† 〜シンの慟哭〜


 香りのいい匂いに誘われて、シンは曖昧な夢世界から離脱し、現実に戻ってきたはずだった。


「…………ここは」


 左右を見回し、そこが自分の家の寝台で間違いがない事を確かめると、どうしようもない不安がシンを襲う。


「僕は、倒れたんじゃあ」


 手に巻かれる白い布も、全身の筋肉が引き攣りを起こす感覚も、夢ではなく現実のものだと教えてくれる。では、誰が調理場に立っているのかという疑問が浮かんでは、シンにいらぬ希望を与えて仕方が無い。


 両腕で自身を抱いて、身を縮めるように足を折り、膝に頭を付けた。


「起きたのかい? シン」


 頬のこけた人懐っこい顔が現れ、シンは顔を上げて驚いた。


「おばさん!」


「ほらほら、ご飯はできてるよ。さっさと、食べにおいで」


 前と変わらぬ笑みを残し、おばさんは居間へと戻る。


 シンは裸足のまま、寝台から降りて、壁に体重の半分を預けながら、軋む身体を騙し騙し動かして居間に向かった。


 小さなテーブルには、ただ焼いただけのパンとスープが置かれている。先ほどの匂いがこれだと分かった。




「さ、取りあえず飯を食べて、考えるのはそれからにしな。空腹じゃあ、いい考えなんて一つも浮かばないよ」


 背中を押され、促されるままにパンを手にし、口に入れる。何日ぶりかのまともに、喉がついていけず、咳き込み半分を口の外に押し戻してしまった。


「ほらほら、パンはスープに浸して、柔らかくなったのを食べな。一気に食べると胃がびっくりして、また戻しちまうよ」


 一挙一動、彼女の優しさが身に沁みて、シンは目頭に涙を溜めて、手の甲で拭った。嗚咽を繰り返すたび、喉にパン粉が入り込み、さらに咳き込むが、それでも涙は止まってはくれない。


 色々な事が頭の中で交差し、今こうして味わっている幸せの中に、自分の大切な人が加わる事ができない悲しさに、ただ悲嘆に暮れるしかできない自分に、腹が立った。


「シン、アンタに言わなくちゃいけない事があるんだよ」


「………っぐ、………ぇ?」


「ザギがね。『全員分、造れなくてごめん』って、アタシには何の事だがさっぱりだけど、シンに言えば分かるって、あの子が言っていたからね。だから、あたしはここでアンタを待ってたんだよ」




 息子の最後の言葉を伝える為に。




 また涙が溢れて止まらない。




 胸の奥に何度、槍を打ち込めれても物足りない。

 内臓を掴まれて、潰れぬ程度までギリギリの力加減で握られているような感覚を。


 罅割れたガラス玉が粉々になるまで、ずっとこの痛みが続くのだろうか。


 おばさんが帰り、一人になった家でシンは膝を曲げて寝台の上に座っている。


 灯りも付けず、ただこうしていると、どうしてもサラの事が頭から離れず、あの日が再現される。


 最後の子供だった日。まだ、三人で笑っていた。明るい未来が待っているのだと信じて疑わなかった日に、恋焦がれて止まない。


 ふいに、シンの身体は洋服箪笥に向かい、その中で一番、真新しい服を手にして身に付けた。ボロボロになったシャツとズボンは脱ぎ捨て、成人の日ぶりに着るその服はどこか温かみを感じて、また涙が零れる。


 この服を着ても、もうあの二人は褒めてくれない。


 笑ってもくれない。


 無意味な事をしていると自分でも分かりながらも、シンは家の外に出た。


 先ほどまでの豪雨が今ではただの雨に変わっている。枯れかけていた木々も、久方ぶりの恵みの雨で、どこか嬉しそうだ。


 シンの心も、この雨が洗い流してくれたら、どれだけ楽になれるのだろうか。




『嫌になるほどな』




 甦る友人の声に頭を振り、辺りを見回しても誰もいない。


 どうしようもない不安が、再びシンに襲い掛かり、思わず駆け出す。


 何が間違っていたのかなんて、どんなに考えても答えは出なかった。










 連日の雨でぬかるんだ土を踏み締め、終わりのない森をたった一人で走り続ける。どこに行くのでもなく、ただ燃え盛るほどの黒い炎が滾る心を静めたくて、駆け続けている。


 頬から顎に流れ落ちる水が、恵みのものか、自分のものかも分からなくなるほど、心が叫び続けている。


「どうして、どうしてっ……!」


 振り絞る声は、まるで自分のものではないかのように掠れていた。


 次第に、足は走る事をやめて歩き出し、最後は膝を付いて両手を大地に付けた。


「何で、どうして、何でなの!」


 ずっと考え続けている。自分自身に向けた問いに、応えてくれる者はいない。大地につけていた手を強く握り、目の前で開くと泥で汚れていた。


「僕が弱いからいけない? 強くなければ意味がないの?」


 暗雲なる空からは無情な雨しか降ってこない。


 これが恵みの雨?


 みんなを救う命の水?




ーーー馬鹿げている。



 手に泥のついたまま、歩き出す。向かった先は枯れたはずの大きな滝。ほんの数日前までは、楽しい遊び場として見ていられたけれど、今ではただそこにあるものとでしか見られない。


「君が、いなくなったからかな?」


 隣に座り笑い合った二人は、もうここに来る事もシンに笑いかける事もない。怒りは涙と共に身体の外に流されてしまい、後には空虚感だけがシンの心に居座った。考える事も、悲しむ事も止めて、心を氷結し想い出に蓋をする。


 ただ一つだけ、シンの心に刻まれた言葉だけが、その場に居座り続けた。


 痛む胸を押さえながらシンが顔を横に向けると、増水し泥を含んだ激流が水飛沫を上げて滝壺へと落ちていくのが見える。


 まるで龍の怒りだ。


 シンは立ち上がり、惹かれる様に崖淵の前で立ち止り、眼下を見遣ると、底が深淵なる闇への入り口に見えた。


「強くなければ、意味がないんだ」


 足を一歩、前に踏み出し宙を踏む。身体の四肢の自由を水に奪われながら、少年の魂は闇の中へと堕ちていった。






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