黄昏の泉~3~

 樹弘が洛影を出たのは、老人と出会う十日ほど前のことであった。物心がついた時から母と二人で暮らしていた樹弘は、家の傍の畑で細々と芋を育てて生計を立てていた母を見ながら育った。樹弘が長じると、母の畑仕事を手伝うようになり、母は織物の内職を始めた。それでも生活は苦しかった。しかし、樹弘は貧しい生活を苦に思ったことがなく、当たり前のこととして受け入れていた。母と二人で生きていければそれでいいと考えていた。


 しかし、半年前、母が病になった。医者に見せたり薬を買う金もなかった樹弘は、せめて精の出るものでも食べさそうと思ったが、手に入れることなどできなかった。


 母は日に日に衰弱していった。手の施しようがなく涙を流す樹弘を母は枕頭に呼んだ。


 『私はもう長くない。お前に何も遺してやれないことが残念でならない。ただ、そこに飾ってある剣だけは、お前に遺してやれる。何があってもその剣だけは売ってはならない。大事にしていれば、いずれお前の未来は開けるでしょう』


 母はその言い残して翌日亡くなった。樹弘は三日三晩涕泣した。枯れるまで泣きはらした樹弘は、今後の身の振り方について考えなければならなかった。幸いというべきか、洛影での樹弘の評判いい。真面目で働き者で、母を看病して看取った孝行者。それが樹弘の評であった。洛影で生活を続けても暮らしてはいけるだろう。現実に樹弘を婿に欲しいという者も少なくなかった。


 しかし、樹弘は洛影を出る決意をした。大きな意味があったわけではない。ただこのまま洛影にいても漠然とした生き方しかできぬと思ったからである。


 『自分には人生の中で成し得ることがあるのではないか』


 青春期を迎えた少年が抱く大望というべきものをぼんやりと考え始めたのである。それは決して洛影にいても始まらないのである。


 せめて洛鵬に出れば何かが変わるのではないか、と一念発起し洛鵬まで出てきたのであるが、洛鵬の実情は洛影とそれほど変わらなかった。寧ろ、元来繁栄していた町なだけに、その衰亡振りがよく分かった。幼い頃、母に手を引かれて訪れた時には人も多く、商店も多数開かれて賑わっていた。


 しかし、今は人は少なく、戸を閉じた商店ばかりであった。この状況では仕事にありつくこともできないだろうと諦めた樹弘が途方に暮れながら海を眺めるしかなかった。そんな中、声をかけてくれたのが商人をしているという老人であった。この老人のおかげで仮初ながら仕事にありつくことができた。




 老人が声をかけてくれてから三日後、樹弘の姿は洛鵬の門前にあった。老人が泉春へと運ぶ商品を載せた馬車が三台ほど止まっていた。


 「おお、来たかね」


 老人は樹弘の姿を見つけると、嬉しそうに近寄ってきた。


 「ありがとうございます。仕事をいただいて……」


 「気にするでない。こういうご時勢だから護衛は多い方がいい」


 荷馬車の周りには十名近くの剣を背負った若者の姿があった。いずれも体こそ屈強であったが、装備は武者と言えるほど整っていなかった。樹弘と同じように食い詰めた若者ばかりなのだろう。


 「頭を紹介しておこう。蘆君」


 老人が若者達の方に向かって叫んぶと、一人の男がこちらに歩いてきた。精悍そうな若者であった。身長は樹弘よりもやや高く、体つきは数倍しっかりとしているように見えた。


 「蘆明だ」


 蘆明という若者は短く言った。よく通る声色である。


 「樹弘です」


 「ここ最近は商隊を狙う盗賊も多い。いや、盗賊だけではなく獣もいる。樹君は人や獣を切ったことはあるか?」


 蘆明は随分と率直に聞いてきた。


 「いえ、ありません……」


 「ふん。しかし、体つきはいいな。期待しているぞ」


 そう言って蘆明は樹弘に背中を向けて、老人と二言三言、言葉を交わした。


 「これで全員揃ったみたいだな。出発しよう」


 老人がそう宣言した。順調いけば泉春まで二週間ほどの行程であるが、樹弘にとってはそれ以上の長い道のりとなる旅立ちであった。

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