第八話 大丸

 わたしは火の始末を途中まですませ、台所を出る。皆は勿論のこと、若様にも捕まったら大変だ。

 周りに気を配りながら、わたしは筵を持つ。


 若様の言うことが正しければ、この筵はわたしが寝床で包まっているものだ。

 わたしは馬屋寝床へと向かった。



 馬達が起きないように、ゆっくり馬屋へ入る。


 しかし一頭がこちらに気づいたようで、わたしに顔を向けた。

 こっちをじっと見ているのは、いつもの馬だ。

「よしよし、心配してくれてたの。大丸だいまる

 なるべく小声で言いながら、勝手に名付けている馬の頭を撫でる。

 すると、大丸が心地よさげな顔をしているような気がした。


 この馬は戦場へ三回ほど行ったことがあるのだが、三回とも無事に戻ってきた珍しい馬だ。

 戦場へ行ったきり 戻ってこない馬もいるのだから 三回も戦場を乗り越えるというのは、かなり運の良い馬だと思う。

 撫で終えると、わたしはいつもの決まった寝床へ向かおうとした。

 しかし、裾を引っ張られる感覚に足が止まる。

 見れば 大丸がわたしの裾を口に咥えて 引張っていた。まるで、ここに居ろ とでも言っているように。

「よしよし」

 わたしは大丸を撫でながら、筵に包まった。


 山の中でのことを思い出す。

 今日は生まれて初めて、鬼を見た。

 顔が真っ赤に紅く、額からは角が生えていて、指には鋭い爪が伸びていた。

 とても怖ろしかったのだ。


 しかし、鬼の柔らかく微笑んだ顔。

 草木を踏み平しながら、家路を案内してくれたこと。

 鬼の大きな手の温かさ。

 そういうことが頭に思い浮かぶ。

 すると、胸がじんわりと温かくなるのだ。

 でも、もうあの鬼には会えない、そう思うとまた胸がチクリ と痛む。

 なんなのだろうか、この胸の痛みは。

 鬼に遭うまでこんなことはなかったのに……。


 もし またあの鬼に会うことがあれば、わたしは——

 徐々に目蓋が重くなり、目を閉じた。


————————


「起きろっぐず女っ」

「はへっ」荒々しい男の声にわたしはすぐ身を起こした。

 朝日が馬屋の中に差し込んでいる。

 この馬屋で寝るようになってから、初めての寝坊だ。

 大丸もさっきまでわたしと一緒に寝転がっていたようで、大丸も身を起こす。


 大声でわたしを起こした下人仲間の男は、馬屋の入り口からこちらを覗き込んだ。

「だらだら寝てんじゃねぇ。仕事しろっ」

「すみませ…… 」

「汚ねぇ口から声出すな。役立たずが喋ると耳が腐る。黙ってさっさと来いっ」

 わたしは口を結ぶ。そんな言い方しなくてもいいのに、と思う。皆から下っ端扱いで嫌われているから仕方ないことだけれど……。なんだか今日はおかしいな。こんな言葉、もう慣れたはずなのに。

「早くしろ鈍間のろまっ」

 考え事をし過ぎて動きが疎かになってしまった。

 わたしは急いで外へ出ていこうと立ち上がると、ぐいぐい、と裾を引っ張られた。

 大丸が、行くな行くなと言わんばかりにわたしの裾を咥えて離さない。今日はいつも以上に強情だ。

「ごめんね、大丸。いかないといけないから…… 」

 大丸の額を優しく撫でれば、観念にしたようで名残惜しそうに裾を離した。


 わたしはすぐに馬屋の入り口にいる下人仲間の男のもとへ駆け寄った。

 下人の男の元まで来たが、なぜか何も言わず侮蔑の表情でわたしを見るだけだ。恐る恐るわたしは言葉を絞り出す。

「あ、あの…… 」

 下人の男はわたしの髪を片手で掴み上げてきた。

「いっ」

「来るのが遅せぇっ 本当に簀巻すまきにして川に捨てられてぇみたいだな」

「すみ、ません」

「また汚ねぇ口で喋りやがったなっ」

 そのままわたしの頭を乱暴に左右に振る。今にもわたしの爪先が地面から離れそうなほど掴み上げられて、痛い……。


 でも、こういう時の切り抜け方は知っている。されるがまま待てば良いのだ。痛いのは嫌だけれど。口答えをすれば棒でめった打ちとか、もっと酷い目に遭う。だから、こういう時は耐えるしかない。死ぬよりはましだから————

 

 突如、聞いたことのない 甲高い鳴き声が響く。

「な、なんだ…… 」

 下人の男が鳴き声のする馬屋を見た。わたしもその方を見ると一頭の馬が飛び出してきた。

 凄まじい勢いで走ってきた馬——大丸はそのまま前足で下人の男を蹴り上げた。

男は弧を描いて宙を舞い、どしゃりと地に落ちる。そこに追い討ちをかけるように大丸はその男の頭に噛み付いた。

「ぐっうぁ、あぁああっ」

 大丸は荒々しく男の頭を噛み砕く勢いで左右に振りだす。

「大丸っ」

 わたしは掌で大丸の額を強く叩く。すると やっと動きを止めた。でも、鼻息は荒く、男の頭を噛んだままだ。わたしは大丸を落ち着かせるため、額を撫でる。

「大丈夫、大丈夫だから。ね。離してあげて」

 大丸はゆっくりと男の頭を離した。


 騒ぎを聞きつけた一人の下人は目を大きく開く。

「なんだこりゃっ…… 」

 そのうち、下人達が集まってきた。皆、呆然とした様子で血だらけの下人とわたしを遠巻きに見比べた。

 隆々とした男、下人達をまとめている役を与えられているかしらが徐に言う。

「おめぇの仕業か」

「ちっ 違い…… 」

「嘘つけっ どうせ馬をけしかけて襲わせたんだろ。汚ねぇ女だっ 」

 それをきっかけに皆、口々に侮辱の言葉を投げかけてきた。


 石でも投げられているような気持ちだ。言葉一つ一つが胸へ突き刺さってくる。

 おかしいな。こんな、こんなの慣れたのに……。

「何泣いてんだ」

 下人の一人がわたしに指をさした。

「あ…… 」

 泣いてる。わたし。棒で叩かれてるわけではないのに。言葉じゃ、死なないのに。なんで……。


「この女は危ねぇやつだ。今からでも殺しておくべきだ」


 下人の頭の言葉にわたしは慄き、身体全体から血の気が引いていく。

 死にたくない……。


 わたしのそんな想いとは裏腹に、他の皆は同意の意味で頷き合っている。

「それには許しを得なければ、主人達に知らせよう」 

「ま、待ってくださっ」

 大丸の様子がおかしい。鼻息が荒くなり、目をカッと見開いている。このままでは、また大丸は暴れてしまう。どうしようっ。どうすればっ。

 一人の下人が主人の住む屋敷へ駆けようとした。

「ま、待ってっ 」

「おい」

 若い男の声。皆、その主を見る。

「何事だ」

 こちらを凝視して 歩みを進めてきたのは、若様だった。

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