1 「いらっしゃいませ」


 扉が開く気配がした。


「いらっしゃいませ」


 黒い髪を揺らし、黄色の瞳を上げた──わたしは、口に馴染んだ言葉を言った。

 しかし反射的に言ったあと、いやいやおかしいと思って。次に覚えたろくでもない予感は、大いに当たりだったと言える。


花鈴かりん、うちの養女にならないか」


 家に押しかけ、そう言ってきたのはとある高貴な身分の男性だった。非常に恰幅がよいこの男性は、奥さん共々店の上客だ。

 とはいえ現在、店であり家のドアには店を閉める旨が記していて、営業自体すでに少し前からしてない。だから「いらっしゃいませ」と言うことはないはずだし、そもそも店の中に他人が入ってくること自体が今はあり得ない。

 しかしながら、一週間前よりこんな『来客』が度々ある。店の客という意味ではなく、わたし個人に用事を携え家にやって来たという意味の客になるか。

 その客の申し出に、わたしは「はあ」と生返事をした。

 鍵をかけていれば良かった。出かける間際だったから、開けてしまっていた。


「豊かな生活をさせてあげられるよ。刺繍は嗜みとして続けていけばいい」

「はあ」

「君はきっと王の妃になれる」


 王の妃になれば、家は安泰と言われている。

 可能性だけで言えば、王は一代で何百年も治める可能性が存在し、王の伴侶となった者の家はその間ずっと栄華を極めると思われているから。

 わたしに言わせれば、伴侶の出身家だからというだけで優遇し続ける王の治世は、かなり上手くやらないと長くは続かないと思う。

 世には適材適所という言葉がある。

 その家の者が、ずっとずっと栄華を極めるに相応しい地位に就き続けられる者を排出し続けるかと言えば、ちょっと怪しい。もしも無理に高い役職に就けたなら、大なり小なり国政は傾くだろう。

 大体、こうやって王の伴侶に子どもを推して利用しようという性根の人間はあまり好かない。ああ、これは個人的な好き嫌いかな。


「いえ、王の妃に興味はありません。とりあえず今から花を捧げに行きたいので、戸締まりをしたいのです」


 にっこり笑って、話を流した。

 そして外に出て、鍵をかけて一礼し、わたしは花を持って駆けていく。


「……お母さんが死んでから、多すぎる」


 近所の人には母が死んだことは伝えたが、貴族の客にこんなにも早く話が伝わるなんて。

 もっと言えば、養女に、という話が一件なら笑えるのに、二桁に突入するとは。笑えない。

 それも皆、最初はこれから女の子一人で大変だろうと言うのに、そこからは王の妃になれるとか、高位貴族の妻にもなれるとか。

 口を揃えて、まったく同じ事を言ってくる。

 もはや、最近は同じ日を繰り返しているんじゃないか?と思うくらい。


「豊かな暮らし、ねぇ」


 皆が皆、一押ししてくる条件といえばそれ。豊かな暮らし。

 綺麗な衣服を着て、働かず、苦労せず、これから先ずっと暮らしていけるよ、と言う。もちろん嫁に行くこと前提にだ。


 余計なお世話だと言いたい。

 年頃になれば、嫁に行くのは当たり前が常識だとは知っているけれど、『前』は長くも結婚しなかった身からすると放っておけ、だ。

 身分が平民で、相手がお客である以上、間違っても「放っておけ」なんて言えないのがもどかしい。


 まあ正直、生活にはゆとりはないんだけど。

 刺繍に価値を見出だしてくれる奇特な貴族が一定数いたので続けていたのだし、現状自分一人でこれからも続けるかとなると難しい。と言うか、無理だと判断して閉めた。

 不思議に魅力ある図柄を延々と産み出してきた相棒も、二年前にいなくなってしまっていたし。

 そう。


雪那せつなに、会いに行かなくちゃ」


 店での相棒にして、弟。名を雪那。

 わたしの名を花鈴。

 姉弟で、弟が絵の類いが得意だったことと、わたしが祖母と母に刺繍を習っていたことで、ひょんなきっかけから貴族に人気の刺繍を請け負う店をしていた。

 弟の絵自体を気に入る貴族もあり、彼は普通は食べていくことが難しい道の軌道に乗ったと言えるだろう。

 わたしはと言うと、刺繍の才能がかなりあったらしく刺繍を極め、店を始めてからは習いたいという人が後を断たなかったり。やはり人生やってみると新しい発見があるものだ。こういう生き方がある。

 途中山や谷があっても、何だかんだ家族で生きていくのだろう。いや、生きていくのだと思っていたが、──生活に変化が起こされた。

 二年前、とある事情により弟が家を出ることになり、先日は長く病がちだった母がとうとう死んだ。


 ──「雪那せつなのことが、心配」


 母は死に際、雪那のことを案じていた。そして死んだ。

 わたしは家に一人になった。

 十七年の付き合いになるこの身は、今世は普通の身。人には、死が身近にある。自然と近づいてくるものだ。そんな感覚を思い出したようになった。


「……家族はまだいる。雪那を探しに行く!」


 任せて、お母さん。会って、様子を見てくるから。

 手を空に突き出すと、持っていた花束から花びらが数枚散ってしまった。おっと、いけない。


 近いうち、わたしはあの家を出ていく。

 弟を探しに行くためだ。

 そう決めてはいるが……。


「雪那がいるのは、たぶん、宮殿。……宮殿に入るには……どうすればいいの」


 花を、祭壇に捧げる。

 人が死ぬと、定期的にその魂の安寧を祈る。神を奉る場所に行き、花を捧げる。

 白と青の建物を出ると、青い衣服の人が過った。


神子みこか……」


 神子なら、宮殿に派遣される可能性がある。

 それに男女で仕事内容の区別がなく、『王と同じく』結婚の必要性に迫られず、急かされない。

 とは言うものの、なろうとしてどうやってなるのか知らない。

 ついでに聞くか、それとも他の方法を探そうか。

 他……料理人、召し使い……。宮殿の抜け道が健在ならそこから……いやこれはなし。


「花鈴!」


 厳かな場所に、声は大きく響いた。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る