あの日のこと

 不思議とそのとき、気味の悪さや後悔は感じなかった。むしろ爽やかでさえある。ただ――この事態を収束させる術が分からなくて、己の無鉄砲さにがっかりしただけで。


「……あー。どーしよ……」


 血まみれのナイフを握った手で頬の返り血を拭い、フルールはうんざりと呟いた。

 目の前には血だまり。湧き出る泉の源は、首からドクドク血を流す男の死体……。

 そいつは司祭不在の今晩、深夜を狙って教会に押し入って来るや否や、眠れず起きていたフルールを見て下卑た笑いを浮かべた。恩人である司祭を稚児趣味の変態と侮辱した挙句、フルールの肩を掴み、辱めようとした。聖なる祭壇の前で。

 だから殺した。こいつは死んで当然だった。だけど人を殺したら悪者だ。それくらいは、どんな馬鹿にでも分かる。


「隠しちゃう? だめだ、良い場所が思いつかない。じゃあ人を呼ぶ? だめどう見てもわたしが悪者。実際、むしゃくしゃしてやっちゃったわけだし……あーほんとどーしよ! 牢屋っておいしいご飯は出るのかな――」


 軽口を垂れ流す唇と反して、頭の中はぐちゃぐちゃだった。

 人殺しと罵られて牢屋に入れられたって構わない。けれども事件が明るみに出たときに、『そういう目』で見られるのが、死ぬほど不愉快だった。頭の弱さを指摘される方がまだマシだと思う。

 触られた、という事実だけで、自分に向けられる目の色が変わるのを、フルールは身をもって知っていたからだ。


 ――聞いた? お嬢様が、執事長に……。


 嫌な記憶が息を吹き返す。

 望んでもいないのに触られた挙句、勝手に弱い者だと扱われ、憐れまれ、周囲の者から気安さが削がれていく。


 ――さぞ怖い思いをされたでしょう、お可哀想に。

 ――奥様に似て、とても美しい方だから。子どもとは思えないほど。


 腹立たしくて許せない。無礼だ。不名誉だ。生き方を汚すな。


 ――でも未遂だったんだろ? なら何も、あそこまでするこたねえのに。

 ――執事長も馬鹿だよなぁ、俺ならもっと上手くやるぜ。例えばさ……。


 美貌は褒め言葉じゃない。下劣な好色共の餌と罵るだけの、ただの悪口だ!



「……どうしたの? 何か大きな音が――わっ」

「っ?」


 汚泥のような思考からフルールを引き戻したのは、独特な声をした少女だった。居住スペースから出てきたらしい、フルールとお揃いの白い寝間着を着て立つその少女は、床に横たわる男とフルールとを見比べて「うそでしょ?」と呟いた。

 誰だろう、とフルールは思った。こんな赤毛の少女は初めて見る。しかし凍るようなアイスブルーの瞳には見覚えがあった。冷静な視線と、鼻につく口調――。

 思い出した、ディアナだ。フルールが拾われるよりも前から教会にいた、年下の嫌味な子。日中はバンダナを巻いているから、髪を下ろしているところを初めて見た。まともに口をきいたのだって、初めてかもしれない。

 フルールは慌てて口を開いた。


「ええと、確かきみはディアナだったよね? うるさくしてごめんね、起こしちゃった。そう、起こしちゃった上にこの通り――人殺しになっちゃったから、きみとは仲良くなれないままお別れ。でも最後にきみの髪の色が見られて良かった。すっごくきれ――」


 ツカツカと歩み寄ってきたディアナが拳を握るのが見えた。直後、顔面に衝撃。どうやら殴られたらしい。幼い少女の拳とは言え、普通に痛い。鼻血が出た。


「……っああー、驚いた。きみって人殺しが許せないタイプだったんだね、意外」

「そのまま動かないで。ああ、クソ、人を殴るのって慣れてないのよ。鼻を折れたら良かったのに」

「鼻を折りたかったの? ならもうちょっと握り方を変えて殴った方が」

「動くなって言ってるでしょ!」

「ごめん……」


 不機嫌な態度で男の前にかがみ込むと、ディアナはおもむろに彼のブーツを脱がせ始めた。


「ああもう、クソッタレ! オシャレな靴は脱がしにくくて嫌だわ」


 イライラしながら脱がせた片方のブーツを持ってきて、フルールの背後に回る。「そのままじっとして」フルールがどう動こうか迷っている間に、「えいっ」と靴底で背中を叩かれた。痛みはそこまでないが、靴底をグイグイ押し付けられるのは気分が悪い。


「ええと、何? もしかしてわたし、おしおきされてる?」

「馬鹿言わないで。正当防衛を偽装してるのよ。残念だけどこのままじゃあなたは罪人よ。大声を出せば良かった、誰かに助けを求めれば殺す必要はなかった。そもそも彼は実質、まだ、何もしてなかった。明らかに過剰防衛。ていうかこの人、貿易商の偉い人だし……きっと結果だけが独り歩きして、殺人を犯す危険な子どもだって周りから非難されるわ。……私の見立てが合ってればだけど」


 言いながらディアナは脱がせた靴をもう一度男に履かせ、元あったように紐を固結びにしていた。慣れた手つきだなと感じた。


「……合ってるよ。すごい、よく分かったね!」

「まあね。ところでそのナイフはあなたの持ち物?」

「ううん違う。あいつが私にこれを突き付けて、ええと、服を……」

「好都合ね。貸して」


 最後まで説明するのを待たず、フルールの手からひったくったナイフを自分の二の腕にあてて「この辺かしらね」とディアナは呟いた。思わずフルールは声を上げた。


「ちょっと何してるの危ないよ!」

「あー説明しないと分からない? そうねあなた馬鹿だったのよね」


 一旦ナイフを腕から離すと、それをタクトのように振りながら、はきはきとした口調でディアナは語りだした。


「悪いけど今から私とあなたは親友よ。深い絆で結ばれた大切な友人。ただの同居人は卒業。良い? 頷いて」

 

 気圧されてつい頷いてしまった。


「深夜の教会に強盗が入った。狙いは司祭様が奥に隠してる宝物で、私達には知らされていない物。――ほんとは違うけどそう説明してね。――私達は助けを呼ぼうとしたんだけど、強盗はあなたの顔を殴って背中を踏みつけた。それを見た私は怒って、果敢にも突っ込んでいって、二の腕を刺される。それから頭を打ちつけられて倒れて気絶……。目の前で親友がやられて、あなたはパニック状態になったわけ。犯人の落としたナイフをとっさに拾って、必死に抵抗するうちに彼をころ……」


 男の死体を見てディアナは顔をしかめた。


「ああ待って、パニック状態のあなたが一撃で頸動脈をヤるのはかなり怪しいわよね。なんか、か弱い少女が抗ってるって感じがしない……」


 ナイフを振るのを止め、もう一度男の傍まで寄って屈みこむ。料理でもするような手つきで、彼女は男の胸にいくつか雑な傷をつけた。フルールが思わず「うええ」と顔を歪める中、ディアナは満足そうに鼻を鳴らす。


「これでいいわね、死闘の末に殺しちゃったって感じ。……OK? 今私が言ったことを、そっくりそのまま説明するの。本当のことは誰にも教えてあげなくていいから」

「ええー、わたし上手く説明できるかな。ところできみ、変わり者ってよく言われない?」

「よく言われるけど、あなたにだけは言われたくない」


 突拍子もなくディアナは、ナイフを自身の二の腕に突き立てた。傷は浅く見えたが、出血が増えていく。


「大丈夫血が出てるよ!?」

「だいじょぶ、大丈夫だから、早く悲鳴を上げて大人を呼んで」

「いや大丈夫じゃないよどうしよう、手当てとかした方が」

「そうね多少しどろもどろに話した方がリアリティが増すかしら。私が起きたら詳しいことを説明してあげるから、それまで大人たちの同情をひくのよ。じゃあ頑張って」

「えっちょっ」


 ゴンッ、ゴンッ、と勢いよく参列席に頭をぶつけ、ディアナはそのままどさっと倒れ込んだ。

 あわわ、と間の抜けた声を出しながらディアナの手からナイフを抜き取って握りしめ、最初にいた位置に戻り、フルールは指示通りに悲鳴を上げた。「たすけてー!」力の限り叫んだ。


 最初に駆け付けたのは宿屋の主人だった。血にまみれた惨状を見て顎を落とす彼に、ディアナが言ったことを口にした。記憶力には自信がなかったから、本当にしどろもどろな口調になった。


「強盗、が、教会に……それでええと、ディアナが、怪我をして……ええと、わたし、頭がこんがらがって……」


 殺した時は頭がさえわたっていた。なのに頭がこんがらがっていたのは、弱い頭で状況を整理しようとしていたから、だが――本当は、興味深い友人ができたことに興奮していたからかもしれない。

 事態を把握した宿屋の主人から話が伝わり、人が増え、本当に男は強盗ということで処理された。殺された男の妻がどこか安心した顔をしていたのは、後から知った話だが、彼女が男の小児性愛癖を知っていたかららしい。夫が変態扱いされずに済み、彼女はその後も悲劇の妻であり続けた。


 無事にフルールの正当防衛は証明された。後日帰ってきた司祭は事件を知らされ、フルールとディアナを抱きしめて涙を流した。



 ――が、その約半年後。どういう経緯か二人の工作した偽装が司祭にバレた。


「ディアナ、どうしてあのとき助けてくれたの? 本当ならわたし牢屋に入ってた」


 司祭はフルール達の行為を他言することはなかったが、二人に分厚いノートを一冊ずつ手渡すと、反省文を書くように命じた。聖書もセットでつけられていた。


「ほんと馬鹿ね。そりゃあ確かに、一度は牢屋に入れられるだろうけど。でもまだ子どもよ。きっと何日か反省部屋に入れられてお説教を受けて、前科と監視付きでもう一度社会に戻されるわ。でもそれって時間の無駄じゃない。あなたは悪びれないし、私だってあなたを悪人だと思わない」


 もうフルールの倍近く反省文を書き進めているディアナが、ノートに落としていた視線をフルールに向けた。書斎の机に対面で座っていたから、彼女の愉快そうな顔がフルールにはよく見えた。


「正直あのとき、あなたを見直したのよ。世間知らずのお馬鹿なお嬢様だって、甘く見てたから」

「えー、それひどくない?」

「もう時効よ謝らないわ。……でもほんと、心底びっくりしたの。私とそこまで歳の違わない子が、あんなにあっさり人を殺しちゃえるなんて。だってまだ十一歳よ? 自分の身を守るために、勇気の要る行動を選んだ。これってすごいことよ! あなたに興味が湧いて止まなかったから、くっだらない牢屋になんて入れられなかった」


 くすくす笑うのに合わせて、赤毛が揺れる。今ではフルールと司祭の前でだけはバンダナを外すようになった。

 笑顔も髪の色も、出会った当初は全然見られなかったものだ。その事実が、ほわりとフルールの胸を焼いた。不思議な気持ちだった。


「……実を言うと、わたしもきみのこと誤解してた。いつも本ばっか読んで、勉強だけが取り柄のつまんない子だと思ってた」

「へえ。謝らなくていいから許さないわ」

「謝るから許してよ……。わたしもきみを知りたくてたまんない、仲良くなりたい! って思ったよ。あんな方法すぐに思い付いちゃうなんてすごいもん。自分を怪我させるとか、ちょーかっこいい! それにわたしの気持ちも分かってくれたし。なんて優しい人なんだろって思った」

「あなたの気持ち?」


 だって、とフルールは机の上に身を乗り出し、小声でささやいた。


「あいつ本当は強盗じゃなくて、下品な変態野郎だった。わたしああいう下品な奴が大っ嫌い。そういう奴に触られたって人に知られるのもやだ。みんな腫れ物扱いで、人を弱い者みたいに言うんだもん。すっごくイライラするよ!」


 鼻息荒く椅子に座りなおしたフルールを見て、ディアナはわざとらしく首をひねった。


「……え、ええ? んん? 下品とかなんとか、ちょっと分かんないわね。彼はどこからどう見ても強盗だったと思うけど」

「ええー? そんなはずないよ。だって本当は違うけどそう説明しろってディアナが」

「大変もうこんな時間!」


 がたっ、と派手に椅子から立ち上がると、そそくさとノートとペンと聖書を仕舞ってディアナは書斎を出て行った。


「あなたも早く寝た方が良いわよ。夜更かしで怒られちゃあ反省文が増えるかも!」


 姿が消えた後、わざとらしい捨て台詞だけが聞こえた。


「……意外と嘘つくの下手だなぁ。なんかそういうの、何て言うんだろ。ええと……」


 ぼんやりと呟きながら考えたが、結局ふさわしい言葉が見つからず、フルールも書斎を後にした。


 ***


「――かわいい、って、言うんだ……ああいうの……」


 瞼を持ち上げ、かすむ視界に見知らぬ天井が見えた。知らない場所だ、と思う。助けたはずの新兵に後ろから殴られて、爆炎と煙の中、倒れて……それでも自分は生き延びたらしい。間違っても死後の世界とか、ここはそんな与太話の中じゃない。


 起きなきゃ、と口だけで呟く。過去の夢から起きるだけではなく、身体ごと起こして、立ち上がって、フルールには帰るべき場所がある。


 どこからか近づいてくる足音が、二つ聞こえた。

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