の量が、重い荷物を何キロも歩いて運んできた、証拠でもあった。


彼女はスポーツタオルで汗を拭き取った。サイドポケットに入れていた水筒を取り、水分を補給した。曲げた膝に手を突き、下を向いて、復活の為の呼吸を何度か繰り返した。


県道脇の駐車場から海を目指して、もうだいぶ歩いていた。けれど、どこまで進んだのか、わからなくなっていた。似たような景色が続くので、距離感が麻痺しているせいだ。


彼女は周囲を眺めて、自分がいる場所をあらためて復習した。


ここは県内の最も東で、太洋を望む海岸の続く地域。厳しい自然が作り出す切り立った崖が、ギザギザの海岸線を作り、どこまでも続いている。


鳥になって、上空からこの地を眺めてみよう。地図上の、海と陸地の分け目に線を引き、その上に掌をペタンと置いてみる。そうすると、この地と同じ形を立体的に再現できる。


突き出た指に例えられる部分は、長年の波の侵食を耐えて残った、堅固な岩で出来た地層にあたる。指と指の間は荒波が寄せる海だ。この指型の岩が残っているおかげで、人は県道の走る指の根元の部分から、岩の背の部分を通って崖の先端まで、歩いて移動することができるのだった。


ただしここを通る道に、ろくな舗装はされておらず、ひとり分の道幅しかない。飾り程度に、鉄の棒が均等に地面に打ち込まれ、細いロープで結ばれているけれど、それだけでは崖下に転落する事故を防ぐのは容易ではなかった。


そんな危ない道を苦労して進んでも、最後は単に崖の上で行き止まりになるだけである。道中に案内板など、もちろん無い。観光客なら途方にくれるだろう。


つまりここを歩く者は滅多におらず、前回も今も、途中で出会う旅人はいなかった。


少し息が落ち着いてきた。よくよく確認すれば、道の先の方に目指す教授のいる、迷彩模様のテントの先端部分が、ちゃんと見えていた。


なんだ、と思った。あと2分休んだら再出発しようと、自分に言い聞かせた。


荷物を下ろし、感覚の戻ってきた肩をさする。そうしながら、彼女は水平線の彼方を見つめ、ぼうっと考え始めた。意識が内面に沈んできて、自分のポニーテールが風ではためいている音が、聞こえなくなってくる。


ここ2週間で数度この場所に来ているが、いくら見ても美しい場所だった。


けれど、この場所に生きる動物にとっては、どうだろう。いくら空や海が青くても、たとえ空気が澄んでいても、きっとここは厳しい世界に違いない。


適応できた、もしくは適応せざるを得なかった者たちだけが、この場所で暮らすことを許されているのだろう。


考え込む彼女の意識に再び、上空からの鳴き声が割り込んでくる。先程よりも少し低い空に、真っ白な姿が見えた。


ハヤブサだ。同じ属の猛禽の中で、いま見ているこの鳥は、大きい部類に入る。頭から広げた羽の先まで、羽毛に包まれた部分は、とにかく白かった。


もし曇っていたら、空に同化して姿が捕らえられなかったかもしれない。しかし今日の晴れわたった青空を背景にして、1羽の姿はくっきりと浮かび上がっていた。


人の気配に気づいたのか、獲物を探しているのか。理由はわからないが、鳥の顔が動いて、彼女の立っている地表の方を向いた。


種類はわかっていたけれど、あらためて顔が正面から見え、彼女はそのハヤブサの最大の特徴を見てとった。


鳴き声の主。名前は『ユキハヤブサ』。


その鳥こそが、彼女をこの地に連れ出し、崖の道を歩かせている理由わけだった。



――



道の終わりの場所は、意外にも広く、車2台が停車できそうな、円形の更地になっていた。鉄の棒とロープで出来た柵がそこで終わり、もう先に道が無いことを示していた。


広場の真ん中を陣取って、クレセント型のドームテントが設営されていた。テントの外側の布地は、目立たないよう岩肌と砂に似た色に塗られている。テントの天蓋と側面に、まだ葉が付いている木の枝がまばらに、くくり付けれられていた。間に合わせのカモフラージュだろうか。


強い風が吹くたび、手を振るように枝が大げさに揺れていた。これはこれで、目立つんじゃないのか? 女性は素直に思った。


テントの海に面した側の布地には、何個かの丸い穴が開けられていた。そこから鳥類観察用の単眼望遠鏡フィールド・スコープの先端や、カメラに取り付けられた黒い望遠レンズの筒が、ニョキっと伸びている。


この自然の中に置かれた個室には、すでに先客がいるのだ。その証拠に、テントの入り口に男性サイズのトレッキングシューズが置いてある。またテントの中から、ゾゾッ、ゾゾッっと、不規則に音が響いていた。


彼女はテントの入り口に手をかけ、ジッパーを開いた。



「おう、もふろうはんご苦労さん


テントの中であぐらをかいていた男性が振り向き、もごもごと口を動かした。むわっと漂ってきた匂いは、できあがったカップラーメンのそれだった。


「また食べてるんですか…」


入り口から顔を出した女性は、諦めの混じった声で指摘した。


まは、ふはつめだよまだ、2つ目だよ


反論したつもりだろうが、言葉になっていない。


「はいはい」


そう、慣れた口調で切り返す。女性の言った「また」は、カップ麺の塩分量への指摘ではなく、種類の事だったのだが、相手が気づいた様子はなかった。


こんな無頓着な人の職が教授で、名の知れた鳥類学者だなんて、まったく信じられなかった。


彼女は引きずるようにして、重い荷物をテントの中に引っ張り込んだ。


荷物の口を縛る二重の紐を緩めて、食料の入った大きなビニール袋を外に出す。


「それで、巣立ちの兆候はどうなんですか?」


「…メシメシ…あった、スニッカーズ! 孤独なせいか、寒いせいか。体が甘いモノを求めて仕方ない」


「もう、黒木教授! 質問に答えてくださいよ!」


「ああ、ごめん、平子くん。私が注意散漫なのも、君が苛つくのも、たぶん私のせいではなく、脳の糖分が足らないせいだろうね」


「またワケわからないことを言って…」


平子と呼ばれた女性は、教授の手から、チョコを取り上げたくなる衝動をおさえた。


「だいたい荷物が多すぎですよ。機材ならまだしも、おやつとか趣味のものとか…しかも、か弱い女性に運ばせてるの、わかってますか?」


「もちろんだよ。けれど今は君に、謝罪する暇もないんだ。この観察で最も重要な、巣立ちの直前なんだからね。泊まり込んででも、私が現場を押さえにゃならない」


「(カップラーメンのお湯を沸かす暇はあるのに?) 私の貴重な夏のバカンスが冬休みにならなきゃ、何も文句は言わないんですが…」


そうやってクレームを出す時に限って、教授の注意は都合よく、望遠鏡とPC直結のモニタに移る。


わかっているのか、いないのか。黒木教授はとぼけた顔で、こちらに振り向いた。


「ん? 何か言ったかい?」


「いいえ! なんっにも! それで、何か新しい絵は撮れましたか?」


教授は縦型グリップが付いた、頑丈そうなデジタルカメラを取り出した。おもむろにプレビューモニタをONにする。


平子は映し出された四角い映像の中に、羽を広げて飛翔する猛禽の姿を認めた。


ハヤブサ目、ユキハヤブサ。


体長は50センチ程だが、羽を広げれば1メートルよりも大きく見える。


腹部に模様を持ち、翼が黒い大半のハヤブサと違い、この種は全身がどこもまでも白い。


それだけでもかなり珍しい種なのだが、さらにこの鳥は自身の存在を際立たせる特徴を持っていた。


それは彼らの目の周りを覆う、赤いくまどり模様だった。なぜか顔のこの部分だけに、真紅の毛が生えているのだ。


さらにこの模様に最後の仕上げをするように、両目の目元から、涙のような線が赤い筋となって、頬の上まで伸びていた。


この印象的な装飾に、鳥類学者たちは夢中になった。そして――敬愛をこめて――エジプトの神にちなみ「ホルスの目」と呼んでいた。


つまりこの特徴こそ、ユキハヤブサそのものだった。


ただこの「目」には不思議があった。


模様はオスにもメスにもある。けれど生まれたばかりの雛鳥たちを観察しても、それは刻まれていなかった。


成鳥となって飛び立つまでのどこかの段階で、突然この模様が現れるのだと、地元の人間は言う。その興味深い特性は、世界の鳥類学者の興味を惹きつけていた。


そのひとりが東西大学・理学研究科の黒木教授であり、平子は彼の助手として、フィールドワークの手伝いをしていた。


黒木教授の「変人」ぶりには手を焼いている。けれど学者の端くれとして、この鳥を研究する熱意は、平子の胸にも宿っていた。


「ほんと美しい鳥ですよね。この優美さ、そして力強さ。この場所では敵もいないし、ピラミッドの頂点にいる存在でしょう? そりゃあ、飛び心地は最高でしょうね」


平子は次々と入れ替わる画像に魅入られながら、呟いた。


「そうだろうか?」


教授は急に真面目になり、顎に手を添えた。


「あの鳥の美しさは、我々の感じるものだ。飛んでいる彼らの本当の気持ちなんて、わからないよ。それにね、なぜか僕にはあの子たちが、とても辛そうに見えるんだ」


平子は、はっとして教授を見た。たまにこの人はそんな悟った顔をする。その特異な視点で、私にはわからない何かに気づいているかのように。


最後にカメラのモニタは、ハヤブサの巣を映し出した。巣は岩棚にぽっかりと空いた穴を利用していた。その中に白っぽい生き物が映っていた。ここ1週間以上ずっと、教授と私の体と心を捕らえているむくむくとした存在。もうすぐ巣立ちを迎える、ユキハヤブサの3匹の雛鳥たちだった。


「さあ、注意して観察を続けよう。いちばん最初に生まれた子の巣立ちは、まもなくだ」

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