燕の一家

@Itsutakedemboku

燕の一家

 じわじわと夜が明けてなお、空は仄暗く雲に覆われている。海は水に墨を溶いたように黒々とし轟々と音を立てている。生哉は小さな山の腹にいる。山頂に神社を戴く山の腹から薄ら暗い世界を眺め見ていた。

 ほう、と思わず溜息が出た。呼気は白く煙って上へ上へと登って往く。覚えず身が震えた。木々は皆葉を落とし、枯れた色彩を黒い世界に加え、一層寒々しい。

 すぐ足下まで迫る海面を見て、海という物が現実に迫ってくるものだという実感を生哉は初めて得た。海は昨日から絶えず鳴いている。まず、白い泡を跳ねさせ山腹にぶつかる波の音があった。家々の屋根、柱、箪笥や寝台といった家具の数々も山腹に、或いは互いにぶつかり、みしみしと音を立てていた。しかし、いずれも海の鳴き声の正体ではなかった。海は、半刻も置かぬ間隔でもって、ぼう、ぼう、と鳴いていた。鳴きながら身を震わせ山腹諸共に生哉の身を振るわせた。

 黒く、深く、ぬらぬらと油煙墨のような海面を瓦の剥げた赤茶の屋根が揺られていく。生哉はこの赤茶の屋根の下での暮らしを思った。この家はもう雨風は凌げやしない。昨夜の夕飯の下拵えもすっかり水の中である。その作り手もまた。

 ごぐん、と大きな音を立てて屋根は向きを変える。屋根の背骨の軋む音を耳にしながら、産まれて初めて、今まで見上げるばかりであった鬼瓦を目下に見た。また、ほう、と溜息が出た。波に揺られてさえいなければ立派な家紋であったろうにと勿体なく感ぜられた。

 この家には立派な桐の箪笥があったのを生哉は覚えている。母が嫁入りの折りに誂えた随分と背の高い飾り棚であった。中には二反の着物が袖を通すわけでもないのに後生大事に仕舞われていた。挙式の時にのみ袖を通した婚礼衣装であったらしい。それも今は汚濁やら海の塩やらに揉まれ、どうなっているやら見当もつかぬ。

 皆一様にこの暗い水面の奥に隠れて了った。この水底には道がある。海岸線に沿って通る片側一車線のこの道は歯車の歯のように突き出す山の中を貫いて村々を繋ぐ大きな道であった。この辺りの人々は誰彼となくこの道の世話になる。夕焼け時になると白い軽トラックが多く行き交う道だった。

 よくよく観てみれば、海面からは白い軽トラックらしき影が認められた。運転席に、白く、浅ましき物が見え、生哉は努めてこの運転席を見ないようにした。そうして、見ないようにしながら、潮の匂いに混じって香る臭いを覚えた。

 忽ち胃液がこみ上げて来る。足下の海に戻そうと屈み込み、しかして思いとどまり吐き気を堪えた。喉に酸が染みて痛むのを覚えながら、必死で吐き戻すのを堪えてやった。訳もなく、この海に汚物を落としてはならないように思われたのである。また、次にいつ物を食い得るのかも分からぬ状態で、昼の玉子かけ御飯を体外に呉れてやるのは余程の下策とも思われた。生哉は漸く生くための思考が自らの中に芽生えたのを感じた。呆けてばかりはいられぬと直覚した。

 喉はすっかり嗄れていた。何度家族の名を無為に、中空に放ったか。

 今一度自分の身を改める。圏外となっている携帯と、合皮の安い革財布、そして一本の万年筆。この一本の万年筆を不断から胸ポケットに差すようにしていたのが幸いした。この赤い金属軸の万年筆を送って呉れた人の顔を思った。

 生哉は歩き出した。山一つ隔てた村の旅館を頼りにしようと考えた。彼の旅館は歯車の歯の中程に居を構えており、恐らく波は届いていなかろう。尾根伝いに歩いていけば辿り着け――寒風が一陣吹いた。余りの寒さに体の末端は痛いくらいであった――少なくとも凍死することは免れよう。

 頬に何か冷たいものが触れた。雪であった。暗い曇天から滾々と降り始めていた。

 足を動かす度、枯れた草木の折れる音がした。どれほど歩けども水の跳ねる音はいつまでもすぐ後ろから聞こえ続けていた。生哉の内に思索らしき思索は未だ無かった。ただ生きねばならぬ、生きて再び会わねばならぬと体の求むままに足を動かし続けた。

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