10 「あなたは、その時代が気に入らない?」






「──姉さん」


 微かな物音は耳に入っていなかったようだ。

 誰かが入ってきたことに気がついて、次に誰だと認識し、弟はほっとした表情をした。


「よく、ここにいるって分かったね」

「弟のことですから。……どうしてここに?」


 得意気に言ってみたけれど、後半の方を尋ねたかった。

 しかし、当の雪那もちょっと首を傾げた。


「気がついたら、ここにいた」


 やはり、意図して移動したんじゃなかった。

 雪那は、部屋の中をぐるりと見渡している。


「図書室には数度だけ来たことがあって、ここは、最初のときに扉が開いていて少しだけ中が見えたんだ。すぐに司書が閉めてしまったけれど、この場所はいいなと思ったのを覚えてる。……店の作業場がこのくらい散らかっていて、同じくらいの広さだったからかな」


 雪那が指でなぞった窓辺は、埃を被っていた。


「でも、どうやって来たんだろう」

「『神秘の力』──王と神子のみが持つ力よ」


 特別な力。

 持つ者は限られており、貴族や平民の中にも秘めている者がいるかもしれないが、その力は神子か王にならなければ解放されない。

 力により起こされる現象は、只人が見れば、『奇跡』と言う。

 教えると、雪那は「へえ」と目を丸くした。


「そんな力があるんだ。…………意図して、使えるようになるのかな?」

「使えるようになりたいの?」

「……逃げ出したくなったとき、どこにでも逃げられそうだ」


 わたしは、とっさに何も言葉を返せなかった。

 雪那は若干視線をずらして、「ごめん。……どうしても気が滅入って」と謝った。


「使い方は、即位式が終わって内界で神への拝謁を済ませれば分かるようになる……と思う。神子に聞けば、神子が使い方を教えてくれる」

「即位式が終わっても、姉さんは、いてくれるの?」


 また、すぐには何も言えなかった。

 雪那の目は、すがるようで。幼い子供のようでもあった。


「……いてくれないの?」

「国付きには、なろうと思って、なれるものじゃないから。今は、特別に頼んでここに来ている状態なの」

「……そう、なんだ」


 雪那は、視線を下に落とした。

 彼は、子どもではない。子どもではなく、むしろ理解の早い方だから、わたしの言っていることも理解した。

 だから、本当は分かっているのだ。ずっとこの部屋にいるわけにもいかず、どこかに飛んでいってしまうわけにもいかないと。


「陛下、今日は即位の日でしょう?」


 優しく声をかけた。

 瞬間、雪那が顔を上げて、その表情にわたしは驚いた。

 彼は、泣きそうだった。表情も。目も、水面のように揺らぎ、潤む。

 思わず、手を伸ばした。伸ばさずにはいられなかった。

 弟だ。幼い頃からずっと知り、生きてきた家族だ。お母さんがいなくなった今、たった一人の家族。

 わたしの、守るべき弟。

 抱き締めると、大きくなったはずの彼は、抱き締められなくなりそうなほどやっぱり大きかったけれど。

 また、小さく感じた。


「……神子が家に来て、行かなければいけないから宮殿に来た。でも、いつか、時が来れば誰かが選ばれて、僕は神子にもならずに家に帰れると思ってた。……また、母さんと姉さんと一緒に暮らせると……」


 思ってた、と最後の言葉は掠れて、衣服に吸い込まれていった。


「まさか、選ばれるなんて思ってもみなかったから」


 わたしは、雪那を抱き締め続けた。

 何もかける言葉が見つけられず、何と言うのが正解か分からなかった。

 わたしの守るべき弟。幼い頃は、生意気な近所のガキ大将から守って、姉なら何ものからも守ろうという気持ちは生まれながらにあった。

 だが、今、何から雪那を守るというのか。

 ぐるぐると、頭の中で考えているうちに、時間は過ぎていった。


「……知っている?」


 どれくらい経った頃か、少しくぐもった声がした。

 見ると、雪那の目は窓の外の方を見ていた。あの壁、と彼は言った。

 窓の外の先には、壁があった。

 高い、高い壁だった。


「元は、もっと低くて、庭の見晴らしのいいところは下の街並みが見渡せるように壁がない場所があったんだって。……いつの話だろうね」

「……」

「あの壁は、『千年王国』時代のものらしい。だから、残されているんだろうな。でなければ景色を見るのに邪魔だ。うんと上に行かなくちゃ、見られない」


 その言い方には、『千年王国』への複雑な感情があった。


「……あなたは、その時代が気に入らない?」


 そういうわけじゃないよ、という言葉が返った。


「歴史に詳しくなくても、誰もが知っている。素晴らしい時代。この国の誇りだよ。……でもね、僕は『かの時代』を作った王と比べられる」

「……比べられる?」

「うん。皆が求めるのは『千年王』のような王……ううん、『千年王』だよ。そして、僕はその偉大なる王を超えることは絶対にできない」




 この国付きの神子の一人がこう言った。

 ──「この国の人が、『千年王』を懐かしく思っているからかもしれませんね」


 いつか聞いたことを思い出した。

 ──「『千年王』や恒月国の王のような方であればいいが……先代王は欲にばかり耽ったそうではないか」

 ──「千年王国の頃が懐かしい。かの時代の王は、どれほど素晴らしかっただろう」


 見たことなんてないくせにどうして懐かしむのか、過去を羨望してどうするのか。その過去も、羨望するべきものでないというのに。


 ──「百年振りの王が、あのように頼りない方で大丈夫だろうか」


 百年振りの王を、早くも憂いる言葉を思い出した。



 腕の中の、力ない声が消えていく。


「──どうして」


 雪那が、ゆっくりと顔を上げ、こちらを見る。


「どうして、そう思うの」


 誰に問いかけたのだろう。雪那か、それとも、名前も知らない誰かか。どちらもか。

 意図を図りかねたように、弟が困惑した顔をしたから、わたしは首を横に振った。何でもない、と。

 その代わり、


「……皆、探しているから、そろそろ戻らないと」


 王がいないと相当慌てるし、焦る。現在進行形で、彼らは生きた心地もしないくらい、必死に雪那を探しているだろう。

 しかしながら、言ったことは、弟の顔をまたも曇らせた。

 分かってる、と、駄々っ子であったことのない彼は、わたしから身を離した。


「……姉さん、お願い。今だけでもいいから、雪那と呼んでくれない?」


 わたしの手を握り、小さく頼む声。


「『陛下』と呼ばれていると、自分が誰か見失いそうな気がして、こわいんだ」


 その感覚は分かる気がした。名を呼ばれたときの安堵を思い出した。

 だからわたしは、蛍火に「陛下」ではなく「睡蓮」と呼んでもらっていた。


「雪那」


 わたしは、しっかりと彼の名前を呼んだ。

 目を見て、はっきりと呼んだ。


「……ただの雪那でありたかった」


 その願いは叶わない。

 即位式がやって来る。

 雪那は、ありがとう姉さん、とわたしの手を離し、窓辺から下りた。

 足は、扉の方へ進む。一歩、一歩。止まることも、淀むこともない。


 この子は、予想よりずっと心がしり込みしている。けれど後ろには下がれないから下がらない代わりに、諦めている。周りの評価が明るくないことも含め、諦めてしまっている。


 ああ、嫌だな。と思った。

 わたしは、雪那の表情を晴らせる力を持っていないんだ。むしろ、何度も表情を曇らせている。姉なのに。彼は、弟なのに。たった一人、守りたい、幸せにあってほしい家族なのに。


 弟が、とても愛しい。

 しかし、王となることとなり、戸惑う彼を玉座から逃がしてやるわけにはいかない。

 玉座から逃げるということは、どういうことか。離れたがることが、どういうことか、知っていた。

 だから、これから雪那が王となることに向き合っていければと思うしかない。そして姉であるわたしとは別に、わたしにとっての蛍火のように、心の許せる神子がこの国付きの王付きになってくれれば。


 このままでは、駄目だ。

 雪那を憂い、彼がそんな顔をするくらいならと、ここから出したい気持ちがある。どこか遠くに逃れて、以前のように店をすれば生きていける。

 だが、そんな選択肢は許されない。

 だから、せめて。まだ、このままの状態で雪那の元を去るわけにはいかない。

 せめて、下を向いて前に歩くばかりにはならないよう。前を向いて、自分の目で前を見て歩いていけるよう、わたしに出来ることをしたい。



 即位式が終わった。

 眼下を埋め尽くす人々の前に出た雪那は、あの光景に何を思っただろうか。


『即位式が終わりましたね』


 鏡を通して、蛍火と連絡を取っていた。

 蛍火が、弟の様子を見るというわたしにそれとなく示した期間は、即位式までだった。


「蛍火、もうしばらく西燕国にいられるように出来ない?」

『……理由は』

「雪那が心配」


 その一言に尽きる。他に理由は有りはしない。

 本当は、わたしは神子として十分な神秘の力も持たず、根本的に正式な方法で神子になっていない。そんな風に無理に、我が儘を通して、いけないことをしている。

 蛍火に叶えてもらってここにいるのだけれど、このまま離れるには心配が大きすぎる。

 神子長の特使という特殊な肩書きを持つわたしがあまり長くいると、不審だろうか。


『その国の宮殿に居続けることに、あなた自身に問題はありませんか』

「今のところは、そんなにないかな」


 蛍火は探る目付きをして、わたしが「何よ」と笑うと、「いいえ」と止めた。

 そして、頷く。


『分かりました。一日一度の連絡を欠かせば内界に戻ってもらいますから、気をつけてください』


 つまり、引き続き便宜を図ってくれるということで。


「了解」


 ありがとう、とお礼も付け加えた。今世も迷惑かけるね。


『それから……一旦、しばらく内界の方に戻ってもらえるなら、私はこの上なく嬉しいということを頭の隅──いえ、中心に置いておいてください』

「隅じゃだめなの?」

『隅と言うと、それほどではないという判断をなさるでしょう』

「……そんなことないよ」


 少し挟まれた間がその証拠だ、と蛍火は言った。








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