第5話   地獄の乗り心地・3

 馬車に落雷が直撃したとわかったのは、目の前が真っ白に輝き、その少し遅れで轟きが全身を打ち、そして意識が、奈落の底へと落ちてゆくのを実感したからだった。



 セシリアは全身に降り注ぐまぶしい日光に顔をしかめながら目が覚めた。そして空が見えるほど大破した馬車と、人数のすかすかなありさまに、血の気が引いた。乗客たちはうずくまったり、壁や他人の背中にもたれて寝息を立てていた。


「人数が減ってる……まさか、空から振り落とされたんじゃ……!」


「おはよう! セシリア」


 再び気絶しかけるセシリアの意識を引き戻したのは、あの御者の美青年メルだった。相変わらずの青白い顔には、喜びが惜しげもなく浮かんでいる。


「メ、メル……」


「ようこそ、サーカス国へ。五日間の旅、お疲れ様」


 五日、五日? 五日という単語の意味が、ようやっとセシリアの耳から脳に到達した。


「五日も!?」


「うん。たった一日に思えただろうけど、それは五日分の時間を馬車の中に凝縮したからなんだ」


 セシリアは何を言われているのか、わからなかった。変な馬車に押し込められたり、空を飛んだりしたのが昨夜の夢……ではなく地獄のようだ。


 だが、全身を襲う倦怠感と、汗と雨による着衣の生臭さ、手入れをさぼったようなぼさぼさの頭髪に、空腹と乾きで吐きそうになっている自分の体調に気がついて、ああ夢じゃなかったのだとセシリアは地面に膝をついた。


 メルはセシリアの無言に、ちょっと思案した。


「ああそうか、混乱してるんだ。きみの状況を、上手く説明できなくてごめん。この仕掛けを創ったのは団長だから、僕にはよくわからないんだ」


「馬車の中には、もっと人が乗っていたんですけど、何か知りませんか」


「ああ、外に出てるよ」


 ほら、と言って彼は指し示した。


 芝生の上で、パンや果実水を頬張る乗客の姿があった。ねずみのように、ばりばり食べている。


 あの良く目立つ獣人顔の老人だけが、いなかった。


「あのー、メル、馬車の中にライオンみたいな顔した、大きな男の人はいませんでしたか?」


「え? あの人?」


 メルが指さしたのは、馬車内で老人を突き落とそうとした男だった。


「あんなに若くなくて、お爺さんなんです」


「ああ、そう言えばいないね。どこ行ったんだろ?」


「あ、ご存じないなら、いいです……」


 今思うと、あの獣顔した老人が実在していたのかも、疑問に思うようになっていた。困惑するセシリアの様子に、メルが表情を緩めた。


「ふふ、そんな暗い顔をしないで。きみなら入国審査に合格すると、信じてたよ。あの馬車は、中で激しく暴れると床が抜ける仕掛けになってたんだ」


「え?」


「これまで何人もの旅人が、入国できなかったんだ。合格してよかったね、セシリア」


「……もう、悪い冗談はやめてください。乱闘は、何回かありましたよ……」


 セシリアは立ち上がると、自分も食べ物にありつきたいと思った。でもその前に、体をきれいにしたいとも思った。


「体を拭く桶なら、あそこにあるよ」


 まだ何も言っていないのに、メルが教えてくれた。どうも、とセシリアはお辞儀して、桶へと近づく。幸いなことに、皆から離れた位置の、木陰に桶はあった。セシリアは鞄から乾いた布を取り出すと、水の入った木桶で布を湿らせてから、顔を拭いた。


「あのお爺さんは、どこに行ったのかしら……。人一倍食べそうだから、てっきりみんなと飲み食いしてるものと、思ってたんだけど……」


 あの男のせいで乱闘に巻き込まれかけたのを、セシリアは根に持っていた。サーカス国は広いと聞く。彼と会うのは、これで最後にしたいと願った。


 遠くの空で、花火の上がる音がした。真昼間のようで、太陽は高い。空に大きくかかる鮮やかな虹が、嵐の恐怖を薄れさせた。色とりどりの鮮やかなゴム風船が、虹を目指すように青空へと飛び交ってゆく。


 花火も風船もセシリアたち乗客には初めて見るものだった。食事する手も、顔を拭く手も止まり、異国の色鮮やかなとんがりテント屋根に縁取られた景色を、眺めた。そうしているうちに、セシリアの耳に、メルがだれかと話している声が入ってきた。どうやら具合の悪い者がいるらしく、体調をうかがっているようだった。


 ぼろぼろの今のセシリアに、他人を心配する余裕はない。眠い。だれにも見られない場所で衣服を脱いで、全身の汗を拭き取りたい。できれば熱いお湯を浴びてさっぱりしたい。何か食べたい。


 セシリアは立ち上がって、よろよろとメルに歩み寄った。


「あの」


「はい」


 日光に照らされて、銀髪が輝く。美しいメルが小首をかしげて、セシリアの用事を待っている。


「あの……」


 セシリアはぼろぼろの自分が恥ずかしくて、臭いヤツだと思われたらどうしようと後退りしたが、そんな感情を吹き飛ばし、用件を伝えるために口を開いた。


「わたしは、この国で働きたいんです。どこかに、住み込みで泊まれる場所は、ないでしょうか。できれば、お湯もあって、食事も作れる場所もあって……贅沢、ですかね」


「ふふ、ちゃんと従業員の住居は用意してるよ」


 それを聞いて、セシリアはほっと胸を撫でおろした。安心したら猛烈にお腹がすいてきたが、ふらりとその場から歩き出すメルに焦った。


「あの、何度もすみません」


「うん、なぁに?」


「あの、あなたは、教会に来た事ありませんか? その、講師としてですけど」


「ああ、うん、あるよ。小さかったきみにも会ったね。僕の授業を熱心に聞いてくれて、ありがと! また会えて嬉しいよ、セシリア」


 メルが優しい笑顔で、当時の生徒の名前を呼んだ。いささか当時の講師と雰囲気が違うような気がしたセシリアだったが、自分も当時は子供であったし、メルも子供たちの聞き取りやすいように、静かでゆったりとした口調を意識していたのかもしれないと思い、素直にメルの言葉を受け入れた。


(メルの授業を受けたときから、十年くらい経過してるわよね。なのに、なんでメルは若々しい青年のままなんだろう……そう見えるだけで、ちゃんと中身はおじさんなのかな?)


 セシリアにとって、メルは今や将来の夢を与えてくれた恩人だ。このまま別れてしまっては、広いサーカス国で探し当てるのは難しいと懸念し、さらにメルに食い下がった。


「あなたとは、どこに行けば会えますか?」


「僕は普段、この国でいちばん大きな劇場の、衣装係をやってるんだ」


「わかりました。わたしの暮らしが落ち着いたら、必ず会いに行きます。ぜひ、お礼をさせてください。あなたの講義は本当に魅力的で、わたしがこの国を目指したきっかけにもなりましたから……」


「うん、待ってるね……と言いたいところなんだけどさ、悪いけど、明日も明後日も、来月も来年も仕事が押してるんだ。なかなか会えないと思うけど、きみがここでの暮らしに慣れてきたら、いつか職場に見学に来てね」


 忙しいから会えるかわからないし、できれば来ないでくれと、セシリアには聞こえた。


「わかり、ました……でも、いつかお見掛けしたら、声をかけます、必ず!」


 今は、長々としゃべりたくなるほど身なりが整っていない。汗と涙と雨と、それから焦りと、夢と希望とで、めちゃくちゃ臭かった。メルとは別の、迎えの者が来ると言われ、その間にセシリアは体を拭き、お腹いっぱい飲み食いしたのだった。



 はたして、その別の迎えの者とは。


「お爺さん……?」


 初めて会った時と変わらぬ身なりの、あの獣人顔の老人だった。大きく口角を釣り上げて、乱杭らんぐいの恐ろしい歯を見せる。


「あの程度でバテるとは、先が思いやられるな」


 煽るような老人の口調に、お腹いっぱいになった男の一人が抗議した。


「あんた、さっきまでここにいなかったじゃないか。馬車から落っこちたのか?」


「いんや、最後までずっと乗っておったぞ。お前たちが起きんから、先にシャワーを浴びに部屋に戻ったんだ。あの程度の旅行でバテるとは、いささか情けないぞ」


 五日間の旅行を凝縮した時間を乗り越えた若者たちを、情けないで一蹴するとは。


「何を隠そう、儂こそが新規従業員の選考員だ。審査の結果は、みな合格。多少頭が悪くても、体力みなぎる若者たちを集めたいと思っておった。ちょうどいいのが大勢手に入って良かったわい、クックック」


 つまり、あの時この老人を馬車から突き落としたり、暴力をふるっていたら、セシリアたちは上空からどこかへ投げ捨てられていたかもしれなかった、と。その場合、この老人も落下してしまうような気もしたが、そこはおそらくメルがなんとかするのだろうとセシリアは思った。メルは従業員を使い捨てするような雰囲気に見えないし、そのような扱いをこの老人も了承しないような気迫がするから。


「では、お前たちの住居となる建物へ案内しよう。ついて参れ」


 くるりと踵を返して、大きなマントの後ろ姿がセシリアたちへ向く。


「ああそうだった……儂の自己紹介がまだであったな」


 老人の大きな手が、マントをばさりとひるがえす。老人と入れ替わるように現れた青年が、セシリアたちにくるりと向き直った。


 猫背気味で、顔にどろどろに溶けたピエロメイクを施した、ぼさぼさ頭の青年だった。魔術師のような怪しく煌かしい一張羅をまとっているが、でかいマントのせいで半分も見えない。


「シャハハハハ!! オレ様の名前はスクイギー・フレンド。このサーカス国を仕切る団長様だ! これからよろしくな、従業員ども!」


 セシリアたちは、呆然となっていた。


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