6 「雪那、わたしだよ」




 視線を、しっかりと閉まった扉から、室内に巡らせる。室内は、懐かしい趣を残していた。


 わたしが使っていた部屋と、同じ部屋だ。敷物や調度品など、歳月によって変わったものがあるようだが、扉、柱、窓といった部屋を構成するものは変わっていない。

 部屋の机に、突っ伏す人がいた。

 顔は見えなくて、二年ぶりだけれど、すぐに分かった。


「……何の用だ」


 くぐもった声が、突っ伏す姿から発せられた。

 声が、少し低い。二年の間に声変わりが来たらしい。聞きなれない中にも、名残がある。


「誰も入るなと、言ったはずだ」


 酷く疲れた声だった。

 姿も、体勢ではっきりとは分からないものの大きくなったようなのに、小さく見えて。

 早く、駆け寄りたい気持ちに駆られる。


「雪那」


 近づく前に呼びかけると、ぴくり、と背が揺れた。


「雪那、わたしだよ」


 わたしだ。

 あなたの姉。

 だから、近づいてもいい?


 突っ伏す姿が、ゆっくりと身を起こして、伏せていた顔がゆっくりとわたしの方を向く。

 顔は、ちっとも変わっていなかった。

 瞳は、陰って見えた。


「──姉さん?」


 口が動いて、まだ耳慣れない低さの声が名前を呼んだ。


「そう、わたし」


 わたしだよ。

 弟の目が泣きそうに揺らいだから、急いで走って近寄った。

 両手を伸ばされたから、迎え入れて、抱き締めた。


「雪那」


 腕を回した体は、覚えているより大きかった。雪那、とわたしはもう一度弟の名前を呼んだ。


「雪那、二年ぶりだね」

「……うん」

「声変わりしたね」

「……うん」

「背も伸びた?」

「……伸びた」


 そっか。

 そういえば、一番成長盛りなときだったね。そうか……。

 わたしは、椅子に座る雪那の頭を撫でる。この分だと、背は完全に抜かされたと分かるのに、不思議と彼は小さな子供に思えた。


「姉さん、どうやってここに来たの……? さすがに、店に宮殿からの注文は来ないよね」


 わたしは微かに笑った。

 さすがにそれはない。


「神子として来たの」

「神子……?」


 そこでようやく雪那は顔を上げた。

 神子という存在についてはもう充分知っているはずで、服もここにいれば毎日のように見るだろう。

 雪那は、わたしの服を見て、わたしの顔を見た。


「どうやって」


 どうやってなれたのかと、聞いたのだろう。


「雪那に会おうと思って……色々経て、とりあえずなれた」


 色々経たは事実だけれど、神子となった経緯に関しては普通より段階を飛ばした。


「なれたって……神子って、そんなになろうとしてなれるものだったの?」


 雪那は目を丸くしているから、「なれたものはなれたんだから」と流しておく。実情はコネである。


「……あのね、雪那。悪い知らせを雪那に聞かせないといけないの」

「なに」

「お母さんが、死んだの」


 雪那は固まった。瞳を見開き、口が、そのまま固まった。


「先月のことよ。……雪那のことを心配していた」

「……母さん……」


 呆然と、雪那は呟いた。

 ぽたぽたと、彼の目から涙が生まれ、零れ落ちる。

 わたしが抱き締め、頭を抱くと、彼はわたしにしがみついた。


 ──ああ、可愛い弟。お母さんが大好きで、お母さんの病のことを憂いていた。自分のいない間にこの世を去ったことが、どれほど辛いか


「……姉さん」

「ん?」

「僕は、母さんの、お墓にすら参ることができない……」

「……」

「僕……」


 声が、涙に濡れていく。

 彼の涙はますます生まれているのだろう。


「僕、帰れない……」

「……」

「僕は」

「王に、なることになったのね」


 雪那が、顔を上げた。

 予想通り、顔は涙で濡れていて、鼻は赤くて、本当にまるで幼子のようだった。

 大きな大きな責務を突きつけられた幼子。けれど、幼い子ではないからこそ、彼は自分が以前の生活に帰れないことを分かっていた。




 部屋には、結局三十分ほどいただろうか。

 部屋を出て、蛍火と廊下を歩く。


「新王の評判は、些か芳しくないようです」


 蛍火は、宮殿内を歩き、雪那の話を聞いて回っていたようだ。

 まだ正式に王になってもいないというのに、芳しくないとはどういうことだ。わたしは先を促す。


「勉学はなさっているようですが、他の時間は絵に傾倒しておられるとか、時折部屋に誰も寄せ付けなくなるとか」

「勉強はしているんでしょ。それならいいじゃない。……最初は政治を知らないのは、ないことじゃない」

「ええ、睡蓮様もそうでしたね」


 そう、わたしもそうだった。忘れそうになるほど昔のことだが、そうだった過去はあった。

 最初は何も分からず、周りに聞いてばかりで、頼ってばかりだった。どうにか良い王になれるように、励むばかりの日だった気がする。

 誰も寄せ付けなくなるのだって、そんな日があったっていいじゃないか。


「完璧を求め過ぎているように感じられる気もします」


 政治の素人で、王にもなっていない段階で求めるレベルでないレベルを求めている。

 蛍火が得てきた情報は、悪いところばかり見て、誇張している印象を受けた。だが蛍火が偏った情報ばかりを抽出して集めてきたのではない。蛍火はそういう性格じゃない。

 王とは、長い目で見るべきだ。良い政治をするのなら長く、長く生きるのだから。この国は百年王がいなかった。その辺りの感覚がずれてきているのだろうか……?


「私は、内界に戻ろうと思います。……睡蓮様はどうされますか」

「しばらくは、いていい?」

「どうぞ」


 内界に戻る蛍火を見送るべく、水鏡のある宮まで一緒に行った。

 これからしばらく、引き続き、国付きの役目に縛られない、神子長の特使としていられるようにしてくれるそうだ。

 与えられる役目は、『百年振りの王』の経過観察。異常が起こらないか、というのを見ると言う何とも漠然とした役目だ。とは言えこれで雪那の元に堂々と行ける。


「……睡蓮様は、二百年経って私が生きているとはお思いになりませんでしたか」


 水鏡を通る前、蛍火が立ち止まった。

 わたしは、え?とその背を見る。


「そんなことはない、けど……分からないって思ってた」


 長く生きていた身でも、百年単位は長い。二百年は、当然長い。


「私自身、神子は辞そうかと考えていました。千年近く仕えたあなたがいなくなられたのは大きいことでした。今さら新しい王に仕える気にはなれませんでしたし、内界で生きるのはだらだらと生きるようなものだと感じました」

「でも、今」

「はい。睡蓮様がいらっしゃったこの国の『次』を見なければならないと勝手にですが思いましたので、次の世を見届けようかと思っていたのです。……正直、さらに二百年生きるとは思ってもいませんでした」


 それは、災難なのか何なのか。

 かける言葉に迷っていると、続けて蛍火が口を開いた。


「あれから二百年経ちました。──恒月こうづき国の王、紫苑しおん様もまだご存命ですよ」


 突然出てきた名前は、わたしが一瞬固まるには充分だった。

 目を丸くして、蛍火を凝視して……数度瞬きをした。


「そう」

「はい。私も二百年会っておりませんが」

「わたしも、紫苑と会う機会はない」


 これから先も。きっと。

 各国を自由に行き来する神子である蛍火とは違う。紫苑と偶然会うことはない。

 そして、関係は絶ちきられている。彼の中でわたしは死人のまま。実際死んだ。それでいい、そうあるべきだ。

 蛍火は、「そうですね」と言って、水鏡を通って西燕国から姿を消した。







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