カンタスへの道

秋野 木星

第1話 私は誰?

 窓の外からヘリコプターの音が聞こえてきた。


私はピクリと身体を覚醒させ、耳をすませた。

子どものように窓際に走って行き、空の上を横切っていくヘリコプターの機影を見上げたいという衝動を感じたが、かろうじて残っていた大人の分別がそれを止めた。


バタバタバタと空気を震わせてヘリが飛んで行く音を聞きながら、私は唐突に自分自身へ問いかけた。


ところで、私は誰?

ここで何をしているの?


そう思った途端に、ぞっとするような冷や汗が背中を流れていった。


…………



パニックになった精神状態をどうにか押さえつけて、うろたえて彷徨さまよう目の焦点を、グッと前方の壁に向けた。

そこには説教台のようなものがあり、十字架のようなクロスの印が壁に埋め込まれていた。

教会……なのかな?


あ、私、そういうことは覚えてるんだ。自分のことは忘れてるのに?


とにかく知らない場所から外へ出よう。

何かに追われるようにあちこちの椅子や壁にぶつかりながら、私は白々と明るい道端まで出てきた。

太陽が空に高く上がっていて、少し埃っぽい街並みをギラギラと照らし出している。

昼間、なんだ。


だだっ広い道には時折、薄汚れたトラックやアメ車といわれるような乗用車が走っている。あまり交通量は多くないようだ。

私が歩道をフラフラと歩いて行っても、人とすれ違うことはなかった。

田舎の町、なのかな?



「サリー、サリーったら! いったいどこに行ってたの? トーマスさんがずっと探してたわよ。エドナが泣き止まないんだって」


道の向こうから叫んでいる赤毛の女性をぼんやりと見ると、その女性は私を見据えていることがわかった。

呆れたような顔をして、食料でいっぱいの買い物袋を重たそうに両手に持っている。胸に平和ピースと書いたTシャツと洗いこんだベルボトムのジーパンの中に、ぎゅうぎゅうに詰め込んだふくよかな身体が少し窮屈そうだ。


私からの返事がないことに焦れたのか、その赤毛の女性は車が来ていないことを確認して、道を渡ってきた。


「はい、これ。一袋持って! 本当はあなたの仕事なんだから……」


渡されたスーパーの袋を言われるがままに持つと、重さがズシリと手に食い込んだ。

その人は空いた方の手で私の腕を離さないように強く掴むと、私を促しながら再び道を渡り、スーパーの駐車場に向かって歩いて行った。 


「もうサリーったら。いくらなんでも黙っていなくなるのはダメよ。マリッジブルーになる人もいるけど、あなたに限ってそんなことにはならないと思ってたわ。あんなにトーマスさんと熱々だったじゃない。エドナのことも自分の子みたいに可愛がってたし……」


「マリッジブルー?」


「ええ、不安なことがあるんなら、お互いに話合わなくちゃ。私にも相談してくれないなんて、水臭いわよ」


この人の言うことから推測すると、私はサリーという名前で、子持ちのトーマスさんと結婚する予定だったということなのだろうか?

子持ちの年寄りと、どうしてそんなことになったのかしら?

私は、何を考えていたんだろう?


けれど、この人は私よりも私のことをよく知っているらしい。


とにかくあてがないまま彷徨さまよい続けるよりは、この人について行ってみよう。


そう思って赤毛の女性が運転する車に乗り込んだのだが、車の中は雑多なもので溢れかえっていて、最初は座るどころか足の置き場もなかった。彼女が助手席にある物をポイポイと後部座席に放ってくれたので、やっと座ることができた。

どうやらこの人は片付けが苦手らしい。


彼女は車を乱暴に発進させると、広い駐車場から猛スピードを上げて車道に出て、スピードを落とさないまま急角度をつけて右に曲がると、8車線ある道の真ん中を快調に飛ばしていった。

私は最初のうちはシートベルトにしがみついていたが、広い道には他に車も走っていなかったことから、だんだんと彼女の運転に慣れていった。


「クスッ、なんか初めてサリーを車に乗せた時のことを思い出しちゃった。あなたったら、今日みたいに車の中を見てギョッとした顔をして、私が走るスピードに慣れるまでにずいぶんかかったのよね」


彼女は懐かしそうにそう言うと、カーラジオをいじってカントリーミュージックがかかっていた局にチャンネルを合わせた。


「この曲、懐かしい……」


ラジオから、小学校の頃に聞いた古いカントリーソングが流れてきていた。


「懐かしいって、あなた。今一番流行はやってるイケてる歌じゃないの! いいわよね、カントリー道路。何だか家に帰りたくなっちゃう」


今、流行ってるの?

運転しながら歌を口ずさみ始めた彼女の横顔をうかがってみたが、私をからかっているわけではなさそうだ。

どうして私は、この曲を小学校の頃に聞いたと思ったのかしら?


ああ、何を聞いてもわからないことばかり!

いいかげん、疲れてきちゃった。


私は助手席の窓から、遠くに連なる山々を眺めることにした。

考えてもわからないことはそのままにしておこう。

ケ・セラ・セラ、なるようにしかならないわ。

水が流れていく方にただ流されて行ってみよう。


そこには自分という人間が何者なのかわかる、何かがあるはずだ。


私はラジオから流れてくる歌に身をゆだねて、ただひたすらに車窓の風景を楽しんでいた。

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