秋山節の正体② 無力な語り部

本項の内容は、『秋山瑞人文体模倣に向けた一考察』

http://allpersonaldead.hateblo.jp/entry/2014/05/26/214332

を参考としています。


秋山先生の文体には、なんとも言えない味があり、多くの人が「秋山節」という呼称を好んで使います。


では、その味とはどんなものでしょうか。私が感じるのは以下の通りです。


①語り手が「こんな面白い話があるぞ」と語りかけているかのような雰囲気

②読者に寄り添い、喜怒哀楽をともにしている感覚

③どこかノスタルジックさを感じさせる語り口


秋山作品を丁寧に読むことで見えてくるのは、秋山作品は三人称ではあるものの、いわゆる神視点とは対極にある「語り部視点」だということ。


そして、その語り部も「作者視点」というほど全知の存在ではなく、読者と同程度の権限しかもたない「無力な語り部」であるという点です。


以下では、『秋山瑞人文体模倣に向けた一考察』でも取り上げられた箇所を使い、①~③までの雰囲気を作り上げている要素を検証してみます。



 ①もう一度、最後までちゃんと目を通してみればいいのに。


 ②目下、脳死状態にある浅羽が手にしているそれは、見てくれは確かにチャチなコピー一枚である。③が、それは議論の余地なく「入部届」であり、ここ最近、この学校では『伊里野いりや加奈かな』という名前で知られている女の子が、部活動への参加の意志を表明するための正式な書類である。

 (中略)

④伊里野はおそらく、教師のだれかに「部活動に参加するにはどうすればいいのか」と質問をしたのだろう。⑤そしてこの入部届を手渡され、必要事項を記入したというわけだ。

 ⑥どこまでも正直に。

 (中略)

 ⑦目に見えるようだ、担任の欄に勝手に判をついた保健室のあの女は、伊里野の肩ごしに身を乗り出し、「入部を希望した理由」の欄まできてぴくりとも動かなくなってしまったペン先を見つめてニタリと笑ったはずである。

 ⑧――だめよ、ちゃんと正直に書かなきゃ。

 ⑨絶対だ。何をけてもいい。⑩そんなことを伊里野の耳元でささやいたのだ。⑪いざ言葉にしてしまえばただひと言の「入部を希望した理由」を、伊里野いりやは一体どれだけの時間をかけて書いたのだろうか。⑫いつまでもぐずぐずしていたのかもしれないし、正直にと言われて案外さらっと書いてしまったのかもしれない。

 ⑬屋根の上でいつまでもひっくり返っている場合ではないのだ。

 ⑭浅羽あさばがいま手にしている、伊里野の入部届の「入部を希望した理由」のらんにはただひと言、こう書かれているのだ。


 ⑮浅羽がいるから


 ⑯なのに。

 ⑰UFOの夏の空の下で、腰抜けの浅羽はひっくり返ったまま身動きもしない。一体いつまでそうしているつもりなのだろう。風がぎ、かわらはいつまでも背中に熱く、音楽室でブラスバンドが退屈なメロディを適当にかなで、グランドでは金属バットがボールをたたいた。

 ⑱しかし、今の浅羽の耳に聞こえているのは、セミの声だ。


秋山瑞人(2001)『イリヤの空 UFOの夏その1』ラブレター p196


 この箇所、秋山作品の中でも珍しいくらいに語り部が顔を出しています。

 ①の「いいのに」と言っているのは明らかに作中人物ではなく語り部です。

 しかも、かなりハイテンションです。


 なんせこの後「⑪絶対だ。何を賭けてもいい」とか言うのです。

 この語り部視点の特徴は、くどいくらいに「おそらく」「というわけだ」「目に見えるようだ」など、推測が書き連ねてある点です。


 これは考えてみればかなりおかしなことです。


 全知全能の作者様には、何が事実だったかを知ることができないはずがありません。

 「目に見れるようだ」とか言わないで、そのシーンを描写すればいいのです。


 おまけに、①の「目を通してみればいいのに」


 ⑨の「何を賭けてもいい」のように、作者が「こうであればいい」という願望を口にしているのです。


 こうしたことから、語り部は、あくまで読者と同じ目線で、浅羽の行動にもどかしさを感じ、イリヤの逡巡をニヤニヤと見つめる存在として浮かび上がって来ます。


そして、登場人物たちを「外から見る視点の存在」が、ノスタルジックさを醸し出していることにも注意が必要です。


つまり、キーポイントは「距離感」です。


例えば、⑫の「ぐずぐずしていたのかもしれないし、(略)さらっと書いてしまったのかもしれない」のような

 「AかもしれないしBかもしれない」という構文が秋山作品では多く使われますが、事実を「不明」とすることで、描写内容と読者の間に圧倒的な距離感が生まれます。


「決して届かない事実」という無力な語り部としての書き方が、「失われたもの過去のもの」と同等の距離感を生んでいるのでしょう。


そして、届かない距離を演出した中で描写される⑰の典型的な中学校の背景、熱い瓦屋根、ブラスバンドの退屈なメロディ、金属バットの快音、それらは、通常以上の懐かしい距離感を持って私たちの心に迫ってきます。



また、ノスタルジックさといえば、『鉄コミュニケイション』を忘れてはいけません。

「滅びてしまった人類の黄昏」という背景。

「夏休みです。毎日毎日、ずうっと夏休みです」というコピーに代表される「終わらない夏休み」という設定。


そうした背景もあってか、秋山作品の中でも比較的語り部視点の頻度が高い作品となっています。


①それからハルカは、多分、階段を上ったのだろう。

②あの光景を見たのだから。

③何を期待し、何を恐れ、どんな気持ちで階段を上っていたのか――そんなことは、まるで覚えていない。④茫然自失の状態で、出来の悪いロボットのように、ぎくしゃくと、危なっかしく階段を上ったはずだ。⑤その後、何ヵ月、何年という時間を経た後にも、ハルカはこの光景を何度も何度も思い出すことになる。⑥もうすぐ夏で、おまけに午後で、しかもめちゃくゃちにいい天気だったあの日の、名も知らぬとある地下道の光景を、

⑦イーヴァと初めて出会った、この光景を

秋山瑞人(1998)『鉄コミュニケイション①ハルカとイーヴァ』p37



こちらも、①や④で「~のだろう」「~はず」という推測を使うことで事実との距離感を作り、「届かない事実」を演出しています。


さらに⑤の「思い出すことになる」という描写でさらに被写体との間に距離を作り、止めとばかりに⑥の夏のシーンを描写します。


「あの日」「名も知らぬ」とノスタルジックな単語が並び、「もうすぐ夏で」「おまけに午後で」では7字ずつのフレーズでリズムを作っています。


音声的にも、映像的にも美しく、しかも無限大の距離感を持って色褪せさせられた光景。


その光景の中で、ハルカとイーヴァは出会いました。


まさに、秋山節の真骨頂と言えるでしょう。



しかも何度も言いますが、これ、ノベライズなんですよ。

こんな書き方をされたら、本編の漫画を読んだときにだって、ラストシーン周辺で、ハルカはイーヴァのことを思い出してたに違いないとか思ってしまいます。


本編を読んでいるときにノベライズを思い出してじんわりなる作品なんて、他には知りません。


鉄コミュニケイションを見かけた際には、ぜひご一読を。

というより、編集部さんkindle版出してください。

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