ジャック・ザ・リッパー 第3話(2019/3/6 改稿)




 薫は大学の門から一歩踏み出し、煌々と煌めく月を見上げて微笑んだ。

 それは諦観の微笑みだった。


 おかしい、どう考えてもおかしい。表示させたスマートフォンに夜の八時と表示されているのを見て思う。


 自分は一体、どうしてこんな夜に大学を出る羽目になっているのだろう?


 自問自答してみるが、どう考えても最後のコマの授業が終わったときに「これ片しといてー」と言ってきた教授のせいである。あの教授の人使いの荒さは有名だが、まさか授業で使用した歴史書を全て戻してこいとまで言われるとは……


 ちなみに、星野は同情的ではあったが同情してはくれなかった。本の場所なら薫も正確に記憶しているので別に手伝ってもらわなくてもいいかとは思っていたが、本当に手伝おうともしてくれなかった。徹底しすぎだ。

 同じ授業を受けていた男子学生が手を貸そうとしてくれたくらいだ。残念ながら、彼がいてもいなくても変わらないくらいの速さで薫は本を戻したが。


「あ、ねえ、小鳥遊たかなしさん」


 急いで帰ろうとしていた薫を後ろから呼び止める声がした。小鳥遊たかなしという読みにくい呼び名は一応薫の苗字である。


 振り向くと、茶髪で柔和な顔立ちをした青年がこちらに向かって走ってきていた。先ほど、図書館で一緒に本を戻してくれた青年だ。

 たしか……新井といっただろうか。

 彼は目の前まで来るなりつんのめって転びそうになっていた。薫はきょとんとした顔になる。


「どうかしましたか?」


 彼は走ってきたせいなのか息も絶え絶えに言う。


「いや……えっと、その……帰り道、どっちかな……?」

「え、あなたのですか?」


 いくらなんでもそれは知らない。薫が困惑していると、彼は虚を衝かれたような顔をして、力なく笑った。


「いや、僕のじゃなくて…….小鳥遊さんだよ。同じだったら一緒に帰ろうかと」


 彼は人好きのする笑みを浮かべている。薫は少し黙考して答えた。


「……新井さんはどちらの方向なんですか?」


 こういう質問をされたら逆に同じことを聞き返すように、と薫の父親は以前言っていた。言われたときは意味が分からなかったが、父が言うからには何かあるのだろうと思っていた薫はその通りに質問を返した。

 すると新井はえっと小さく声を漏らしてあたふたし始めた。どうしてそんなに情緒不安定なのか分からないが、一通り唸った後でなにやら肩を落としている。忙しそうな人である。

 彼は何故か観念したように目を片手で覆うと、もう片方の手である方向を指さした。


「あっちです……」


 薫はひとつ頷いた。


「ああ、一緒ですね」

「えっ本当に!?」


 食い気味だった。顔をずいっと寄せられて思わず仰け反る。なんなんだ、この人は。

 スワローはおっとりしているほうなので、薫には慣れない激しさである。


 不審げな薫に気づいたらしく、彼はようやく少し離れてから決まり悪そうに微笑んできた。


「あ、ええっと……実はちょっと、小鳥遊たかなしさんと話してみたくて……断られたらどうしようかと……」


 断るも何も帰り道が一緒だったらとかなんとか言ったのは新井である。だが薫はぱしぱしと何度か瞬きを繰り返すと、にっこりと微笑んだ。


「そうだったんですか。ではとりあえず行きましょう」


 とにもかくにも早く帰らなくてはならない。スワローが待っているのだ。それを考えれば、よく知らない男と帰ることなど些事だと思う薫だった。







 妙だ。

 薫は首をかしげた。

 どこが妙なのか分からないが、とにかく妙だ。

 異常……と言い換えてもいい。

 なんだかよく分からないが、もやもやとした違和感を抱えて薫は歩いていた。隣にいる男を除けば、通り過ぎる景色に変わったところはない。しかしどこかが変なのは確かだと思った。


「でね、そのとき教授が…………小鳥遊たかなしさん?」

「え?」

「どうしたの、ぼうっとして」

「ああ、いえ……」


 楽しそうに話をしていた新井が心配そうに覗き込んできて、薫は取り繕った顔で笑う。

 曖昧に言葉を濁したときだった。彼の手がゆっくり伸びてきて、髪に触れそうになった。薫の中に急に猛烈な嫌悪が湧き上がる。

 驚いて薫は少し後ろに後ずさった。

 新井はきょとんとして、申し訳なさそうに微笑んだ。


「ああ、ごめん、びっくりさせたかな。頭に葉っぱがついてたから」


 びっくりした顔のまま固まっていた薫はゆるゆると思考を動かしはじめた。ぎこちなく髪に手をやるとかさりという感触がする。


 もみじがひらりと手の中から飛んでいった。

 今のはなんだったのかと混乱したとき、唐突に薫は視線を感じた。それは強烈な存在感を放ち、槍が投擲とうてきされたかのごとく、薫の意識を引く。

 はっとして、後ろを振り向く。

 何も、ない。


小鳥遊たかなしさん?」


 薫は新井の声をまるっと無視して後ろを凝視した。

 何も無い。強いて言えば電柱があるが、それだけだ。灰色で直立するそれをじっと見る。


「どうしたの、小鳥遊たかなしさん。誰かいた?」

「……いえ、気のせいだったみたいです」


 ふいっと新井のほうへ向き直る。近寄ってきた彼は不審げに電柱を見た。

 にこっと安心させるように薫は笑ったが、彼は心配そうに薫の肩を引き寄せる。


「最近、切り裂きジャックの事件続いてるし、何か気配がしたなら遠慮なく言って。まあ、男が一緒にいれば襲われないけど……」


 心配そうに言って顔を覗き込んでくる。薫の肩が強ばった。近い。

 彼は自分がパーソナルスペースを結構侵食していることに気づいたらしい。顔を赤くしてぱっと手を離した。


「ご、ごめん! つい!」

「……いいえ、大丈夫です」


 スワローも結構くっつきたがるほうだ。英国生まれだとそういうものらしい。だから薫も距離が近いこと自体は特に気にしないのだが……

 こっそりと長袖の下に隠れた肌をさする。何故か、異様なほど肌が粟立っていた。


 変だ、どう考えても。


 自分はこの人が嫌いなのだろうかと思う。生理的に受け付けない相手というのは一定数いるだろう。けれど、ここまで顕著なものなのだろうか。スワロー以外の男性に触れる機会がない薫には判断がつかない。


 先に歩き出した新井を注視する。中肉中背、柔和な顔立ち、少しはねたくせっ毛。

 一般的には好青年と呼ばれる類の男だろう。

 だが鳥肌が止まらない。肌寒いからではないことは分かっている。この嫌悪の意味が理解出来ず、薫は無意識に宙を見上げた。


 何も無かった。


 はたと足を止める。いや、そもそも一歩も動いていなかったのだろう、新井が所在なさげに立ち尽くしていた。


「どうかした?」


 苦笑にも似た微笑みに視線を移し、薫は顎に手を当てる。


「……なるほど」

「え?」


 不思議そうな声を上げる新井をまっすぐ見据え、薫は何度も頷く。


「なるほど……そっか……」

「どうしたの? 何か気になることでも……」

「あなたが切り裂きジャックなのですね?」


 新井は目を見開いた。

 いささか直接的すぎただろうか? しかし薫の優先事項は目の前の男ではなく、スワローなのだ。早く家に帰らなければという思いが薫の頭を占めていた。もうほぼ約束を破っているに近い時間帯だが、努力はすべきだ。


「ええっと、いきなりどうしたの? 切り裂きジャックって……え、なんで僕?」


 困ったように微笑む彼に薫は沈黙する。しばし黙考して、ぽつりと答えた。


「『男がいると襲われない』……というのは、誰の情報なのでしょうか?」

「え?」

「今までの被害者達が一人でいるところを襲われたからといって、男性がいても襲われない保証はないのではないですか? どうして断言できるのですか?」


 普通は「男がいると襲われないけど」ではないのだろうか。

 一番分かりやすい意見を述べると、新井は少し顔を強ばらせたものの、すぐに柔和な微笑みを戻した。


「それは、言葉の綾だよ。だってほら、男がいるのといないのとじゃ大違いだろう? ごめん、変な言い方して怖がらせたかな」


 近寄ってくる気配に薫は後ずさった。小さく嘆息する。

 やはり弱いらしい。まあ、新井の言う通りだ。説得力に欠けるのである。


「……物怪もののけがいません」


 不承不承告げた薫に、怪訝そうな顔が向けられる。早く帰るためだと言い聞かせて薫は言葉を続けた。


「どこにもいないんです。あの子達はどこにでもいるはずなのに、全く、ちらとも姿が見えない。袖引き小僧も送り犬も糸引娘も煙々羅も、みんな、いないんです。異常事態です」


 彼らは人間より余程センシティブな存在だ。彼らには本能として人間の思考や感情が染み付いている。

 人間が何を考え、何をして、何を感じるのか。オーラとも言うべきそれらをほとんど全て本能的に察知するのだ。

 薫は噛み砕いて新井に説明する。


「彼らは人の悪意を敏感に感じ取ります。彼らの前で私を害そうとするならば、彼らは素早く姿を隠す」


 それは嘘ではないが、もちろん、普通の人間が悪意を向けられたからと言って、彼らが姿を隠すことは無い。だが、何故か薫が悪意に晒されると、彼らは皆、薫の視界から消えてしまうのだ。

 謎だが、それはひとつの指標になる。

 そして、あの異様なほどの嫌悪感。薫の中の細胞が警鐘を鳴らしている合図。

 答えは一つだ。


「あなたが切り裂きジャックなら、全ての辻褄が合います」


 薫の中にしかない確信だ。新井には意味が分からないに違いない。けれど、凛と声を張った薫を、新井は奇妙な笑みを貼り付けたまま見つめていた。この空気に似つかわしくない、どこかぞっとする微笑み。


 彼は困ったようにアウターのポケットに手を差し入れた。

 薫はやや目を見開いて後ずさる。

 新井がポケットから出した手の内にあったのはサバイバルナイフだ。彼はハンカチを取り出すのとなんら変わらない手つきでそれを取り出していた。


 ぱちん、と軽く音を立てて飛び出させた刃を弄ぶ。


「どうして分かったのかな……結構上手く隠せてたと思ったんだけど」

 

 にこやかに微笑みながら、一歩一歩近づいてくる。

 薫は後ずさりつつ至極当たり前のことを答えた。


「あなたと帰っているときにあの子達が出てこなかったら、そういう結論になるしかありません」

「それだよそれ、物怪もののけ? 僕、そういうの知らないんだけど、幽霊じゃなくて物怪もののけ……妖怪なんだよね?」


 薫は答えない。彼に物怪もののけの情報をあまり与えたくなかった。

 沈黙する薫に、何故か新井は嬉しそうに微笑む。


「まあ、いいや。君がいるならそれで」


 意味が分からず薫はやや目をすがめた。


「私が何か?」

「君が欲しかったんだ」


 被せるように新井が言う。その微笑みは恍惚としたものに近くなっていた。


「でも、ほら、浮気とかされたら嫌だろう? だから手っ取り早く切り取っちゃえばいいかなって思って。こんなに好きになったことなくて、最初はどうすればいいのか焦ったよ」


 およそまともではないことを平然と語る。


「そしたら、切り裂きジャックっていう最高の先輩がいたから。一生懸命調べたんだ。流石に綺麗に切り取るのは無理かもしれないけど、他の人で練習したからそこそこ上手くなってると思うよ」


 幼子のようだと薫は思った。彼は本気で言っている。銀の光が反射してちらちらと近づいてきた。

 薫はいささか焦った。早く帰らなくてはという思いが募るが、この状況を切り抜けられる気がしない。


 とん、と背中が何かに触れた。後ろに来すぎたらしい。灰色の電柱に丁度背中がついてしまっていた。

 一瞬思考が止まり、次の瞬間急速に動きだす。様々な打開策を思い浮かべては消していく。

 結局、何も良い案は思いつかなかった。

 薫は嘆息する。諦めよう。自分の手に負える人ではない。


 月明かりに照らされて、新井の姿が浮かび上がった。


「落ち着いた? じゃあ動かないで、痛いから」


 動かなくても痛い……という指摘はしないほうがいいだろう。全く、物騒な世の中になったものである。

 疲れたため息を零した薫に向かって、新井は勢いよくナイフを振りかぶった。

 風を切る音が聞こえた。

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