第8話 マクスの向かう先

 十二月に入ってからはお互いに勉強の日々でした。


マクスは日本の生活のことを学んでいましたし、麻子はなぜかマクスに難しいトーチラス語を教え込まれていました。トーチラス語というのは、日本語とハングルの関係に似ていて、語順が同じです。そのため英語のように頭で文脈を考える必要がありません。単語さえ増やせばすぐに話せるようになります。


麻子とイレーネが出会って百五十日あまりが過ぎました。

日本では七月~十一月という五か月の月日が経ちました。けれど異世界では一か月が五十日あるため、イレーネからすると麻子と会ってまだ三か月ということになります。

そんな短期間で日常生活に不自由なく会話できるようになったのは、麻子が外国語が得意だったという、もともとのスキルの高さもあったのですが、このトーチラス語の言語体系に負うところも大きかったのです。


イレーネの持っていた絵本や児童書を借りてトーチラス語を学んできた麻子は、そこそこ読めて話せはするものの、筆記の方はあまり勉強してきませんでした。

ダレン村のパンダルさんの店にも手芸品を買い取ってもらっているのですが、そちらの方の交渉はイレーネやパルマおばさんが請け負ってくれていたので、契約書類なども見たことがありません。


それを聞いたマクスは、経営者失格だと言いました。

「経営者は全体のことを把握しておくべきだ。これからもトーチラス国で商売を続けるつもりなら、法律書類なども読み解けるようになっておかないといけない」

言われることはもっともなのですが、商売以外の政治用語まで覚える必要があるんですかね?

なんだか不必要なことまで覚え込まされている気がします。

愚痴を言うとにらまれるので、面と向かっては言えませんが……

そのうっぷんを晴らすために麻子はマクスに、携帯やパソコンの使い方を教えました。

戸惑っているマクスを見ていると溜飲りゅういんが下がります。


相手が困るような難しいことを教えることに、お互い変な喜びを感じていたんでしょうね。

でもそのせいで麻子のトーチラス語は飛躍的に向上しました。いまやマクスでさえも訛りが気にならないと言ってくれます。

マクスの方もたいていの電化製品は扱えるようになりましたし、買い物に行っても安心して見ていられるようになりました。簡単な日本語も覚えてしまったので、麻子は独り言が言いにくくなりました。


お節料理を食べ近所の神社に初詣に行く頃には、二人でこんな勉強生活をすることに違和感がなくなってきていました。手芸品を作る仕事をしながら、言いたいことを言い合って笑い合う日々。

いつの間か麻子は、大食らいのマクスに美味しい料理を食べさせることにも、喜びを感じていたのです。


そんなのんびりした日々は、イレーネの噂話を聞いたことで幕を下ろしました。


あれから麻子はアウトドア用品店で冬山用の装備を整え、天候がいい日には隣の異世界に出勤していました。マクスは日本で留守番していると言って、一度もトーチラス国に帰っていません。


山小屋が敵に見つかったと言っていましたが、あの強そうなマクスでさえかなわない人達なんでしょうか?

どんな敵なのかは麻子にはわかりませんが、もしかしたらイレーネが言った人たちは、マクスを探していたのかもしれません。


その時からマクスは変わってしまいました。


「都でクーデターが起きたらしいよ。一晩のうちに政権が交代したんだって。田舎に住んでる私たちには関係ないけどね~」


イレーネの話をマクスに伝えた途端、彼の顔が驚愕にゆがみました。すぐに感情を押し殺した底冷えのする目になったのですが、麻子はあの時の洞窟での恐怖の戦慄を呼び起こされてしまいました。


「待てなかったんだな……」

「え?」

「アサコ、俺はすぐに都に行かなくちゃならない」

「ええー、そんな危なそうなところに行かなくてもいいじゃない。マクスさんが言ってたように光月ひかりづきの一の日ぐらいになったら、政情が落ち着いてるよ」

「そうだな……それでも知り合いが心配なんだ」

そうか、知り合いがいるのね。それならじっとしていられないのもわかります。



二人はすぐに荷物をまとめました。

麻子もマクスを送っていくために、一緒に異世界にやって来たのです。


スキー用の服で身を固めて、軽量アルミで作られたカンジキを足につけ、ストックを手に持った麻子は、落ち着かない気分でした。

リュッサックを背負い、荷物を満載したそりをひいているマクスを、そっと見上げました。

彼の顔はいつになく厳しく引き締まっています。目深まぶかにかぶっている毛糸の帽子は、麻子がクリスマスプレゼントにマクスに贈ったものです。


「じゃ、出発するよ。一旦、パルマおばさんの家に行って一泊した後で、都に向かうというのでいいのね」

「ああ、何度も同じことを言わせるな」

そうはいっても何だかマクスの様子がいつもと違うのです。

麻子が振り返ると、何とも言えない熱を込めた目で、マクスがじっと見ていることがありました。何か麻子に言えないことがあるのに違いありません。


けれど森の中を歩いて行く途中も、二人の間には言葉もなく、互いの荒い息づかいしかありませんでした。

ザクザクと雪を踏む規則的な音とマクスがソリを引く重たい音だけが自分たちのいる場所を教えてくれます。そんなシンとした雪の森に、微かな鈴の音が聞こえてきたのです。


麻子がハッとしてマクスを振り返ると、そこには荷物を載せたソリだけがありました。


「マクス……さん? どこ?!!」


あの大きな身体の男が一瞬にして消えるなんていうことがあるんでしょうか?


そこでは雪をかぶった森の樹々たちが、ただ黙って麻子を眺めているだけでした。

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