第2話甘言

「はああ……」と、私の顔を見る度に口を出る妻のため息。


「大丈夫。やれば出来るって。今日中になんとかしてね。今日中だからね」と、取り引き先からの無理な催促。


「頷くだけじゃなくて、たまには提案してくださいよ。会議の意味ないじゃないですか」と、部下からの突き上げ。


 言いたいことも言えず、顔色を伺い怯えながら暮らす。私だけなのだろうか。こんなに生き難いのは。世の人々の身体を裂いて覗いてみたい。貴方方は生き易いのですか? 

私は人生に疲れていた。








 ある日私はバスを待っていた。家内の待つ家に帰るのが、酷く面倒な心持ちで。仕事の疲れを癒す場所だったはずなのに、いつからかそこは無防備で居られる場所ではなくなってしまった。

「帰りたくない」そんなストレートな言葉を呟く程に。


 出てくる溜息を数えるのも億劫になったその時、猫の鳴き声が微かに聞こえてきた。私は辺りを見回したが、猫の姿など何処にも見当たらない。夜の闇が濃くなりつつある中、バスを待つのは私一人。鳴き声を真似る者もいないだろうに。


 ふとそこで初めて気がついた。何時ものこの時間なら、帰路につく人々で列を作っているはずのバス停には私一人。見馴れたはずのこの場所も、何か違う世界のように感じられる。自分の目で見ているというよりは、まるで鏡に移ったものを間接的に見ているような。在るのに虚ろげな世界。わずかな風すらもなく、自分の存在も虚ろげに感じる。


 私は急に不安になり、もう一度辺りを見回した。すると今度はハッキリと猫の鳴き声が聞こえてきた。


「にゃあ」


 声を探すも、何処にも猫など見当たらない。私はこの場を離れようと歩き出そうとした。一刻も早く離れなければ。悪寒が私を催促する。


「バスはまだ来ませんね」


 いきなりの声に、私は身を強張らせた。


 いつから居たのか、私の側に女が立っていた。声も出せず、動くことも出来ない私に、その女は優しく微笑みをくれた。


 黒く長い髪をストレートに垂らし、それに覆われた顔は、対比のせいか、余りにも白かった。綺麗にも見えるし、そうでなくも見える。捉え所がない。幽玄。そんな言葉が似合う。


 私はやっとのことで声を絞りだした。


「い、いつからそこに」


「ずっと居ましたよ」


「そ、そんなはずは……」


 女はそんなことはどうでもいいという風に私に語りかけてくる。


「何だか、大分お悩みのご様子。如何なさいました? あ、いえ、いえ、言わずとも分かりますよ。貴方のことはずっと見ておりましたから」


 私は女の声にのまれていくのを感じた。最早、何故女が急に現れたのかはどうでもよくなる程に。声が私を侵食していく。一語一語がゆっくりと身体に染み込み、私の存在が、まるで女の声で構築されているような感覚に陥る。


「生き難いのですね。生まれて物心がついた時には、もう貴方はそう感じていたのですね。貴方の葛藤は分かりますわ。自分だけなのか? 他人の笑い顔を見るだけでも、そんな感情が渦巻いたことでしょうね。でも、貴方だけではないのですよ。誰しも大なり小なり生き難いのですよ。それに折り合いをつけて暮らしているに過ぎないのですよ。だだ、貴方はそれが上手く出来ないだけなのです」


 私は黙って頷いていた。思考が緩慢になり、頭の中を女の言葉が形を変えながら埋めていく。そう、まるで万華鏡のようだ。在る物が無限とも思われる程に形を変えていく。女の言葉の連なりは、重なり合う度に形を変え、まるで捉え所がないようだが、確かに在った。


「人はね、誰しも猫を飼っているのですよ。もちろん貴方も飼っているのですよ。ほら、そこに見えませんか?」


「にゃあ」


 またしてもハッキリと聞こる鳴き声に、私はその存在を見つけようとしたが、かなわない。


「ほら、足元を御覧になって」


 女に促され、私は顔を下に向ける。そこには黒く痩せ細った猫がいた。


 目が合った猫は、私の右足にすり寄ってきた。猫など一度も飼ったことがなかったが、何故かずっと一緒に暮らしてきたように思われた。


「さあ、抱いてあげてくださいな」


 私は女に言われるままに、抱き上げた。嫌がる素振りもなく、私の腕におさまり、ゴロゴロと喉を鳴らした。愛らしい。私は自然と頭をそっと撫でていた。


「この猫を私はずっと飼っていたのですか?」


「そうですわ。その猫は、貴方が生まれた時から飼っているのですよ」


「でも、今まで見たこともありません。いったい何処に」


 女はゆっくりと答えた。


「貴方のうちにいたのですよ」


「うち? 家には今まで猫など居たことがないのですが」


「うちとは、貴方の内面にということですよ。ずっと棲みついていたのですわ」


 私はまじまじと猫を見た。黒い毛並みは艶が悪く、痩せ細り、目やにも浮いている。その辺で見かける野良猫より貧相だ。


 女は私の心を読んだように言う。


「御覧になってお分かりかとは思いますが、随分と貧相な猫でしょう? その猫は病んでいるのですよ。かわいそうではありませんか?」


「はい。知らずに飼っていたとはいえ、余りにもかわいそうです。私に出来るなら何とかしてあげたいのですが」


 私は素直にそう思った。どのように暮らしていたのかは分からないが、私に関わってのこの有り様なら、責任は感じてしまう。


「この猫は貴方の精神と一緒なのですよ。貴方の心持ちで如何様にも変わるのです。でも、長年の蓄積で、もう手遅れなのです。このまま貴方と一緒にいても、どんどん悪くなる一方なのです。それは貴方も同じです。この猫と一緒にいると、貴方は益々生き難くなるでしょう」


 私はごくりと唾を飲み込み、女に尋ねた。


「では、どうすれば良いのですか?」


 女はさらりと答えた。


「捨ててしまえば良いのですよ。それで全てが解決しますから」


「こんなに弱った猫を捨てるなど、私にはできません」


「大丈夫ですわ。案外何の感慨もなくお別れ出来ますから」


「しかし、この猫はどうやって生きていくのですか」


「それも心配ありませんわ。貴方が元気になられたら、猫も元気な姿で帰ってきますから」


 女は妖しく促す。


「さあ、早く捨てておしまいなさいな」


 私は逆らうことが出来なかった。女の言葉に支配されるように、猫を下ろしていた。そして、見上げる猫に淡々と言う。


「お別れだ。何処にでも行きなさい」


 猫は暫く私をじっと見ていたが、「にゃあ」と一声残し、何処かへと走り去っていった。


 女の言う通り、それを見ても私には何の感慨もわかなかった。先程まで、あんなにかわいそうだと思っていたのに。むしろ解放感すら覚える。


「あの……」


 話しかけようとしたが、女の姿は何処にもなかった。いつものバス停に私一人だった。


 生温い風が頬を撫でる。


 虚ろげな世界が実に変わったような気がした。私の鬱屈とした靄も消え去り、見えているものや思考が、はっきりとした輪郭を帯びてくるかのようだ。


 バスのエンジンの音が近づいてくるのを耳にしながら、私はそう思った。


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