21 「なればいい」


 広々としたお風呂を一人占め。

 神子は神子で、それなりに広いお風呂を使えるけれど、この広さとなると、いつ以来だろう。

 召使いが洗ってくれるという手を断り、一人でゆったりとお湯に浸かる。不思議な乳白色に染まったお湯に手を浸けたり、上げたりすると、ぱちゃぱちゃと音が立つ。


「……もう二週間」


 呟きながら、お風呂から上がると、お湯が体を伝っていく。

 出てくるわたしを待っていた女官が、布でわたしの体を拭っていく。

 まったく、至れり尽くせり。今世になってから、平民生まれで当然自分で何もかもする生活だったのに、何不自由ない生活に戻ってきた。

 それが喜ばしいことなのかは、どうとも言えない。


 恒月国に来てから、二週間経った。

 まだ、この国からは出られていない。指には指輪がある。

 けれど、行動範囲が広くなった。紫苑が庭を解禁してくれて、結界の境を塀にしたからだ。

 だからこうして、庭に出て、夜空を見上げることが出来る。部屋の窓も開けられる。

 たぶん、ここのところわたしが大人しくしているからだと思う。

 それでも結界は消されない。


 けれど、ずっとと言っても、紫苑だって力をずっと使い続けられるわけじゃない。力には限りがあるし、使い続けるためには少なからず意識がなくては駄目だ。

 毎日朝昼夜と確認しているわけではないので、結界を紫苑自身が継続して張り続けているのかは分からないものの……。

 ……逃げることを考える自分が嫌になる。

 一度頭を振って思考を振り払って、ため息を吐いた。


「確かにこの国は好き……でも、それとこれとは話が別」


 結界を張り続けているのが紫苑なら、紫苑はちゃんと眠っているのだろうか。

 毎日会いに来る姿に、疲れは見えないと思うけど。

 紫苑が私生活を送る宮の方角を何気なく見たら──屋根の上に、人影があった。


「……紫苑……?」


 高い高い屋根の上で、さらに現在夜。

 顔どころか服装もはっきり見えたものではないが、直感的に名を呟いた。

 そんな小さな呟きが聞こえたはずはない。

 だが彼は、わたしに気がついた。視線にでも勘づいたという方がまだ納得できる。

 睡蓮、とわたしを呼ぶ声が降ってきた。静かな夜に、声は思ったよりよく通って、聞こえてくる。


「上がってくるか?」


 続けて降ってきた言葉に、わたしは何度か瞬く。


「……屋根の上って、どうやって登るんだったっけ!」


 梯子ある?

 というかそこ、この宮の外だけど。そもそも目一杯声張ったけど、声届いてる?

 わたしの数々の疑問をよそに、屋根の上にあった人影が屋根から、こっちの屋根へ飛んできて、降りてきた。


「そういえば、今の睡蓮には力がそんなにないんだったな」


 そんなにどころか、かなりない。

 以前屋根の上にあがっていたのは、神秘の力を使っていたからで、普通なら軽々あんなところに上がることはできない。


「俺が連れて行ってやる」

「わ」


 抱き上げられて、目を白黒させている間に、気がついたら屋根の上に下ろされていた。

 わたしが生活している宮の屋根の上のようだった。


「これでも羽織ってろ」


 肩にふわりと何かがかかって見上げると、紫苑が一番上に着ていた衣服がなくなって、わたしにかけられていた。紫苑の体温が移ったそれは、温かかった。

 ありがとう、と言うわたしに対し、紫苑は隣に座り笑みを向けた。


「風呂の後か」

「うん」


 湿っている髪に、紫苑が触れた。

 ただ髪に触れられただけなのに、指が、黒い髪一筋一筋を丹念に感じるような触れ方に、自分の髪にも関わらず視線を外した。

 ちょっと、落ち着かない。


「死んだ理由は聞けなくても、どうやって暮らしていたかは聞いてもいいか」


 視線を戻したときには、するりと手から髪が滑り、指が離れていた。代わりに、紫の目と、目が合った。

 今広がっているしんとした夜のように、静かな目だった。

 いいよ、とわたしは言った。


「『花鈴』は、本当にわたしの名前なの」


 今のわたしが生まれて、もらって、生きてきた名前。睡蓮の記憶があっても、周りの環境が人までも異なる分、一から始めた気持ちだった。

 蛍火に再会したときに話したように、どうやって暮らしていたのか話した。

 紫苑は話を黙って聞いていた。


「それ」


 話が終わって、紫苑が一言。

 指事語のみで言葉だけでは分かりようがなかったけれど、指がわたしを示す。


「神子の印だろう」


 紫苑が示したのは、首もとにある神子の印だった。

 鏡で見て、位置は知っていたため、ぱっと手で押さえた。

 しかしそもそも、神子の印があるのに着替えを手伝う女官は誰も指摘してこなかった。紫苑がとうに知っていて、見えなくしていたのだろうか。


「神子の格好もしていたな。蛍火とは会ったのか」

「……会った、よ」

「いつ、神子になった。どうして神子になったんだ」


 責める口振りではなかった。

 ただただ問う口調だった。


「さっき話したように弟がいて……。名前は雪那って言うんだけど」

「弟?」


 紫苑がちょっと虚を突かれたような目をして、わたしは首を傾げる。弟のことは、さっき話してたでしょ?

 不思議そうにするわたしに、紫苑は何でもないと、先を促した。


「それで、その弟が西燕国の王になったの」

「西燕国の王に?」


 雪那に会いに行こうとした矢先に蛍火と会って、雪那が王に選ばれたことを知って、神子になったのだと話した。

 話がまた一区切りついたけれど、問うことも止めた紫苑がじっとしばらく黙る。


「……弟が王にならなければ、睡蓮は平民として生きて、死ぬつもりだったのか」


 わたしは、一瞬答えることをためらった。

 でも、答えた。「たぶんね」と。

 今世の母が死に、西燕国の家を出てから、まだ半年も経っていない。あの頃のわたしは、蛍火と再会するとは夢にも思わず、まさか紫苑とも再会するなんて思ってもいなかった。

 単に、雪那に会いに行って、彼と帰ることが出来たら帰って、一緒に暮らすと思っていた。そうして、あの小さな家で、暮らしていく。

 長い生なんて、望みにも入っていなかった。あの生活を送るわたしには、望む理由がなかったから。


 正直に答えると、紫苑の瞳が翳ったように見えた。夜だから、元々暗くて分かりにくい。


「今、西燕国に帰さない俺は嫌いか」

「……一度くらい帰して欲しい」

「一度くらい、な。俺のことを受け入れて、ここに戻ってくる確証が得られるまで閉じ込め続けるって言ったら?」

「紫苑、そういう性格じゃないでしょ」

「閉じ込められている現状を踏まえて言っているか?」


 紫苑が口元に皮肉げな弧を描き、乾いた笑い声を漏らした。

 しかし、ふいに目ごと真剣なものに様変わりする。笑みも消えた。


「睡蓮、言っただろう。俺はもう後悔したくない。だから睡蓮を帰さない」

「わたしが、──それで紫苑のことを嫌いになっても?」


 わたしは意を決して言ったのに、


「なればいい」


 紫苑はあっさりとそう言った。

 愛していると、言ったくせに──


「俺は、睡蓮のことを愛している」


 唐突にまた向けられた言葉に、心が動揺している間に、紫苑がわたしに手を伸ばした。


「睡蓮が嫌うなら嫌えばいい。俺は、この形を変えられない。だから睡蓮が俺の思いなんていらず、逃げたいと思うなら、いっそ隙がないくらいに俺を嫌え。それなら俺は睡蓮を愛しているが、さすがに諦められて、ここから解放するだろう」


 睡蓮は簡単に隣国まで来るような行動派だから、今の生活は退屈で仕方ないだろう、と笑う紫苑にはやっぱり哀しそうな感情が滲んでいた。


「……その反応が、どうなのかは睡蓮だから全くわからないな。どうであれ、見ていて何でも可愛いものではあるんだが」

「──紫苑、最近、わたしに触りすぎ」

「嫌か」


 嫌かと聞かれると、即答できない自分が浅ましい。

 『普通』なら、紫苑との再会は嬉しいことだ。それなのに苦しくなっていくばかりの現状が、悲しくて悲しくて、嫌だ。

 触れられて、見られて、自分の変化が分かるのさえ苦しい。


「……それじゃあ、俺は諦められないぞ」


 笑うでもなく、真面目な眼差しで言う紫苑はわたしの頬を手のひらで撫でる。


「なあ、睡蓮」


 愛おしそうに名前を呼ばれ、熱っぽい目で見られる。


「俺が、どれほどこうして触れたいと思っていたか」


 手が頬を撫でるように滑り、


「口を塞いで」


 指が唇をなぞる。


「何もかもを俺のものにして、帰せなければいいと何度思ったか。今だって、本当は睡蓮の全てを俺のものにしたい」


 夜空の下、紫苑の表情は雰囲気が異なった。目と、表情が艶を帯びている。

 全てが夜の暗さの錯覚? 違う。紫苑自身の雰囲気だ。


「口づけしていいか?」

「──だめ」


 どうしてか、唇が震える。


「じゃあ、抱き締めるのは」

「……だめ」

「十秒だけでもか」


 十秒。

 ……別に、抱擁なら、そう特別なことではない、か。あまりにも敏感に断り続けるのも、変に意識しているのを認めるようだ。


「……十秒だけなら、いいよ」


 いいよ、の前には抱き締められていた気がする。

 腕で囲われて、顔が衣服に飛び込んだ。


「この前勝手にしたからな。今日はこれで満足する」


 直接響くような声に、体が震えないようにするのが大変だった。

 羽織った衣服の下を縫って、腕が背中に回されたけれど、借りた衣服が滑り落ちてしまわないかの心配はできなかった。

 寝るときの衣というのは、昼間に比べると重ねる枚数もなくて、生地自体遥かに薄いということを実感させられたようだった。

 背中にある紫苑の指が、一本一本、分かるような。それくらい、感覚も研ぎ澄まされて。

 十秒を数えることが頭から吹き飛んで、離れたのは本当に十秒経ったくらいかどうかは分からなかった。


「おやすみ、睡蓮」


 ──ああ、本当に、どうしよう




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