海港中学男子バレーボール部

猫乃手借太

第1話 新天地は海港中学

 ~伊野部俊(転校生)~


 海辺の町。

 そう聞いて最初に思い浮かべたのは砂浜。そして港を中心とした海の家や漁船。新鮮な魚が食べられる海が近い町。そういう印象を抱いていた。

 しかし実際にその海辺の町へ行くと、そこは想像とはかけ離れていた。

 砂浜などはどこにもなく、あるのはただコンクリートで作られた人口の港。付近は大きなトラックが日に何十何百と行き交い、大きな通りに近い場所は騒音と振動がひっきりなしに続く。

 海辺の町であることは間違ってはいない。港があることも間違ってはいない。しかし巨大な船と港を大きな荷物が出入りする、漁港ではなく物流の為の港だった。

 当然漁師などどこにもいない。いるのは作業着の人ばかり。スーツを着た人の数が少ないのもこの町の特徴の一つだろう。

 父親の仕事の都合でその町に移り住むことになった。中学一年の冬、いきなり「三月末に引っ越す」と言われて慌ただしい学年末を過ごした。同級生達との別れを済ませ、共に頑張ってきたクラブの仲間達とはいつか試合会場で再会しようと約束した。

 幼稚園や小学生の頃からという付き合いの長い友達を含め、今までの全てを置いてこの海辺の町へとやってきた。車に乗って移動している間はワクワクしていたが、到着して町の全貌を見てがっかりした。港から少し離れれば波の音は聞こえず、聞こえるのは大型船の汽笛とトラックの走行音。潮の香りなどは一切無く、トラックの排気ガスに思わず息を止めてしまう。思い描いていたものとは全く違った。

 今まで生きてきた全てを置いてきて、期待していた全てを裏切られた。春から新しい中学に通うというのに、プラスとなる感情はほとんど無かった。できることなら前に住んでいた町に帰って、長く一緒に過ごした友人達とまた一緒にいたい。それがこの町にやってきてから一番強く思ったことだった。

 しかしいくら強く願っても帰ることは出来ない。引っ越しの荷解きも気が進まないためまだ終わらない。それでも新学期はやってくる。部屋はまだ段ボールだらけだが、新品の制服に身を包んで家を出た。

 トラックが通過する度に排気ガスが気分を害してくる町を母親と一緒に行く。海辺の町という雰囲気を一切感じさせない、完璧に舗装された道を歩くこと約五分。家から学校までは前よりもかなり近かったが、心は遙か遠い異世界のようにしか感じていない。

「海港中学」

 学校の校門。そこに大きく刻まれた中学校の名を無意識に呟いた。海と港。学校名と土地柄は合っている。間違っていないからこそ、想像していたものとかけ離れていることが余計にがっかりさせるのだ。

「ほら、行くよ」

 すでに校門を通過していた母の声が急かしてくる。気は進まないが、現実は受け入れなければならない。半ば諦めるように海港中学の校門を通り抜けた。

 校舎の前で、長い髪を後ろでまとめた背の高い女性と出会った。シワのないスーツの胸元に小さな花が付いている。

「あ、伊野部さんですか?」

「はい」

 母親の返事に合わせて無意識のうちに一礼。長く習慣として身体に染みついた、体育会系の礼儀からの行動だ。

「音楽教師の山本です。すぐ職員室へご案内しますので、少しお待ちください」

 山本と名乗った女性教師はそのまま足早に校門へ行くと、門を閉じ始めた。以前の学校でも通学時間が過ぎれば校門を閉じ、下校時間まで門は開かれることはなかった。この辺りは変わらないらしい。

「ではどうぞ」

 校門を閉めた山本先生に案内され、校舎の中へと入っていく。

 校舎に入って最初に目に付いたのが段差と二枚の巨大な玄関マット。前の学校では校舎に入ってすぐに全学年全生徒の下駄箱があった。しかしこの海港中学には下駄箱はない。校舎の出入り口に段差があり、まるで家の靴を脱ぐスペースのようだ。その上下に一枚ずつ大きなマットが置かれている。

「下駄箱はどこですか?」

 前の学校と比較するように、山本先生に聞いた。

「あ、えっと……当校は基本、土足のままです」

 土足のまま校舎に入る。だから玄関マットが二枚も用意されている。土足と上履きの履き替えがない代わりに、できるだけ土足の土を落とそうという考えなのだろう。

「ではどうぞ。職員室は二階になります」

 山本先生に案内されて校舎入り口から見える一番近い階段へ向かう。そこに校舎見取り図が貼られてあり、この学校の校舎が四階建てというのがわかった。

「四階建てなんですね」

 同じ感想を持ったのか、母が先に四階建てであることを言葉にしていた。

「あ、はい。一年生の教室が四階、二年生の教室が三階、三年生の教室が二階と一階になっています。あとは各階に副教科用の特別教室があります。校長室や職員室は二階、保健室は一階となっています」

 校舎見取り図を言葉で説明してくれた山本先生に続いて二階へ。その間、頭の中にあったのは以前の学校の校舎見取り図。第一校舎と第二校舎があって三階までだったことが違うが、学年ごとに階を分けているのは同じだった。これはどの学校も同じなのかもしれない。

「こちらが職員室になります」

 案内された職員室に入ると、書類だらけの教員用の机が数多く並んでいた。しかし他に人の姿は見当たらない。物音一つしない静かな職員室の片隅にあるソファーとテーブル。そのソファーに腰掛けて待つように言われた。

「今は体育館で入学式兼始業式中なので、もう少しお待ちください」

 教職員が出払っている理由は入学式と始業式が行われている最中だから。そう言われて山本先生のスーツ姿や胸元の小さな花に納得した。

 職員室の壁にカレンダーがある。今日に日付は、前の学校でも始業式と入学式が行われる日だ。かつてのクラスメイト達も今この瞬間、あの体育館にいるのだと考えていると、職員室の外がガヤガヤと騒がしくなってきた。すると扉が開き、教職員と思われる人達がぞろぞろと職員室へ帰ってくる。

「いやぁ、最近は中学デビューだからと金髪に染めてくる子が減りましたな」

「教頭先生、それはいつの時代の話ですか?」

「最近の子は大人しく見えて裏の顔がわかりにくくなっているから要注意ですよ」

「特に中学生くらいからネットいじめが急増するそうですからね」

「一発ひっぱたいて終わりだった時代が懐かしいですね」

 年の差のある教師の一団。その全員がスーツを着て、胸元に花小さな花をつけていた。先生達は話をしながら自分たちの机に散らばっていく。その後からも続いて様々な先生が入ってきた。

「あ、教頭先生」

 山本先生の声に反応したのは細くて小柄な五十代くらいの男性。見慣れない七三分けと眼鏡が強烈で、一目でこの人が海港中学の教頭先生であることを覚えてしまった。

「おぉ、転校生の伊野部君と保護者方かな? お待たせして申し訳ない」

 山本先生と入れ替わるように、教頭先生がソファーの傍らまでやってきた。

「海港中学教頭の野村です。どうぞよろしく」

 お辞儀をする教頭先生に対して、こちらもソファーから立ち上がって挨拶をする。

「伊野部俊です。よろしくお願いします」

 その挨拶に教頭先生は「うん、いい挨拶だ。礼儀がしっかりしている」と喜んでいる。

「えー、それで彼は何年何組に入る予定だったかな?」

「二年一組です」

 山本先生が即答した。

「二年一組か。えっと、去年の一年一組の持ち上がりだから担任は……」

「自分ですね」

 目が細い長身の男性教師が手を挙げた。

「ああ、そうだった。じゃあ伊野部君。彼が君のクラスを受け持つ担任の浜中先生だ。何かあったら彼に相談するといい」

「よろしく、伊野部君」

「よろしくお願いします」

 担任との顔合わせも済み、後は教室へ行ってクラスメイトと対面。そうすれば晴れてこの海港中学の一員となる。手間もかからず、ずいぶんと簡単だ。

 思えば前の学校を去るときも担任以外の教職員は意外とあっさりしていた。長い付き合いだったクラスメイト達との別れは惜しかったが、先生との別れを惜しいとは感じなかった。これもどこの学校も似たようなものなのかもしれない。

「じゃあ教室へ行こうか」

「はい」

 担任の浜中先生と一緒に二年一組の教室へ。

「では保護者の方は少しだけこちらでお話を」

「あ、はい」

 教頭先生が母親をソファーに座るよう促し、小走りで自分の机へと向かう。

 その様子を尻目に、職員室の扉に差し掛かった時だった。扉は勢いよく開かれ、一人の男性が職員室へズカズカと入ってくる。

「あのアホは話が長いんや。入学式終わってもうたやんけ」

 入ってくるなり男性は機嫌が悪そうだった。

 着ている服は上下がスウェット。体格がいいというのもある。しかし強面のオールバックという顔立ち、さらにその強面の顔に傷跡のような線。それらが合わさり、強烈な威圧感となって見る人を萎縮させる。入学式兼始業式が行われている職員室で、一人だけ明らかに異様な存在だった。

「ああ、毛利先生。ずいぶん時間かかりましたね」

 担任となった浜中先生の口から飛び出した信じられない言葉。どうやらヤクザにしか見えない強面のこの男性は教師のようだ。

「眠かったわ。あの生活安全課の課長、警察署の課長やったらもっと短くわかりやすく話せっちゅうんや」

 あくびをしながらズカズカと職員室の奥へ。教頭先生のところまでやってくると、警察署の名前が印刷されている封筒を渡す。

「これ、頼むわ」

 教頭先生に封筒を渡したヤクザの男、ならぬ毛利先生。そのまま自分の席に行くのかと思いきや、来客用のソファーのところへ行く。

「なんや、ワシの指定席は使用中か。なら、しゃーないな」

 来客用のソファーを指定席と言った毛利先生は、そのまま教員用の机に備え付けられている椅子に腰掛ける。腰掛けた瞬間「久しぶりに自分の席に座ったわ」と笑っていた。

「じゃあ行こうか、伊野部君」

「……あ、は、はい」

 言動があまりにも強烈すぎる毛利先生を見て、呆然としていた。浜中先生が声をかけてくれなければそのまましばらく棒立ちだったかもしれない。

 職員室を出て廊下を行き、階段を上って二年生の教室がある三階へ。

「そうだ、伊野部君。僕は剣道部を受け持っているんだけど、君は何かスポーツをしていたのかな?」

「はい、バレーボールを」

 バレーボール。そう言った時、浜中先生の足が止まった。

「前の学校では男子バレーボール部に?」

「はい。小学生の時は地域のクラブで、中学に入ってからは部活でやっていました」

「うーん、そうかぁ」

 浜中先生が再び歩き始める。一緒に歩く浜中先生の顔が少し困っているようだった。

「えっと、バレーボール部だったことが何か?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど……」

 少しの間を置いて発せられた浜中先生の次の言葉。それは今回の転校をさらにがっかりさせるものだった。

「うちのバレーボール部、女子だけで男子はないんだ」

 前の学校で一緒にバレーボール部として頑張った戦友達。彼らと試合会場での再会の約束は、早くも暗礁に乗り上げてしまった。


 教室で自己紹介をして、用意された自分の席に着いた。初顔合わせとなった二年一組の面々は物珍しそうに視線が周囲から突き刺さる。教室で集中する視線はなんとなく居心地が悪い。小学生の時に転校生がやってきた。その時にチラチラと見ていただろうか。もしそうだったら「悪いことをしたな」という罪悪感を今になって思う。

 二年生になったことで一年生の時とは違う。そういった浜中先生の注意事項を終えていくつか配布されるプリントを貰う。それで今日は終わりらしく、話を終えた先生は早々に教室から出て行ってしまった。

「え? 終わり?」

 あまりにもあっさりと、今日の学校が終わってしまった。入学式に参加していないため、学校に来てからまだほとんど時間が経っていない。

「おう、もう終わりだぞ。あの先生は話が短くて早いって有名なんだ」

 隣の席に男子学生。日焼けした肌の色と短髪が印象的だ。

「それにしても……早くないか?」

「間違いなく一番早い」

 ニヤッと笑う隣の席のクラスメイトが「朝礼とかが浜中先生だとラッキーなんだよ」という本音を続けて漏らしていた。

「名前は伊野部だっけ。俺は神田。よろしくな」

「ああ、よろしく、神田」

「部活は? どこ入るんだ?」

 日焼けした肌に短髪の神田。その様子から彼は屋外競技のクラブに所属していると思われる。だからだろうか。いきなり現れた転校生がどの部活に所属するかが気になったのか、自己紹介もそこそこに質問がぶつけられた。

「部活……」

 前の学校ではバレーボール部に所属していた。だから転校先の学校でもバレーボール部に所属しようと考えていた。しかし、海港中学には女子しかない。

 よって所属先を決めかねていおり、神田の問いに即答できなかった。

「俺は野球部だ。伊野部は色白だから室内か?」

 日焼けしていない人の肌を見てかんだが勝手に話を進めている。

「バスケか? バドミントンか卓球……それとも文化部か?」

 いくつか想像を巡らせた神田の問い。その中にバレーボールはなかった。彼の頭の中には男子バレーボール部という発想は無いのかもしれない。

「前の学校ではバレーボールやってたんだ」

「おぉ、バレーボールだったか」

 神田は言葉にはしなかったが、なんとなく「それは思いつかなかった」と思っているようにも見えた。

 そう思われるのもしかたない。学生がどのスポーツをするかを選択する時、バレーボールという競技はどうしても女子が行う競技という印象がついて回る。男子が選択するスポーツには長年上位に君臨する野球、そして近年爆発的に人気を集めているサッカー。この二つがあまりにも強い。屋外が嫌ならまずはバスケ、球技が苦手なら陸上か武道や格闘技。そういった優先度がどうしても存在してしまう。よって女子では高い人気を誇るバレーボールも、男子では完全なマイナー競技となるのだ。

「でも残念だな。バレー部は女子しかないぞ」

「聞いたよ。だから困ってるんだよ」

 バレーボールを長年やってきた身としては、継続してバレーボールを行いたい。しかし男子バレーボール部は存在しないのだ。

「高校でもバレーするのか?」

「できればそうしたいんだけどな」

 高校でも続けるとなると中学での実績がある程度問われる。全く実績が無くても実力があればいいが、中学で練習できないブランクがあると高校では難しいかもしれない。

「女子に混じってやるわけにもいかないだろうし、野球部に入らないか? 野球経験が無くても俺が教えてやるよ」

「……いや、ちょっとバレー続ける道を探すよ」

 神田の言った「女子に混じってやる」という言葉が一瞬引っかかった。しかしそれができるかどうかはわからない。しかし他に可能性が無いわけではない。地域のクラブチームなどでバレーボールを行っている団体があるかもしれない。何も学校の部活以外に所属するのがダメだというわけじゃないはずだ。

「へぇ、バレーボール好きなんだな」

 今まで行っていた競技に対する執着心。それを見た神田の率直な感想だろう。

「神田も一緒だろ。どこに行っても野球をやりたいんじゃないのか?」

「いや、別に」

「……え?」

 神田の思わぬ即答に言葉が浮かばなかった。

「俺は別に野球がやりたくてやってるわけじゃないからな」

「やりたくない競技に人を誘ったのか?」

「まさか。俺はチームスポーツが好きなんだよ。一つでも上に、一勝でも多く、そうやってみんなで頑張るのって楽しいだろ?」

 神田の言葉に熱を感じた。彼は野球という競技ではなく、野球というチームスポーツを楽しんでいるのだ。

「サッカーとかバスケは?」

「俺の家から行ける範囲じゃ野球以外無かったんだよな。だから小学生の時から野球一筋ってわけだ」

 サッカークラブやバスケチームがあれ、サッカーやバスケも考えた。しかし神田の生まれた地域、この海港中学近辺にはそういった環境が無かった。必然的に野球以外の選択肢が無く、神田は小学生から野球をするようになって、今は野球部に所属している。

「じゃあバレーボールができる環境があれば?」

「あー、やってたかもな」

 生まれ育った地域のことだからしかたがない。しかし少し何かが違っていればバレーボール人口が増えたかもしれない。そう考えると、男子のマイナースポーツをずっとしてきた人間としては残念な気分だった。

「男子バレー部はないし、もし野球部に入るって気になったら声かけてくれよ」

「わかった、ありがとう」

「じゃ、俺は練習行くから」

 大きな鞄を肩から提げ、神田は教室から出て行った。

 すでに教室内の生徒の数は少ない。入学式と始業式が終わり、ホームルームが終わってみんな帰ってしまったようだ。窓から見えるグラウンドでは野球部とサッカー部がそれぞれ集まっている。野球部の集団の中に入っていく神田の姿も見えた。

 神田の厚意はありがたく受け取る。しかし、バレーボールを諦めるのはまだ早い。転校してきたばかりでこの地域のことは何も知らないのだ。地域の集まりでもクラブチームでも何でもいい。まずはバレーボールができる環境が無いかを探す。そのための第一歩のごとく、教室から出て帰路についた。


 翌朝、初授業を前に席でうなだれていた。そこに大きな鞄と共に現れた神田が歩み寄ってきた。

「伊野部、どうした?」

 野球道具や練習着の入った鞄が彼の机の上に置かれる。鞄の中身がぎっしり詰まっているのか、ドンという音が響いた。

「無かった」

「え?」

「経験者が中心のクラブチームはあるみたいなんだ。だけどママさんバレーみたいに、どこも女一色らしい」

 海港中学には女子バレー部しかない。それと同じように多くの学校でもバレー部は女子だけというところが多い。よって卒業生や経験者も必然的に男女比で偏る。その結果が女一色のチームばかりという現状だった。

「一番近い男子のクラブチームもここから三十分以上かかるみたいなんだよ。しかも社会人のチームで、全員同じ中学の出身者らしい」

「そうなのか。そりゃ困ったな」

 中学でも男子バレー部がないわけではない。それでも一番近い男子バレー部がある中学校まで片道で三十分以上かかる。もう一つ遠くまでとなればもっと時間がかかる。その間に女子バレー部がある中学校を数えれば片手では足りないだろう。それほどに男女比が偏っている。

 バレーボールが好きで継続したい。しかしバレーボールができる環境が整っていない。今までバレーボールをすることにここまで苦労したことは無かった。

「こうなりゃ、女子しか無くてもこの学校のバレー部に行ってみるか」

 バレーボールに関する情報はバレー部であれば多く集まっているはずだ。近隣を少しネットで調べた程度ではわからないような情報を期待して、海港中学女子バレーボール部へ足を運んでみる決意を固めていた。

 しかしその決意を聞いた神田の表情は強張っていた。

「神田? どうしたんだ?」

「いや、マジか……って、そうか。お前転校してきたばかりだから知らないのか」

「は?」

 神田は教室の外に一度視線を向ける。何かを警戒しながら、ひそひそ話をするように声のトーンを落とす。

「鬼だよ、鬼」

「おに?」

「毛利先生。知らないのか?」

 毛利先生。入学式兼始業式の日の職員室にジャージでやってきたヤクザのような男性教師。他の先生達とは明らかに違う、一目見ただけでそう感じた異様な人物の姿がはっきりと思い出された。

「あいつはヤバいぞ。とにかく怒らせたらヤバい」

「そ、そんなに?」

「おう、先輩から聞いたんだけどな。前の学校ではヤクザの組を一つ潰したらしい」

「……え?」

 いきなりとんでもないことを神田は言いだした。

「顔に傷跡があっただろ」

「あ、ああ。あったな」

「ヤクザとやり合った時にできた傷だって話だ」

 どう返せばいいのか、言葉が見つからなかった。

「警察にも顔パスで入れる。しかもあいつに頭が上がらない。だから何かやらかすとすぐあいつの耳に入る。教育委員会もあいつの鉄拳制裁にだけは見逃すらしい。国家権力も逆らえない地獄耳の鬼、それが毛利先生だよ」

 それに小学校の時に色々と怖い噂のある先生はいた。体格のいい強面教師だったが、さすがに警察も頭が上がらないという存在ではなかった。それでも小学生の頃はその先生が怖くて、大人しくしていた記憶がある。

 そして中学校に入って、怖い噂はただの噂だったという事実を知った。怖いという噂が立っただけで、実はただの強面教師だったのだ。だから毛利先生も何かそういう噂が立つようなことをしたから、怖いという噂が広まっているだけかもしれない。

「でもそれ、噂だろ?」

「いや、野球部の先輩が他校の奴とケンカしたんだよ。その時に警察沙汰になって、警察署に先輩と他校の奴とみんな集められていたんだ。それでそこに鬼が来たんだ」

「そ、それで?」

「まず警察官がみんな毛利先生に向かって一礼するんだよな。それでケンカした先輩達を全員一発ずつぶん殴ったんだ。後は警察に何か一言二言、何を言ったかはわからなかったらしいけど、何か言ったら簡単に解放されたってよ」

「その話、誰から聞いたんだよ」

「ケンカした先輩本人から聞いたんだよ」

 当事者から聞いたとなれば信憑性は高い。噂がただの噂では無い可能性がある。それだけで少し毛利先生に対して恐怖心を抱いた。

「とにかく、あの鬼はヤバいから気をつけろよ」

 神田が念押しして、ひそひそ話は終わった。

「……ってか、その毛利先生と俺になんの関係があるんだ?」

 話が終わってみて、会話の内容を振り返る。すると最初はバレーボールをすることが出来ないかどうか、という話だった。しかしその話は突如毛利先生の話題に変わった。神田が毛利先生の話を出した理由がわからなかった。

「だってバレー部の顧問は毛利先生だからな」

「……は?」

 今日訪ねてみよう。そう思っていたバレー部。その顧問がまさか今話に聞いた毛利先生だと神田は言った。

「いや、あんな強面の人がバレー部? 剣道部とか柔道部じゃ無くてバレー部?」

「そうなんだよな。海港中学七不思議の一つだ」

 雑談を楽しむかのように笑う神田。対照的に自分の体温が急激に低下していっているような気がした。これから訪ねようとしているバレー部。そこへ行けば間違いなく顧問の先生と顔を合わせることになる。それが今話に聞いた毛利先生ともなれば、想像するだけで精神的圧力は半端じゃなかった。

「まぁ、悪いことをしなければ大丈夫らしいから頑張れ」

「らしいと頑張れ、で頑張れねぇよ……」

 バレー部を訪ねる。たったそれだけのことがものすごく難しいことのように感じる。訪ねるのは放課後の予定だが、一限目すら始まっていない今から呼吸が苦しくなるほど緊張していた。


 放課後、毛利先生を訪ねて職員室へ行く。しかし職員室に姿は無く、近くにいた先生に話を聞くと、所用で今日は昼からいないらしい。しかし放課後にはバレー部の顧問として体育館に顔を出すらしく、急ぎの用事があるなら体育館へ行くように言われた。

 そうしてやってきたのが体育館。色褪せた鉄柱が印象的な渡り廊下を通り、大きな建物の前にやってきた。少々のことでは割れない分厚いガラスから中が見える。外観と中の様子を見てみると、体育館の規模としてはそんなに大きくは無い。バスケットコートをギリギリ二面使える程度の大きさしかない。前の学校ではバスケットコートを二面使っても余裕だったため、比較すると少々窮屈そうだ。

 その体育館に使用状況は手前と奥で二分されており、手前では卓球部が和気藹々と卓球台を設置していて、奥では女子バレーボール部が喋りながらネットを張るなどの準備をしている。

 二つのクラブの境界線として緑色の防球ネットが張ってある。

 体育館までやってきたが、目的の毛利先生の姿はなかった。とりあえず体育館前で待っていればいいのか、そう考えていた時だった。背後から声をかけられる。

「何してるの?」

 声に反応して振り返ると、そこには一人の女子生徒がいた。女子にしてはやや背は高い方だろうか。背の高さだけでなく、堂々とした様子から気が強そうに見える。しかしそれを上回る印象があり、とにかくその女子生徒は可愛かった。前の学校で可愛いと話題に上がる女子全員と並んでも、今目の前にいる女子生徒が勝つだろう。

「あ、いや、クラブの件で……」

「入部希望かな? じゃあ職員室に細川先生がいるから、そっちに行ったらいいよ」

「え? 毛利先生じゃないんですか?」

「毛利先生はバレー部の顧問」

「その毛利先生に話があって来ました」

「……卓球部へ入部希望、じゃないの?」

 女子生徒が首をかしげていた。

「いや、バレー部に用があります」

「バレー部に? もしかして前の学校ではバレー部?」

「そうですけど……あれ? 俺、転校してきたって言いましたっけ?」

「伊野部でしょ? 言ったも何も、クラスメイトだから知ってるし、敬語もいらないから」

 クラスメイトと言われて教室内の光景を思い返そうとする。しかし毛利先生に放課後会わなければならないという緊張から、教室内の光景はほとんど記憶に無かった。クラスメイトの顔や名前を覚える作業も捗っていないため、目の前の女子生徒がクラスメイトだとしても誰だかさっぱりわからなかった。

「あ、えっと……ごめん。まだ覚えてなくて」

「私は雪村。一日や二日で全員の顔と名前は覚えられないから気にしてない」

 雪村は体育館前で靴を脱いで下駄箱へ入れ、分厚いガラスの扉の前に立つ。

「ここが体育館の入り口。そっちが体育教官室の入り口ね」

 分厚いガラス越しに体育館が見える。だからそのガラス戸が体育館の入り口なのはもうわかっていた。その扉とは別に鉄の重そうな扉がある。どこへ繋がる扉かと思っていたが、体育教官室への入り口と聞いて納得した。前の学校の体育館にも体育教官室はあった。

 しかし体育館への入り口がガラス戸で、体育教官室への入り口が鉄扉。体育館の扉は様々な競技のボールが当たることも多い。だから逆の方がいいのではないかと思ったが、特に問題なくやれているようなので言葉にはしなかった。

「毛利先生に用があるなら中で待つ? それとも、地獄の扉の向こうで待つ?」

「な、中で待つよ」

 神田が毛利先生を鬼と呼んでいた。それはもしかすると転校生をからかうための冗談なのかもしれない、そう思っている部分があった。しかし雪村が教官室の扉を地獄の扉と呼んだことでわかった。

 毛利先生という存在は男女も学年も問わず、本当に怖い存在なのだ。

「はい、じゃあどうぞ」

 雪村に促され、靴を下駄箱に入れて体育館に足を踏み入れた。作りや大きさが違うことから感覚や雰囲気は微妙に違うのだが、クラブ活動中の体育館の中にいるというなんとなく慣れ親しんだ空気のようなものを感じた。

 卓球台を使わずにラケットで弾を撃ち合って遊んでいたり、練習せずに雑談ばかりしていたりする卓球部員達の横をすり抜け、体育館奥のバレー部の練習スペースに連れてこられる。

「なんだ、これ?」

 そこには体育館に似つかわしくない物が置かれていた。職員室にあった来客用のソファーよりもはるかに良さそうな、一人掛けの革張り肘掛け付きのソファー。それが当たり前のように置かれていて、誰もその存在を疑問視していない。

「毛利先生専用の椅子。毛利チェアーとか鬼の玉座とか、まぁ好きに呼んでいいよ」

 肘掛け付きのソファーの傍ら。そこに畳んだパイプ椅子と生徒用の机が一つずつ置いてあった。雪村が机の位置をずらしてパイプ椅子を用意する。

「はい、じゃあここに座って待っていて。たぶんいつも通りなら三十分くらいで来ると思うから」

「わかった。ありがとう」

 パイプ椅子に座って、体育館内の時計を見た。時間は午後三時三十分。朝から続いている緊張がまだ三十分も続くようだが、ここまで来たことで後には引けないため決意も固まっている。体育館に入る前よりは幾分かマシな気がした。

 雪村はそのまま緞帳の下りた体育館の舞台裏へと消えていき、数分で部活スタイルになって現れた。緞帳の向こう側が女子バレー部の更衣室になっているようだ。

 ネットを張り終えて、床をモップ掛けする。バレーボールの入ったカゴを出し終え、練習する準備は整ったのだろう。女子部員達が各々自由にしている。

 そして時計が午後三時四十分を指した頃、使い古した練習着に身を包んだ上級生らしき女子部員。今まで座っていた彼女が時計を見て、すっと立ち上がった。その様子を周囲の女子部員を察したのか、自由な様子はその瞬間なくなった。

「ランニング!」

 上級生の女子部員はおそらく女子バレー部のキャプテンを務める三年生だろう。彼女のかけ声で部員が整列すると、一斉にかけ声と一緒に走り始めた。

 かけ声は違うが前の学校のバレー部でも同じだ。その学校やチームごとに違うかけ声が練習中に飛び交う。聞き慣れたかけ声ではなかったが、整列して走る部員達が体育館の床を蹴る振動など、バレーボールという競技間近で肌で感じる。

 ランニングを終えた部員達はネットを挟んで二人一組になる。そしてお互いにネット越しに向き合ってジャンプし、ネットの上でブロックの手を作って押し合う。それを一定回数済ませると今度はステップを踏んでのブロックの練習。それを右から左へ、左から右へ、複数回往復していた。

「リフティング!」

 ランニングとブロックジャンプのウォーミングアップを終えて、部員が一人一個ずつボールを持つ。そして手の甲や手首や頭などで、ボールを落とさないようにリフティング。回数が決められているのか、そのままの流れでアンダーハンドとオーバーハンドでのリフティングに移行していく。

「対人!」

 一人ずつ持っていたボールが二人一組となり、アンダーハンドパスとオーバーハンドパスを行う。そして一方がボールを打って一方がレシーブ、次はその逆。みんな慣れた様子で練習を行っていた。

 部員達の中に雪村の姿が見えた。ボールの扱いは非常に上手く、身体の動きもしなやかだ。長くやってきた経験者ならではの目から見て、これだけで雪村が相当なレベルの選手だというのがわかる。

 その時だった。突如感じた異様な感覚。その正体は何かと体育館の中を見渡す。

 女子バレー部は変わらず練習をしているのだが、一方で卓球部が遊ぶことなく練習を行っていた。さっきまで雑談や遊びが横行していた卓球部。それが今は卓球台をフル活用して全員が練習に没頭していた。

 卓球部の要約練習開始なのか、そう思った。しかしそれは違った。卓球部の雰囲気の変化をバレー部も過敏に察知して、先ほどよりも練習中の声が大きくなっている。

「なんだ?」

 体育館内の雰囲気が一気に変わった。何の合図もなく、だ。時計の針は午後三時五十七分という中途半端。時間でギアが変わったという様子でもない。

 困惑していると、体育館全体に「バァン!」という大きな音が響き渡った。音の発生源は体育教官室の方向。その瞬間察した。生徒達が地獄の扉と呼ぶ重い鉄の扉が開き、勢いよく閉まったのだ。

 それはつまり、地獄の扉を悠々と開くことが出来る鬼が、体育館へとやってきたことを意味している。

「バレー部の顧問、だよな?」

 独り言が漏れた。バレー部の顧問の先生がやってきたから、バレー部の部員全体が無意識に気を引き締めるというのはよくある話だ。前の学校でも先生がいるかいないかで、気持ちの面で違いがあったのでよくわかる。しかし管轄外のはずの卓球部までが気を引き締めて練習を始めるというのはどういうことなのか。

 これが、鬼と呼ばれる先生の存在感のだろうか。

 体育教官室へと繋がる扉が開き、そこからヤクザのような男が現れる。ジャージ姿に傷跡がある強面のオールバック。職員室で一度見ただけで忘れられない強烈な印象を残した、あの毛利先生が現れた。

「ん? なんや、昨日職員室にいた転校生やないか」

 普段見慣れない存在に気付いた毛利先生。その視線がまっすぐ突き刺さる。今朝感じていた緊張など比較にならないほどの重圧に押しつぶされそうだった。

「あ、えっと、二年に転校してきた伊野部です」

「知っとる」

「あ、はい……」

 ひとまず自己紹介をしてそこから話をしよう。そう思った矢先、興味なさそうな一言でその計画は簡単に崩されてしまった。

「集合!」

「いらん。続けろ」

「はい! サーブレシーブ!」

 キャプテンが部員を顧問の下に集めようと号令をかける。しかし毛利先生は一言と、犬を追い払うような片手の動きだけで練習を続行させる。

 来客の有無など関係ないと言わんばかりに、ドシッと肘掛け付きソファーに腰掛けると「それで、何の用や?」と言いつつ、両腕が慣れたように肘掛けの上に乗る。

「あの、前の学校ではバレー部に所属していました」

「おお、そうか。でも残念やったな。うちは女子だけや」

 毛利先生の視線はバレー部の練習にはほとんど向けられず、いきなり現れた転校生に集中していた。

「えっと、そう聞いたので色々と近所でバレーができる環境を探したんですが……」

「見つからんかったんか?」

「はい。それでバレー部の顧問の先生なら何か知っていたり伝手があるかと……」

「伝手か。男子はないな」

 言い終わる前にあっけなく言い切られた。

「電車で四、五駅くらい内陸の方に行ったら男子のバレー部がある学校があるんや。この辺りで男子バレーをやりたいんやったら、そこの卒業生が作ったクラブチームやサークルくらいや」

「そ、そうですか」

 バレー部の顧問の座にいても、海港中学の近くで希望に添う環境はないとしか言えないようだ。つまりこの引っ越してきた新しい町では、満足にバレーボールを行うことができない。

「まぁ、そこでやんのも中学生やったら難しいやろうな」

 昨夜調べた限りでは、クラブチームやサークルの中心は社会人で二十代から三十代。練習はだいたい土日か祝日。平日にやっているところは週に何回か、時間帯は夜に集まって遅くまでするというのが基本らしい。地元に住んでいない中学生がその中に入るのは、往復の時間も考えれば何かと問題がありそうだ。

「よその中学で男女両方バレー部のあるところもある。話を通せば練習参加くらいはさせてはもらえるやろうけど、毎日授業が終わってから電車で移動になるな」

「そう……ですか」

 今まで通り男子バレー部でバレーボールを行う。それができる状況はこの海港中学近辺にはない。今まで通りにバレーボールをする。普通だと思っていたことはもう諦めなければならないのかもしれない。

「ありがとうございました」

 パイプ椅子から立ち上がって頭を下げる。思い通りにはならなかったが、海港中学近辺で以前のようにバレーボールをするのが無理だということがわかった。

 体育館を後にしようとガラス戸の玄関を目指す。すると「伊野部」と呼ばれる。振り返ると毛利先生の専用椅子と向き合うようにパイプ椅子が置き直されており、肘掛け椅子に座りながらパイプ椅子に足を乗せている毛利先生の姿があった。あの椅子は来客用などではなく、これが本来の使い方のようだ。

「お前はお前のやりたいようにやれ。お前はまだガキなんやから大人を頼れ。お前のやることが悪いことやないなら、少なくともワシは手伝ったるからな」

 視線は合わない。だがその言葉は間違いなく、一人の生徒に対して向けられたものだ。

「はい、ありがとうございます」

 最後にもう一度頭を下げ、体育館を出た。日はまだ高く、バレーボールをしていたときにはこんな時間に帰ることはなかった。

 明るい日差しとは対照的な心を抱えながら、家路を一人で歩いた。


 帰宅後、家のパソコンで動画を見ていたら、母親が画面をのぞき込む。

「これ、何の試合?」

「去年の春高バレーの都道府県大会決勝」

 引っ越してきて聞き慣れない高校ばかりの中、全国大会常連の高校名もあってなんとなく試合の映像を見ていた。去年テレビで放映されたものだから、映像に映っている選手の一部はまだ現役でその高校に通っている。

「慶工大付ってよく聞くわね」

「春高にもインターハイにもよく出ているし、大学の方もバレー部は有名だからね。他府県からも都道府県選抜に選ばれた人達が通うくらいらしいよ」

 動画の説明欄から学校名を検索して調べた結果を母親に伝える。頷きながら「へぇ、そうなの」と動画を見入りながら「対戦相手は?」と次の質問が飛んだ。

「冷泉高校。ここ数年は都道府県大会の決勝は慶工大付と冷泉の対戦カードが一番多いみたい」

「どちらも強い学校なのね」

「慶工大付、冷泉、さらに宮ノ森と下村学院を入れた四強は全部私立みたい。スポーツ推薦とか授業料減額とか免除があるんじゃないかな?」

 前の学校で一人の先輩はスポーツ推薦で進学先を決めていた。授業料の減額などの待遇もあると話してくれていたことを思い出しながら話した。

「八強まで見てみても公立は小峰ってところだけで、残りの月山、法条、海洋大付は私立みたいだよ」

 授業料の減額や免除にスポーツ推薦。そうやっていい選手を集めてきてチームを作っているのだ。シード権を手放すことはそうそうないだろう。過去の対戦表を調べてみても八強までの八校はシードの順位が変わる程度でほとんど入れ替わりがない。

「我が家はそこまで裕福じゃないけど、俊の進学先が私立でも公立でも大学まで行かせてあげることはできるからね」

「ありがとう、母さん」

「でも医大とかはちょっと厳しいかも……」

「あ、うん、それはたぶん大丈夫だよ」

 医者になるにはとてもお金がかかるという話は聞いたことがある。医者になりたいという思いがあるわけではない。その思いをひとまず伝えておく。

「それで、試合に出られないとスポーツ推薦は無理なんだ。それで各学校の学力を調べてみると冷泉と森ノ宮が飛び抜けて高いんだ。基本は進学校みたい」

 冷泉と森ノ宮は東京大学の合格者まで輩出しているし、高校で海外にホームステイしたりするカリキュラムが組まれている。スポーツクラスは違うだろうけど、スポーツ推薦を受けられない以上一般入試で入らなければならない。かなりハードルが高いと言わざるを得ないだろう。

「その次に海洋大付と下村学院で、ここも学業に力を入れているみたいなんだ」

 系列の大学が高い学力を求めていることもあるのだろう。進学校とは違うとはいえ、ここも勉強をかなり頑張らなければ入ることはできない。

「慶工大付はきっとバレー部に入っても試合に出るのは難しいかもしれない。都道府県選抜の選手がベンチにも入れないことが珍しくないみたいなんだ」

 強いチームに行けばそれだけいい環境でバレーボールを行うことができる。しかし強いチームはそれだけ競争が厳しい。ましてや都道府県選抜に選ばれるレベルの選手達は、中学の時から強豪校で戦っている選手達ばかりだ。現在まともにバレーボールすらできない自分が太刀打ちできるとは思えない。

「小峰、月山、法条は学力もそこまで高くないみたい。試合に出るのは難しいかもしれないけど、シード権を持つ八強の一つにでも入ってバレーボールができたら面白いかも」

 バレーボールをすることが難しい環境にいて、バレーボールをするのを諦めるという選択肢も見えてきた。しかしこうして調べてみて、試合の動画を見てみると、どうしても諦められない。

 やっぱりバレーボールをするのが好きなんだと、しっかり自覚した。

「母さん。俺、勉強して一般入試で高校行く。高校行ってバレーする」

 中学では満足にバレーボールをするのは難しい。なら高校で満足のいくバレーボールをするため、勉強を頑張るという道を選ぶことを決めた。

「じゃあ中学はどうするの? 部活はしないの?」

「いや、する……つもり」

「つもり?」

「まだできるかどうかわからないけど、頼んでみる」

「頼む?」

 男子バレーボールをするためには遠くへ行くしかない。しかしバレーボールをするだけなら、海港中学でも不可能というわけではない。

「うん、明日頼んでみる」

 自ら進んで鬼と呼ばれる先生の元を訪れるのは気が引けた。しかしバレーボールが好きなのだということをしっかり自覚してしまった。なら、後は行動あるのみだ。


 翌朝、登校すると教室にも寄らず一番に職員室へと向かった。先生の数はおおかた揃っているのだが、毛利先生の姿は当然のようになかった。

「あの、毛利先生はいつ頃いらっしゃいますか?」

 昨日話した音楽の山本先生がいた。出入り口に近いところにいたこともあり、勢いだけで前置きも何も無く訪ねた。

「えっと、毛利先生ならそろそろ……」

 山本先生がそう言って時計を見る。ホームルームまであと十分ほどだ。

「あと数分かな。生徒の登校のピークを狙って来るから」

「登校のピーク?」

「生徒の数が多いと道で横に広がったりして邪魔になるでしょ? 見回りも兼ねているの」

 下校時間はクラブ活動や各個人の用事などでばらつきやすいが、登校はそういうわけにはいかない。前の学校でもチャイムが鳴る五分前くらいの学校周辺は生徒だらけだった。そういう時間帯にあえてやってくることで、ただ出勤するだけではなく見回りも同時に行っているという。さすがに前の学校にはそういう先生はいなかったような気がする。

 山本先生に言われて待つこと数分。職員室の扉が開いて、いつも通りジャージ姿の毛利先生が現れた。左手には鞄、右手にはコンビニの十八歳未満閲覧禁止の場所に置かれていそうな雑誌を数冊持っていた。

「おはようさん。これ、処分しといてや」

 毛利先生はそう言ってドサッと雑誌を適当な机の上に置いた。

「この雑誌、どうしたんですか?」

「公園の隅っこで何人か集まっとったんや。気になって見に行ったらこれ目当てで集まっとったみたいやから取り上げて来たったわ」

 笑いながら今朝のことを話す毛利先生。その視線がこちらに向き、目が合った。

「なんや、伊野部。朝からどないしたんや?」

 自分の席に鞄を置き、椅子に腰掛ける。声はかけられているが、最初視線が合った後は特にこちらを見る様子はない。

「毛利先生にお願いがあってきました」

「そうか、それでどんなお願いや?」

「バレー部に入部したいです。お願いします」

 全力で頭を下げた。見えてはいないが、職員室全体の空気が変わったのがわかった。女子しかいないバレー部に男子が一人入部する。それが普通では無いということは自分自身もよくわかっている。

「わかった」

 しかし毛利先生はためらいや戸惑いなどなく、ましてや悩む間もなく返答した。

「放課後にもう一度来い。入部届は書いてもらわなあかんからな」

「え、あ……」

 あまりにもあっけなく許可されたことで逆にこちらが戸惑ってしまう。他の先生方もまだ状況が飲み込めていないのか、動きや雰囲気がみんな不自然だ。

 そんな中、頭を上げて見た毛利先生だけはいつもと変わらなかった。

「なんや? まだなんか用か?」

「あ、いえ……」

「お前はバレー部に入りたい。ワシはバレー部に入るなら放課後に入部届を書けと言ったんやが、何か不都合があるか?」

「いえ、ありません」

「なら続きは放課後や」

「は、はい。ありがとうございます」

 もう一度深く頭を下げた。

 女子しかいないバレー部への入部は断られることも考えていた。いや、むしろ最初は断られるだろうと思っていた。しかし一回で許可がもらえた。意外すぎてこちらが面食らってしまったが、いい方にことが進んだのは何よりだ。

「ではまた放課後に来ます」

 放課後に来るという約束を取り付け、職員室を出て教室へ向かう。あとは一般入試でバレーボール部のある高校へ進学できるかどうかだが、それはまだ先のこと。ひとまずバレーボールの練習ができる環境はなんとかなりそうで、安心したせいか足取りが少し軽かった。




 ~毛利喜多郎(海港中学バレーボール部顧問・生徒指導教員)~


 予想はしていた。しかしまさか本当に来るとは少し意外だった。

 バレーボールへの熱意は昨日の時点で感じられた。バレー部に女子しかいないということは聞けばわかることで、事前に聞いていたことだろう。それなのにわざわざバレー部の顧問を訪ねて来た。熱意とやる気はそれだけで十分わかる。

 しかし女子の中に一人男子が入る。それもクラブ活動でとなればそう簡単な問題ではない。たった一人の男子となれば異物感もさることながら、疎外感や孤独感も感じることだろう。それに一年から入るのではなく二年から、転校してきての途中参加。気の合う同級生もいない。それは昨日、練習を見たことから当人もわかっているはずだ。

 それでも入部を申し出てきた。なら、断る理由はない。やりたいのであればやらせてやればいい。それが悪いことではないのだから、挑戦なり経験なりさせてやればいい。

「大丈夫ですかね? 女子の中に男子一人となると色々と問題がありそうで、正直これには反対です」

 社会科教師の山辺千豊。野球部顧問でよく屋外にいることから前々から色黒だったが、ここ最近は年々色の黒さに拍車がかかっているように感じる。

「そうですよ。問題が起こりなりかねません」

「女子に危害が及んだり、逆にあの子がいじめられたりするかも……」

「不純異性交遊も心配ですよ」

 女子バレー部の中に一人男子を混ぜるという判断に反対する意見が出る。しかし一方で賛成の意見も出てきた。

「ですがバレーボールという競技がしたいのであればやはりバレーボール部ということになりますよね」

「男子でバレーボールをしたいという人が近隣にいないのなら致し方ないのでは?」

「生徒のやる気を尊重してやらせてあげたいのですが……」

 バレー部への入部を認めたバレー部顧問を差し置いて、教師の間で賛成派と反対派が意見をぶつけ合う。その中で約少数、賛否に悩む教師もいる。

「最近よく言われる性的少数者とかジェンダー的な感覚の可能性もあるかもしれませんよ」

「新しい取り組みとしてはいいとは思いますが、他に部員がいないとなると……」

「簡単に認めるのも一概にダメと言ってしまうのもどうかと……難しい問題ですね」

 朝の職員会議のことはもうみんなの頭の中になく、女子しかいないバレー部に男子の入部を認めていいのかどうかの意見が飛び交っていた。

 飛び交う意見をしばらく聞き流していたが、一行に収束する気配がない。机を一度強く叩いて音を響かせ、職員室内に数分ぶりの静寂を作り出す。

「当人がやりたいんや。まずはやらせてやればええやろ。すぐ嫌になってやめるかもしれんし、問題も起こるかどうかわからん。しばらくは様子見でええやろ」

 伊野部の件で今すぐに結論を出すのは早計だろう。問題を起こすような奴かどうかもわからない。ただ純粋にバレーボールをしたいだけかもしれない。それならその思いを尊重してやるのが指導者である教師のすることだろう。

「何かありそうやと思ったらすぐに退部させたらええやろ」

 極端に男子がバレーボールをする環境が整っていない地域。男子の中では今やバレーボールはマイナー競技だ。

 オリンピックでメダルを取って、身長が高ければとりあえずバレーボールをやらせる。そういった時代は遠い昔。少子化の上、さらに競技人口は野球やサッカーというメジャー競技に奪われ続けている。その結果、大会出場校数も年々減少。前は市の大会に出場するのにも予選があったが、今や出場登録すれば市大会から始まる地域もあるくらいだ。

 バレーボール部顧問としてはマイナー競技の競技人口をわざわざ減らすのも勿体ない。それにまだ中学生だ。この先どんな成長を見せるかわからない。この経験が生きていい大人になるかのせいもある。だからこそ多少は融通を利かせてやる。

 しかしそこは教師。当人や周囲に悪影響が起こる可能性が少しでもあれば即刻退部させる。その鉄の決意は最初から最後まで揺らぐことはないだろう。あくまで今は当人の意思を尊重して認めただけに過ぎない。これから先がどうなるか、それは伊野部自身の身の振り方一つで決まる。

「それよりも今は職員会議やろ」

 いつもならもう朝の職員会議が終わってホームルームが始まる頃。こんな時間に全ての教師が職員室にいるのは、海港中学に赴任して来てからは二回目くらいか。

 時計を見て急いで職員会議が始まる。話も短く、赴任してきてからは最も短い職員会議だった。会議を終えて慌ただしく職員室を飛び出していく同僚を見送り、人数が大幅に減った職員室はまた静まりかえる。

 机の引き出しを空けて中から一枚の紙を取り出す。その紙はバレー部の次の大会の対戦表。出場チーム数は男子と女子では倍近く違って、もちろん女子の方が多い。

 海港中学という文字は女子の方にはあり、男子の方にはない。




 ~雪村聡美(海港中学二年・バレーボール部)~


 いつも通り授業を終えて体育館へ行く。練習着に着替えて全体練習が始まるまでは個別のウォーミングアップ。そしていつも通り全体練習が始まると思った矢先、毛利先生が昨日の男子生徒と一緒にやってきた。

 なんでも前の学校でバレーをやっていて、他でバレーボールをすることができない。だから女子に混じって一人で練習に参加するらしい。それはまぁいい。来週には新入生向けのクラブ見学もあってどのみち部員は増えるのだから、数日早く新人が増えることはあまり気にならない。

「じゃあ雪村。伊野部のことはお前に任せるわ」

「わ、私ですか?」

「そうや。こいつ二年やからな。三年より二年がええやろ。それにお前同じクラスらしいやんか。じゃあ、任せたで」

 毛利先生はそう言ってさっさと教官室へ。そしてそのまま体育館も出てどこかへ行ってしまった。

「……え?」

 突然降って湧いた男子部員の対応係。いったい何をしろというのか。

「えっと……」

 やってきた転校生の伊野部俊。まだ制服のままだから、まずはどこかで着替えなければならない。

「更衣室は……無いか。どこで着替えようか」

 各クラブ用に部室は一応用意されている。しかし男子バレー部はないため、女子用に一室しかない。その部室も体育館の外。靴の履き替えが面倒くさいので、大荷物だけ部室に置いて、舞台裏で着替えている。緞帳が下りているので目隠しにもなるし、舞台裏はそもそも見えにくいように作られている。

 みんなそこで着替えているが、新入部員とは言え男子だ。そこで着替えさせるわけにもいかない。

「毛利先生が用具室の上で着替えろってさ」

 体育用具を置く倉庫。バレーボールやバスケットボール、得点板やバレーのネットなどを片付ける倉庫。そこから二階へと上がれる。窓の開け閉めができる程度の細い通り道が体育館の二階をぐるりと囲んでいる。用具室の二階は確かに部屋に近い。

「じゃあそこで着替えて」

 さっさと用具室へと消えていった伊野部。数分と経たずに練習着となって戻ってきた。練習試合で遠征に行った際、バレーコートを二面作ってその学校の男子が隣のコートで練習している姿を見たことはあったが、海港中学の体育館で男子の練習着姿を見るとは思わなかった。

「じゃあこれから全体のウォーミングアップね。ランニングからだけど、昨日最初の部分は見たから言わなくてもわかる?」

「ある程度は」

「そう、じゃあボールを使う練習になったらまた説明するから」

 こうして男子を一人混ぜて全体練習が始まった。

 いつも通りランニングから始まってブロックジャンプ、リフティングと進む。まだそこまでしか見ていないので断言はできないが、おそらく伊野部はかなり上手い。ブロックのステップは早いし、飛んだときの手の形も綺麗だ。リフティングでもボールの扱いは上手くミスがなかった。

「へぇ、思ったより基本はしっかりしているみたいね」

「まぁ、小学生からやってるからな」

「そうなの。じゃあルールとかも大丈夫?」

「試合経験もあるし、前の学校じゃ一年は順番に審判もやらされたから大丈夫だ」

 ボールの扱いも身体の動きも上手い。海港中学では小学生のバレーボールチームはあることはある。そこに属していたわけではないが、海港中学によく来るので内情はよく知っている。練習は週に一日か二日程度で、お世辞にも今の小学生メンバーに上手い選手がいるとは言えない。

「それは良かった」

 伊野部がいたところはどうやらしっかり練習するチームだったようだ。できが悪くて指導が必要だとどうしようかと思ったが、その心配が無くなって少し余裕ができた。

「じゃあ対人だけど、今日は私とね」

 その後はアンダーハンドパスやオーバーハンドパスや対人レシーブ、それから軟打と強打に対するレシーブやサーブレシーブなどを見た。正直言って非の打ち所はない。基本はしっかりできているし、身体の動きもスムーズで無駄はない。

 これだけの技量を身につけるだけの練習をしてきていたのなら、バレー部がないからと行って簡単に諦めなかったのも頷ける。

 スパイク練習では少し嫉妬した。ネットの高さが男女では違って、男子の方が女子より高い。その高さでスパイクを打ち慣れているのだろう。非常に高い打点から男子らしい強いスパイクを打っていた。しかもコースをしっかり打ち分け、狙ったところに打つのも上手かったのだ。

 サーブのスピードとコースも良く、サーブレシーブも上手い。苦手がないのかと粗探しをするように観察していたが、攻撃も守備も一通り何でもできる選手らしい。

「休憩!」

 練習も一区切りついたところで一休み。余裕そうな伊野部はキョトンとしていた。

「もう休憩? まだ全然余裕だぞ」

「数年前に毛利先生が『熱中症対策で休憩の数を増やす』って言って休憩の回数と時間が二倍になったらしいよ」

 熱中症で毎年重傷者が全国で何人も出ている。それを気遣ってのことだろう。実際に熱中症で倒れた人を見たことはないが、去年もニュースで見たことがある。だから気をつけるのには賛成だ。

「休憩が終わったらチーム練習だから、伊野部は下級生側に入って」

「下級生側?」

「チーム練習だから上級生を中心とした試合用メンバーと、下級生を中心とした対戦相手用メンバーで練習するの」

「ああ、そっか。でもそれだと戦力差が大きくないか?」

「そうだけどチーム練習ってなるとどうしてもこうなっちゃうから、バランス取るために伊野部が下級生側に入るの」

「なるほどな」

 伊野部は上手い。男子だから高さはあるし、スパイクの威力も申し分ないだろう。これほどの練習相手はなかなかいない。

「あと下級生側は前衛と後衛はほぼ固定だから、伊野部は前衛で私たちに勝つ気でやってよね」

「ああ、わかった……って、私たち?」

「そう、私たち。私は上級生側だからね」

「つまり、雪村はレギュラーってことか。二年なのに三年に勝ったのか。すごいな」

「私は一年の頃から試合に出ているけど?」

 伊野部が少し黙った。

 すごいと言われたが何がすごいのかよくわからない。経験している年数が長ければ長いほど上手いわけではない。小学生からバレーボールをしてきたチームメイトも中学生から始めた自分と大差なかった。試合に出られるかどうかに年齢も経験年数も関係ない。上手になればメンバーに抜擢されるものなのだ。

「いや、お前はやっぱすごいよ」

「そうなの?」

 何故褒められたのか理解できないまま、チーム練習が始まる。思った通り伊野部のスパイクは女子ではなかなか止められないし、レシーブもままならない。伊野部が次々に下級生側のチームの得点を挙げていくのを目の当たりにして、やはり羨ましいと思ってしまう。

 上級生チームと下級生チームでの変則ルールでの試合はなんとか上級生チームが勝った。しかし守備に入っている伊野部を避けてサーブを打ち、伊野部のブロックを避けてスパイクを打ち、伊野部が打ってくるときは半ば諦めながらレシーブをしていた。得点では勝ったが、正直負け同然の結果だった。

 男子が一人相手側に入るだけでこんなに違うのかと、チーム競技ではあるがすごい選手が一人いることの影響力の大きさを実感させられた。そしてそれと同時に、試合に出るメンバーにもこういう選手がいればもっと勝って上に行けるとも思った。




 ~伊野部俊(海港中学二年)~


 バレー部の練習に参加した翌日、登校して普通に教室へ入ろうとしたところを拉致された。男子トイレに連れ込まれ、出入り口には三人が異様な様子で逃げられないように立ちふさがっていた。

「おい、伊野部。お前、バレー部に入ったらしいな」

「あ、ああ、もともとバレーやってたからな」

 まだ転校した手でクラスメイト全員の顔と名前が覚え切れていない。隣のクラスになればさらにわからない。三人とも見たことのない顔だ。同じクラスでもなさそうで、いったい誰なのかがさっぱりだ。

「男子バレー部なんてねぇんだよ。それはわかってるよな?」

「わかってる。だから練習させて貰っただけだよ」

 三人がゆっくり迫ってくる。距離を置こうと後退るも、トイレの奥行きなどそこまであるわけではない。すぐに壁に背中が当たり、下がることができなくなる。

 そもそも何故トイレに連れ込まれたのかわからない。バレー部の件は毛利先生に許可を貰ってのことだ。バレー部を選んだのも前からやっていた競技だったから。他人にとやかく文句を言われなければならないことはないはずだ。

「何の用だよ。バレー部の件は毛利先生に許可を貰ったんだぞ」

 この学校では毛利先生の名は絶対。それだけはたった数日しかいなくても確信を持って言える。その毛利先生の名を出して、自分のやったことが正当なものだと主張してみる。

「そんなことどうでもいいんだよ!」

 一人が怒鳴った。何をそんなに怒鳴る必要があるのかさっぱりだ。

「男子バレー部だと? そんなもの……」

 認められない、とでも言いたいのだろうか。そうなるとこの三人の背後には女子バレー部の誰かがいるのかもしれない。いきなり入部してきたたった一人の男子。毛利先生の許可は得られたが、部員達がどれだけ納得しているかはわからない。だからこのようにクラブの外から圧力をかけて、たった一人の男子をバレー部から追い出そうとしているのかもしれない。

「……思いつきもしなかった」

「は?」

 迫ってきた三人の背後関係を考えていたところ、全く想像していなかった方向に話が展開していく。

「そうだよな。男子バレー部創設って手があったんだよな。ちくしょう!」

「どうして御裸体はそんな簡単なことに気が付かなかったんだ」

「本当だ。もし思いついていたら今頃はもしかしていたかもしれないのにな」

 拉致された当人を無視し、何故か三人は悔しがっていた。その悔しがっている様子も何故悔しがっているのかはさっぱりだ。

「な、何なんだよ、いったい……」

 話の方向性や展開がさっぱり読めなかった。

「お、伊野部。二組の陸上部トリオとも仲良くなったのか? お前って思ったよりコミュニケーション能力高いんだな」

 トイレに現れたのは同じクラスで野球部の村山鉄也。神田と話しているところにやってきて話したことがあるので顔と名前が一致している一人だ。

「いや、いきなり拉致されて俺もよくわからないんだけど」

「拉致? なんだそりゃ」

 村山はひとまず用を足し終えてから、事情を聞くことにした。

「ああ、こいつらは三人とも二組で陸上部な。仲が良くていつもつるんでいるから陸上部トリオってみんなひとくくりにして呼んでる」

 そのまま三人の紹介をしてくれた。陸上部で短距離をしている芹沢疾風。走り幅跳びの五間仁介。長距離の日暮徹人。違うクラスでクラブも違うためあまり接点はないだろうが、一応顔と名前を一致させるために何度も頭の中で名前を繰り返した。

「そして雪村大好きトリオでもある」

「はぁ?」

 村山の説明に変な声が出た。

「この三人は雪村と小学校が違うんだ。三人とも入学式の時に雪村に目をつけて、そのあと三人とも告白して三人とも振られてる。まぁ、最初から成功しそうな気配はまるで無かったから当然の結果だな」

「おい、村山。そこまで言わなくても良いだろ」

 芹沢が村山の言葉を封じようとするが、村山は口を閉ざすどころか言葉を続ける。

「事実だろ? 陸上部トリオは別々になったら告白方法のあだ名で呼ばれてるしな」

「あだ名?」

「おう、土下座の芹沢は略して土下沢。ラブレターの五間は略して五間レター。つきまとう日暮は下の名前からテツトーカー。ちなみに去年の五月にはもう定着していた」

「去年の五月って入学してわりとすぐだな」

 四月に入学して五月にこんなあだ名が定着するとは、どれだけアクティブに告白をしに行ったのだろうか。男子のいないバレー部へ入部させて欲しいといいに言った、自分の行動力とは比較にならないのではないか。

 あだ名の件に関しては返す言葉がないのか、陸上部トリオは黙ってうつむいていた。

「まぁ、雪村は普通に可愛いからな。他にも上級生や同級生から何度も告白されたらしいけど、誰とも付き合ってないみたいだ」

「へぇ、そうなんだ」

 多くの人達から告白されたのなら、付き合うという選択もあったはずだ。しかしそうならなかったのは単純に言い相手がいなかったか、雪村に何か理由があるのかもしれない。

「……ってか、それと俺にどう関係があるんだ?」

「関係って、決まってるだろ!」

「伊野部が今一番雪村に近い男なんだよ!」

「もし俺の雪村が他の男に惚れたらと思うと……」

「「誰がお前の雪村だよ!」」

 お笑い芸人のグループのように息の合った三人のやり取りだった。

「えっと、つまり、俺がバレー部に入ったことで雪村と俺の距離が近いことが問題ってことなのか?」

「この三人はそうみたいだな」

 陸上部トリオは片思いとはいえ好きな女の近くに男が現れたことを気にしている。そして雪村に近づく方法として男子バレー部の創設という選択肢があったことに気付かず、そのアイデアを転校生が実現したことから因縁をつけにトイレに拉致したようだ。

「……それで俺はどうすればいいんだ?」

「もちろん、雪村に手を出したら俺達が許さねぇって言いに来たんだよ」

 好きな女に接近する男に釘を刺しに来た。ということらしい。しかしそれは全くの見当違いだ。

「転校したての俺にそんな余裕あるわけ無いだろ」

「可能性があるなら、先に潰しておくだけだよ」

「可能性って……」

 三人の考えはよく理解できず、どう対応していいのかわからない。

「まぁ、ほっとけ。こいつらは端から見ていると面白いけど、実際絡んだらこれ以上に収拾がつかなくなる」

「これ以上に、か。それは怖いな」

 いきなりトイレに拉致される以上に収拾がつかなくなる。村山の言っていることは想像できないが、三人を見ているとなんとなくわかる気がした。

「それより男子バレー部、作っておいてくれたら……」

 もっと楽にバレーボールができたのに、彼らの行動力はプラスにはならなかった。

「思いつかなかったって言ってるだろ。それに……鬼も怖いだろうが!」

 陸上部トリオはそう言い残してトイレを飛び出していった。拉致された自分とたまたまトイレに来た村山。二人だけになってトイレで顔を見合わせた。

「ところで、どこで着替えたんだ? バレー部の部室か?」

「まさか、用具室の上だよ」

「……まぁ、そんなもんか」

「何か期待してたのか?」

「……ちょっとな」

 村山に「そんなことあるわけ無いだろ」と返しながら教室へ。学校全体に朝のチャイムが鳴り響いた。


 土曜日、授業が休みのため午前と午後の二部練習。聞いていた集合時間に体育館へ行くと見慣れない人がいた。

 バレーボールの練習着にシューズ。万全の体制の格好をした女の人だが、その身体はあまりにもスポーツ向きではなかった。丸々とした体型が体育館の床に座っている姿を後ろから見ると、重そうなドシッとした体と形から正月の鏡餅が思い浮かんだ。

「あれ、誰?」

 近くにいた三組の秋本梨子につい聞いてしまった。

「ああ、持田さん」

 持田、そう聞いて内心「餅で正解か」と思ったが口には出さない。

「毛利先生が以前いた学校の卒業生なんだって。就職したのがこの近くで、土日だけコーチで来るの」

 海港中学の卒業生というわけではないが、毛利先生の教え子という繋がりでやってきている外部コーチ。そう聞いてまず一番に思ったのが、持田さんのスポーツに不向きすぎる体型だった。

「あの人、コーチできるの?」

「それがね、昔のポジションはセッターらしくて、私は同じポジションだからよく指導されるんだけど、あの体型ですごく機敏なの」

「マジか」

「持久力はもう無いみたいだからよく休憩するけどね」

 持久力が無くてよく休憩する。そう聞いてその姿が容易に想像できて、少し笑えた。

 練習が始まってしばらく、ボールを使う練習になると、動く鏡餅ならぬ持田コーチが動き出した。重そうな身体を揺らしながら、ボールを手に持つ。

「はい、じゃあレシーブ入って!」

 持田コーチがネット際に立って、コート内に女子が三名。ボールを打ってレシーブさせるが、強打と軟打を使い分けてレシーブ練習を行わせる。

「ほら、一歩目が遅い! 姿勢が高い! そこ、カバーに入れ!」

 ボールを投げたり打ったりして部員にレシーブをさせる。コート内を三人で守るという練習をメンバーが順番に入れ替わりながらしばらく続ける。

「ほら、男子ならこれくらい拾いなさい!」

 当然そこに上級生や下級生、男子や女子といった区別はない。全員均等に強打と軟打を複雑に混ぜている。しかし心なしか、唯一の男子に対してだけ強打はより強く、軟打はより難しい場所を狙われている。そんな気がした。

「はい、休憩ね」

 ひとしきりレシーブ練習が終わると持田コーチはさっさと体育館の端に置いてあるペットボトルとタオルの元へと向かう。まだ四月だというのに夏のように流れる汗を拭いながら水分補給をしっかりとっていた。

「ね、機敏だったでしょ」

 休憩時間、持田コーチのことを教えてくれた秋本が隣に来て小声で話しかけてきた。

「ああ、ボール持ってからの動き出しとか移動が早い」

 鏡餅のような体型であれだけ素早く動けるのは正直驚いた。そしてボールを打ったり投げたりするのもコントロールが良い。コーチというだけのことはある。

「絶対に練習している選手より汗だくだよな」

「それね、夏は私たちより着替えの枚数多いから」

「夏でもあんなに機敏に動くのか?」

「もちろん。だから飛び散る汗を拭くためのモップやタオルを常備していないと、そもそも練習にならなかったりするんだよね」

 四月であの汗の量だ。八月ともなれば常時汗が噴き出ているかもしれない。

「動く鏡餅ならぬ踊る鏡餅か、と思ったけどもう一捻りいるな」

「鏡餅って……あははっ! 伊野部、けっこうあだ名つけるセンスあるかもね」

 秋本がバシバシ背中を叩いてくる。まだバレー部に入って日は浅いが、バレー部に限らずこの海港中学の面々はみんなフレンドリーなのかもしれない。

「恵那と沙百合にも教えてあげよう」

 秋本は同い年のメンバーのところでなにやら話している。そして三人で大笑いして盛り上がっている。鏡餅というあだ名はそれほどぴったりだったようだ。

「本人には聞こえるように言わないでよね」

 大笑いする三人を見ていると、雪村がペットボトル片手に歩み寄ってきた。

「言うわけないだろ」

「ならいいけど」

 雪村はそれだけを言うと離れて行った。結局何が言いたかったのかよくわからなかったが、あだ名については少し気をつけるようにしよう。

 休憩が終わって次はスパイク練習。女子のネットの高さは男子よりも低い。だから軽々とどこへでも打てる。コートの隅やラインギリギリを狙う練習を自分なりに課していると、いつの間にかシャツが新しいものに替わっている持田コーチが歩み寄ってきた。

「アンタ男子でしょ。女子のネットでスパイク打っても練習にならないんじゃないの?」

「えっと、一応コースを打ち分けたりライン際を狙うコントロールの練習のつもりでやっています」

「そう、考え無しに練習しているわけじゃないのはわかったわ。でも男子のネットの高さで同じことが出来るかというとそうじゃないでしょ?」

 言いたいことはわかる。女子の高さでできることを男子の高さでやるなら、その高さの差だけ高く飛ばなければならない。女子のネットでの練習は男子にとって必ずしも有効というわけではない。

「でもスパイク練習でネットの高さが影響しない練習なんて……」

 そこまで言って気付いた。さっき秋本に教えてもらったはずだ。持田コーチの現役時代のポジションはセッターだと。

「アンタ、セッターやりなさい」

 トスを上げるというプレー、特にコンビネーションを必要とする速攻でなければネットの高さはあまり重要ではない。

「でも俺、ポジションはセッターじゃなですよ」

「一人しかいないのにポジションも何もないでしょ?」

「まぁ、それはそうですけど……でも俺やったことないです」

「だから練習するんでしょ。ほら、順番にトスを上げなさい。秋本の後ろに並んで」

 スパイクを打つ順番待ちの列からトスを上げる列に移動させられる。

「質問があったら何でも聞いていいよ。セッターの先輩だから」

 秋本が得意げに笑っていた。

 女子のセッターは現在秋本以外に三年生が一人。二人から三人になってトスを上げる側は楽になったかもしれない。しかし慣れないポジションに回されたセッター初心者はなかなかつらい。

 ネット沿いにまっすぐ綺麗なトスを上げると言うことがこれほど難しいとは思わなかった。コートの中央や後方から前衛のスパイカーが打てるトスを上げるのには慣れていたのだ。しかしネット際に立ってネット沿いに上げるという、少し環境が変わっただけでこれほどやりにくいとは予想外だった。

「ちょっと伊野部、トスがネットに近い!」

「悪い!」

 ちょうど順番が回ってきていた雪村に怒られる。秋本は相変わらず得意げに笑っていたが、途中から周囲の様子に気を配る余裕もなくなり、十分の番が回ってくるととにかく丁寧にトスを上げることを心がけた。

 その後サーブ練習を終えてチーム練習。そこまでやってようやく午前練習が終わった。スパイク練習の時にいきなりセッターをやらされたが、チーム練習の時には下級生側のチームで相変わらずスパイクを打っていた。それでも慣れないセッターというポジションのおかげで精神的にずいぶん疲れた。

「伊野部、昼ご飯は?」

 昼休憩に入るやいなや、二年生で一番背の高い長谷川沙百合が近づいてくるなりいきなり質問してきた。

「あるよ。一応コンビニで買ってきた」

 コンビニ弁当を買ってきたことを言うと、長谷川は不満そうな表情に変わる。

「えー、なんだ。買い出しジャンケンに混ぜてあげようと思ったのに」

「買い出しジャンケン?」

「そう、昼休憩限定買い出しジャンケン。全員が欲しいものを言ってジャンケンに負けた人が買いに行く」

「それってパシリじゃないのか?」

「違うよ。あくまでコンビニに買いに行く人達限定。つまりついでだね」

 その後に「もちろんお金は先払いだよ」と付け加えられた。

「じゃあ伊野部は行かないとして、何かいる物はある?」

「え?」

 昼食も事前に購入してきた。水分も十分で足りなくなればウォータークーラーなどの設備もある。これと言って必要な物が思い当たらない。

「い、いや、無い、かな」

「そう、まぁ何か必要な物があったら言ってね。ただし買いに行くときは強制的にジャンケンに参加させるけど」

 長谷川は去り際に「こっそり行くのは禁止だからね」と言い残し、他の女子達と一緒に昼休憩に行く。

「これは……一応受け入れられてはいる、のか?」

 もしバレー部に受け入れられているとするなら、ものすごく懐の深いチームなのではないだろうか。いや、そもそもクラスメイト達もかなりフレンドリーだ。一人孤独を感じることはない。野球部の神田や村山、陸上部トリオ。何かと声をかけてくれるため、転校してきてまだ一週間足らずだというのに馴染めてきたような気がしているくらいだ。まるで海港中学全体が受け入れてくれているかのようだった。

 午後の練習はサーブレシーブから始まり、チーム練習が中心で進んでいく。何でも聞くところによると明日は練習試合があり、四月下旬には公式試合があるらしい。週明けには新入生のクラブ見学もあり、四月は何かと慌ただしいようだ。

 チーム練習を終えた夕方。最後にサーブ練習をしている時、持田コーチが巨体を揺らしながら歩み寄ってくる。

「伊野部、ちょっといい?」

「はい、何ですか?」

「アンタ審判はできる?」

「できます」

「全部?」

「主審副審線審記録、一通りできます」

「そう、じゃあ明日の練習試合は悪いけど一日主審やってくれる?」

「はい、わかりました」

 なんとなくわかっていた。試合に出る可能性のある人より、試合に出る可能性のない人が審判をした方が効率はいい。特に主審ともなれば試合の間ずっと立っていて、身体も冷えてしまうためすぐに動けない。人員がいるならその人が主審をした方がチームにとっていいことだ。

 海港中学バレーボール部に所属しているとはいえ、基本は女子だらけのところに居候や間借りをさせてもらっているような状況だ。こういった裏方の役目はできる限り応えた方がいい。バレー部のためにも、自分のためにも。




 ~雪村聡美(海港中学二年・バレーボール部)~


 日曜日、練習試合の日の朝。体育館にネットを張ってウォーミングアップ中、練習試合の相手の桂北中学がやってきた。

 市大会出場を争う同地区のチームのため、市大会予選で対戦する可能性はある。しかし対戦表では決勝までは当たらないし、市大会に出場できるのは地区から二校まで。決勝まで行けばどちらも出場決定となる。そのため試合前だが練習試合が実現した。

「おっはよー、聡美」

 桂北中学の二年、竹本友加里。桂北中学で一番身長が高く、共に一年生の頃から上級生に混じって試合に出ている。そのため対戦機会も多く、自然と仲良くなっていた。

「ねぇねぇ、あれ何?」

「あれ?」

 友加里の視線の先には伊野部がいた。男子バレー部のない海港中学に男子がいれば当然気になるだろう。

「新しいコーチっぽくはないよね」

 ニコニコ顔で聞き出そうとしてくる友加里が少しウザったい。彼女は少し野次馬根性のようなものが強く、新しいものや変わったものに興味を持ちやすいのだ。その分よく話しかけてくるし、饒舌で色々と話してくれる。そのためきっかけさえあれば仲良くなりやすい性格だ。

「転校生だよ」

「おぉ、転校生ね。それがまたどうして体育館に?」

「前の学校でバレー部だったから。男子の部活はないって言ってもバレーがしたいからってバレー部になっちゃったの」

「へぇ、女子に混じって男子一人か」

 友加里が肩を組んできて、耳元でささやくように次の問いをぶつけてくる。

「それで、誰と付き合ってんの?」

 興味本位の野次馬根性丸出しで楽しそうに質問してくる。そのニヤニヤした顔は視界に入っていなくても容易に想像できる。

「四月に転校してきてまだ一週間経ってないんだけど?」

「いやいや、一目惚れとかあるでしょ? 恋が始まるのは一瞬だって」

「あー、はいはい。想像にお任せしまーす」

 友加里を振り解くように距離を取る。

「それだったらそっちも男子と付き合ってないの? 桂北は男子もあるでしょ?」

 桂北中学のバレー部は男女両方ある。そして男子も女子も共に地区大会では競合で知られており、市大会出場の常連校だ。

 そんな桂北中学も体育館は広くなく、狭い体育館にバレーコートを二面設置して練習している。つまり四六時中近い距離で練習していることになる。突然現れた転校生と色恋沙汰になるよりも、何十倍も何百倍も距離が縮まりそうな環境と言える。

「いやぁ、無いね」

「無いの?」

「全く無い。男女両方チームがあるっていっても、バレーコートは二面だよ。練習もそれぞれでしているわけ。同じ空間にいても用意と片付け以外はほとんど接点無いんだから」

「そうなんだ」

「男女のチームがあってもどこもそんなもの。ネットの高さも違えば身長や高さに力も違うからね」

 少し意外だった。同じ空間に長く一緒にいれば距離が縮まると思っていた。しかし練習が男女ではっきり分かれてしまっていると、同じ空間にいるだけで別のチームのようなものなのかもしれない。

「それで、そっちは?」

「は?」

「一緒に練習しているのかって聞いているのよ」

「そりゃ、一人じゃ何もできないでしょ?」

「ほうほう、つまり距離が縮まる可能性ありってことか」

 友加里はずいぶん楽しそうだ。またニヤニヤと笑みを浮かべている。

「じゃあえっと……なんだっけ? 経過観察?」

「観察しなくていいからさっさと着替えろ!」

 すでに部隊袖からは着替え終わった桂北中学のメンバーが出てきている。まだ着替えていないのは友加里ただ一人だった。

「おぉ、ヤバい」

 慌てて着替え場所の舞台袖に向かう友加里だったが、一度足を止めて振り返る。

「四月は変わらないかもしれないけど、七月の試合の時にもう一回聞くからね」

「聞かなくていい!」

 部隊袖に向かう友加里を見送りながら、もう一つため息を漏らす。

 友加里は距離感も近いし話しやすいから接しやすい。興味本位の野次馬根性丸出し状態でなければ、一緒にいて楽しいとしか思わないいい奴なのだ。

「いい奴なんだけど、なぁ……」

 癖が少々強いのが欠点というのが彼女に対する率直な感想だった。




 ~伊野部俊(海港中学二年・バレーボール部)~


 週明けの月曜日から新入生向けのクラブ見学期間が始まった。そこで入部を決めた新入生が新たな部員としてバレー部に名を連ねることになった。そして入部することになった新入部員へ、基本的なアンダーハンドパスとオーバーハンドパスから教える役目を請け負うこととなった。

 実は少し、期待していた。新入部員に男子がいて、もしかするとチームを作れるようになるのではないか、という淡い期待。しかしその願いは叶うことはなく、新入部員は全員女子だった。

「アンダーハンドパスは手を組んで手首を締める。そうすると面ができるから、そこでボールをコントロールするんだ。腕は振らずに身体を使ってやってみよう」

 学校指定の体操服を着た新入部員を一列に並べ、その前に立ってパスの基本を教えようとしている。しかし新入部員達の反応は薄い。

「伊野部、その教え方じゃダメ」

 教え方が悪いとわざわざ言いに雪村がやってくる。

「何がダメなんだ?」

「経験者に通用する言葉を使っても初心者はわからないでしょ?」

「え?」

「手首を締める、面を作る、腕じゃなくて身体を使う……経験者だったら細かい説明がなくても通用するけど、中学校に入って初めてバレーボールに触れる子だっているんだからそれじゃ通じない」

 初めてバレーボールに触れる。そう聞いて自分が始めたばかりの頃を思い出す。

 確かに経験者の先輩達の会話の半分以上が理解できていなかったかもしれない。それでもボールを触って遊び半分練習半分で経験していくと、先輩達の言っていることが理解できるようになっていった。

 今から新しく始める人達も理解できないことは多いかもしれない。しかし経験していくうちにできるようになっていくし、わかることも増えていくものなのではないだろうか。

「いい? 手首を締めるというのはこういう動きのこと」

 雪村はアンダーハンドパスをするために手を組んで腕を伸ばす。そして手首を反らせて手首部分をできる限り平らにする。そしてそこで一度手を解き、ボールを持って体育館の床にまっすぐ垂直に落とした。

「面というのはこの体育館の床のようなもので、平らであれば平らであるほどこういう風にボールが当たったらまっすぐ戻ってくるでしょ? この平らな床のような場所を作るとボールをコントロールしやすくなるの」

 そして次にアンダーハンドパスの姿勢でリフティングを始める。まっすぐ天井に向かって放り投げたボールはまっすぐ落ちてくる。それをほとんどその場から動くことなく何度も上下させている。

「身体を使うというのは腕を動かしてボールをコントロールするんじゃなくて、膝を使った上下運動でボールをコントロールするの。こうすると腕が床と水平の状態を保っていれば、まっすぐ上がってまっすぐ落ちてくるの」

 実演しながら教えていく。その教え方はきっと上手なのだろう。さっきまで反応が薄かった新入部員達が小さく頷いているのがわかる。

「はい、じゃあ後は任せたから」

 雪村はそういう都全体練習へと戻っていく。今月下旬には試合があるためか、いつも以上に気合いが入っているように見える。昨日の練習試合でも鬼気迫る雰囲気が審判をしていても十分伝わってきた。

「ああ、悪かったな」

 気を取り直して、新入部員達へ再び教え始める。できるだけバレーボールを知らない人にもわかりやすく伝わるように意識しながら。

 しかしそれでもその後、雪村に二度も教え方が悪いと指摘されたのだった。


 新入部員を迎えて初めての土曜日。この日も持田コーチは意気揚々と巨体を揺らしながらやってきた。

「伊野部、そんなんじゃダメでしょ」

 新入部員に対してこの日も指導を行っていると、いきなり口頭で注意を受けてしまう。

「えっと、どうダメなんですか?」

「すぐチームワークとか戦術の話しに行っても初心者はわからないんだから、そういう話は後回しにして最初は基本と反復練習じゃなきゃダメなの」

 初日は何もわからなくてもしかたがない。しかし日数が立てばバレーボールという競技を覚え、試合のルールも少しずつ把握していく。最終的には彼女たちも戦力として試合に出ることになるのだから、それを見越して戦術やチームワークに直結する練習がなぜダメだというのか。

「いい? 中学生になって体育の授業以外で初めてスポーツをする子もいるの。そういう子の中にはスポーツ観戦だってろくにしていない子もいる。そういう子達にチームワークをいくら話しても実体験として経験しなきゃ伝わらない。その実体験ができるようになるには、まずは個人が基本を身につけるのが第一なの」

「は、はい……」

「最低でも簡単な緩い球に対して、先に落下点に入って綺麗に狙った場所に返す。チームワークはこれが最低限できるようになってからよ」

「で、でも俺は一週間くらいである程度パスはコントロールできたんですけど……」

「初めてスポーツをする子もいるし、運動神経のいい子や悪い子、感覚を掴むまで早い子や遅い子、得手不得手も含めて新入部員の初心者は色々いるの。アンタができるからってみんなできると思わないこと。いい? わかった?」

「はい、すみません」

 初心者への指導のしかたでまたしても怒られてしまった。

「アンタ、試合に出るの?」

「え?」

 いきなり何を聞いてきたのか、最初はよくわからなかった。

「伊野部は試合に出るのかって聞いているの」

「いえ、出ません」

 女子しかいないバレー部で唯一の男子だ。試合に出られるはずがない。それは先週の時点でわかっているはずだ。

「試合に出る以外のところでバレー部に貢献するわけでしょ? じゃあコーチングくらいできるようになりなさい」

「あ……はい」

 試合に出られない。だからただ単にバレーの練習だけをしていればいいというわけではない。それは自分でも自覚している。練習試合の審判にレギュラーメンバーの練習相手。そういった裏方をするなら、当然そこには選手達の能力を伸ばす練習相手としてのスキルも必要になってくる。

 初心者には初心者に合った練習、経験者には経験者に合った練習。それを考えながら練習相手を務めろと、持田コーチは言いたいのだろう。

「はい、わかりました」

「そう、じゃあ続きやってごらん。見てるから」

「はい」

 自分の経験則だけでは教える側は成り立たない。今週、新入部員達を相手に教えながら、雪村の指摘や持田コーチの叱咤でそれに気が付いた。

「じゃあ次はスパイク練習だけど……」

 新入部員の中に高く浮いたボールを打つのが苦手な子がいる。その子にも数をこなせばできるようになると、ずっとみんなと同じように練習させていた。しかし他の子達に比べて明らかに空振りやタイミングのズレが多い。

 その子にはまずスパイクを打つ為の踏み込みからジャンプさせ、山なりに浮かせたボールを空中でキャッチさせる練習をさせてみた。するとスパイクの踏み込みと空中のボールとの距離感やタイミングを計れるようになったのか、この日以降スパイク練習での空振りは劇的に減った。

 教え方一つでここまで変わるのかという驚きと、今までの自分の教え方がどれだけ初心者向きでなかったかを痛感した一週間だった。


 新入部員の指導に手応えを感じ成長が見え始めた四月下旬。試合の日がやってきた。その試合がどういう試合かを雪村に聞いたとき、聞き慣れない言葉が返ってきた。

「地区大会ブロック予選?」

「そう、地区大会ブロック予選。伊野部の前の学校はなかったの?」

 聞き慣れないということはなかったのだろう。海港中学に来て初めて聞いた。

「市大会に出場できるチーム数まで絞るのが地区大会。市をいくつかの地区に区切って予選をする。でもチーム数が多いと普通に地区予選をするだけじゃ試合数が多すぎる場合があるの」

「それで市大会に出るための予選である、地区大会に出るための予選ってことか」

「そう、それで地区大会に出る予選のチームなんだけどそこまで細かく区切っちゃうとさすがにチーム数が少なくなりすぎるの。だから地区内のチームをくじ引きでいくつかのブロックに振り分けて、そこでまず総当たりで地区大会出場チームを決めるの。だから地区大会ブロック予選ってこと」

 小規模の地区大会は前の学校でもあったが、そこに行く前にさらに予選があるというのは意外だった。

「じゃあ今日勝ったら次は地区大会をトーナメントでするわけか」

「そういうこと」

「それで今日は何チーム来るんだ?」

 海港中学が会場校となっている。昨日の帰り際に観客席用の長椅子を出したり、土足でも歩いていい場所にシートを引いたり、試合用の準備を一通り済ませておいた。

「二チーム来るから三チームで総当たり。今日一位になったチームが明日桂北中学でトーナメント戦をして、二位までが市大会出場になるの」

「そっか。それでブロックはいくつあるんだ?」

「四つ。だから明日は四チームでトーナメント戦ってわけ」

 四つのブロックに三チームずつ。つまり一つのブロックに全部で十二チームあるという計算になる。地区大会の予選を行うのもわかるチーム数だ。

 一日目のブロック戦、二日目のトーナメント戦。共に一日二試合。練習試合で一日に何セットもすることを考えると、試合の日の方が楽なのかもしれない。

 しかしそれよりも、気になることがあった。

「ところでこのブロック、男子は何チーム出場しているんだ?」

「男子は確か五チームか六チームくらいだったかな?」

 半分しかない。いや、半分もあれば十分なのかもしれない。男子バレーはマイナー競技だから、選手の数で言えば女子の半分にも満たないかもしれない。それでも女子の半分もチームがあるのは、やはり人が多いということなのだろう。

「じゃあ他のチームが来る前に練習しよう」

 会場校の特権、つまりホームアドバンテージ。慣れた体育館でできることと、試合前にもしっかり練習ができること。小さいことかもしれないが、勝敗を決める戦いでは重要だ。

「おい、伊野部」

 女子が練習を始めたところで毛利先生が現れ、顔を見るなり呼ばれた。

「お前、これつけろ」

 毛利先生に渡されたのは試合でベンチに入ることが許されるスタッフ用のバッジ。しかも「監督」と「コーチ」と「マネージャー」の三つのうちのコートバッジを渡された。

「え? 持田さんは?」

「あいつは今日試合や」

「試合?」

「平日はママさんバレーチームで選手や。それで試合やから今日は来られんから、お前がコーチや」

 持田コーチがママさんバレーチームで選手をしているのに驚いた。平日は選手として練習して、土日はコーチとして海港中学に来る。それなのにあの体型なのかと、言葉を失うくらい驚いた。

 そして毛利先生はそれだけを言うと教官室へと戻っていく。

「俺がコーチ……ってか、コーチバッジをつけるだけでただのベンチスタッフか」

 選手の側で試合を一緒に戦うベンチスタッフ。そう思うとやる気が湧いてくる。できることがどれだけあるかわからないが、チームの力になれるなら頑張ろうという意欲に満ちていた。

 しばらくすると対戦相手のチームがやってくる。海港中学の面々は一度練習を止めて引き上げ、他のチームが簡単に体育館を使う。その後、三チームが揃って大会の開会の挨拶。会場校である海港中学の監督である毛利先生が簡単に話す。

 開会の話が終われば試合モード。海港中学は一試合目と二試合目の連戦。連戦の場合は試合間を長く空けるという決まりがあるが、三チームで三試合しかしない。時間に追われることはないので、試合間はゆっくり取ることが出来る。

 ピリピリとした試合独特の空気の中、第一試合でぶつかる両チームがコートに立った。


 あっという間だった。試合はテンポ良く進み、海港中学は第一試合を快勝。続く第二試合も疲労の色は見えず快勝。第三試合は消化試合となってしまったが、総当たり戦のため審判として駆り出された。


・試合結果

第一試合 海港中学 2(25-7・25-8)0 大島西中学

第二試合 海港中学 2(25-6・25-5)0 江ノ橋中学

第三試合 江ノ橋中学 0(22―25・20―25)2 大島西中学


 この結果、海港中学が一位抜けで明日のトーナメント戦に挑むことになった。

「海港中学って強いんだな」

 敵を寄せ付けることなく勝ったことに驚いている。片付けの最中にその思いを素直に雪村に話した。

「そんなことないよ。地区大会のシード権を取っただけ」

「いや、シード権って小さい大会でも取るのは大変だろ」

「地区大会の本番は明日。明日勝たなきゃ次の市大会に出られないから」

 今日はまるで明日に向けたウォーミングアップだと言わんばかりに、雪村から闘志を感じた。その闘志を支えて勝たせなければと思いつつも、試合に向けて闘志を燃やしている姿が羨ましかった。

 翌日、桂北中学で行われた試合。海港中学は練習試合で戦った桂北中学との決勝戦を制して見事地区大会優勝を決め、市大会出場の権利を得ることになった。


・試合結果

準決勝 第一試合 桂北中学 2(25-13・25-15)0 高江中学

    第二試合 海港中学 2(25―10・25―13)0 川壁中学

決勝 桂北中学 1(23-25・25-22・24―26)2 海港中学

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