日本漫画優越論、「世界に誇る日本の漫画・アニメ」という言説(3)【暫定版】

 80年代最後の年、昭和が終わり平成が始まった1989年。その2月9日に手塚治虫は亡くなりました。

 その日の朝日新聞の夕刊では一面と社会欄で手塚の死を報じています。これは非常に大きな扱いです。翌日、10日の朝刊を見ると、まず天声人語で手塚について触れています。そして社説でも手塚治虫と日本の漫画について論じています。以下に引用します。[1]


>>日本人は、なぜこんなにも漫画が好きなのか。電車のなかで漫画週刊誌を読みふける姿は、外国人の目には異様に映るらしい。

 しかし、さて私たちはなぜ漫画が好きなのか、と思い悩む必要はなさそうなニュースが海外から聞こえてきた。「マンガ日本経済入門」が西独で翻訳され、学生らに人気を呼んでいるという。米国では一足先に評判だ。なぜ、外国の人はこれまで漫画を読まずにいたのだろうか。

 答えの一つは、彼らの国に手塚治虫がいなかったからだ。日本の戦後の漫画は手塚治虫抜きにはありえない。ストーリー漫画とテレビアニメの創始者。少年マンガはむろんのこと、今日隆盛をきわめる少女漫画の主人公でも、あの長いまつ毛を持った美少年「アトム」の両性具有的なイメージに影響を受けていることは容易に推論できよう。<<


>>いま日本のコミック文化は、爛熟期にあるという。漫画本は年間十六億八千万冊発行され、三千八百億円の売り上げを示す(一九八七年)。週間発行部数五百万部という漫画雑誌はおそらく世界最大だ。

 輸出文化の最大手という見方もある。ニューヨークの漫画専門店には日本漫画専用の棚があるし、アジア諸国の都市でも海賊版が珍しくない。テレビアニメは、「アストロボーイ 」と名前を変えた「鉄腕アトム」から「ドラえもん」まで親しまれている。<<


 もちろんこの社説は、手塚治虫の死を悼み、その業績を称えるという文脈で書かれているわけです。しかしそうだとしても、海外と比べて日本の漫画をこれだけ持ち上げる文章が朝日新聞という大新聞の社説として書かれたことは大きかったのではないかと思います。


 これまで外国人の視点を持ち出して、日本では大人までもが電車の中で漫画を読んでいておかしいと批判するのが漫画叩きの常套手段だったのですが、それがここで反転して、それこそ日本の漫画の良さの証拠であるという論理になっています。海外でほとんど大人が漫画を読まないのは、大人が読みたくなる漫画が存在しないからなのだと。(前述の通り、手塚治虫本人は、日本と違って海外の電車の中で漫画が読まれていないのは通勤事情の違いが理由だとしていたのですが。)


 そして日本の漫画が海外で受け入れられていることにも触れています。

 しかし、この頃、西ドイツで『マンガ日本経済入門』が評判になったと言ってもそれは単発の現象でしかなく、その後に日本の漫画の刊行が続いた訳ではありません。朝日の論説委員は認識していなかったのでしょうが、ヨーロッパの事例を挙げるならフランスやイタリアなどの方が相応しかったように思います。


 米国でも、1987年にビズが日本の漫画の翻訳を本格的に出版しはじめたばかりです。「ニューヨークの漫画専門店には日本漫画専用の棚がある」とありますが、逆に言えば、大都市の専門店にでも行かなければ、日本の漫画は入手しにくかったということです。米国ではコミック専門店と一般書店はまったく別の存在で、コミック専門店に足を運ぶのはマニア層に限られます。

 また、アニメ映画『AKIRA』が米国で公開されるのは、この10ヶ月後の1989年12月のことです。(英語版コミック版の刊行は始まっていました。)


 アジア諸国で日本の漫画の海賊版が出回っていることにも触れていますが、「輸出文化の最大手」と言っても、この頃は正規版はほぼなかったようです。アジアで日本の出版社から正式に許諾を受けた翻訳版が出版されるようになるのは90年代以降の流れです。


 つまり、この当時はまだ、海外で日本の漫画は人気だと言えるほどの状況でもないのです。しかしそれも日本の方が進んでいるからと解釈されます。海外の方が日本に追いついてきて、ようやく漫画を読むようになってきたのだと。


 ただし、この社説の日本漫画持ち上げは前半だけです。後半はバランスを取るように日本漫画への批判になっています。ここには、当時のありがちな漫画非難のパターンがよく現れています。


>>しかし、このようなわが国の漫画界の現状に、手塚アトムは必ずしも満足していなかったように思える。最近では、「漫画の国際化」の必要を強調し、「世界に通用する質の高いものを」と若手の漫画家に厳しく注文していた。<<


 「手塚アトム」という主語もなんだかよくわからなくて凄いですが、それはともかく、ここでまた、海外を引き合いに出して日本の漫画を批判するというパターンに戻ってしまっています。


>>一見、隆盛の少年少女漫画にも性と暴力、射幸心、差別など興味本位の場面があふれていることは、漫画と聞いて顔をしかめる人の大きな理由となっている。<<


>>読み手の側にも、問題がないわけではない。友情、努力、勝利の世界を描くことが「売れる」漫画の第一条件だとされる。それを一ページ数秒で走り読みする。書き手は三条件を満たす技術者と化し、読み手は自分の求める世界が描かれていれば満足する。<<


 「一ページ数秒で走り読みする」ことが悪いことのように書かれていますが、かつてはこれも漫画批判の常套句でした。漫画は文字が少なく、短時間で読めてしまう、それは内容が薄い証拠だと大真面目に主張する人が普通にいました。

 社説を書いた論説委員が知っていたかわかりませんが、アメリカのコミックやヨーロッパのバンド・デシネは一般に日本の漫画より読むのに時間がかかります。読むのに時間がかかる漫画の方が優れているという立場を取るなら、海外の漫画の方が日本のものより優れているということになります。


 90年代に現れたいわゆる「表現論」では、読者に素早く正確に情報を伝えるためいかに漫画は工夫を重ねて描かれているかということ、そして読者もそれを読み取るためのリテラシーを身につけているということが論じられました。漫画の非言語的な仕組みを評論という形で言語化しておくことは、このような無理解を乗り越えるためにも必要だったと言えるでしょう。


 このように、手塚治虫死去に際しての朝日新聞の社説は、日本の漫画を全面的に礼賛するものではなく、従来からの漫画批判の繰り返しもあるどっちつかずのものでした。そして、それをどう受け止めるかは読者に(時代に?)委ねられていたと言えるかもしれません。


 * * * * *


 1988年から1990年にかけて、作家・評論家の関川夏央は、雑誌「諸君!」(文藝春秋)で漫画批評を連載しており、後に『知識的大衆諸君、これもマンガだ』という単行本にまとめられました。この連載の1989年4月号で関川は、手塚治虫追悼と題して、例の朝日新聞の社説を引用しながら次のように書いています。[2]


>>「日本人は、なぜこんなにも漫画が好きなのか。電車のなかで漫画週刊誌を読みふける姿は、外国人の目には異様に映るらしい」

 このあつらえたような紋切り型はご多分に漏れず『朝日新聞』である。なんとその「社説」である。ところがこの一文の書き手は、わたしの負の予測を裏切った。

私たちがなぜ漫画を好きなのか思い悩む必要はない、と彼は書きつぎ、なぜ外国人は漫画をこれほどまでに読まないのか、と反問してもいる。

「答えの一つは、彼らの国に手塚治虫がいなかったからだ」

 まことに至言である。<<


 関川夏央は、どっちつかずだった朝日の社説のうち、日本の漫画に肯定的な前半部分だけを取り上げています。手塚治虫追悼の記事だからということもあるでしょうが、それ以上の意図があるのは、この連載をまとめた単行本で書き加えられた序文をみるとはっきりします。[2]


>>マンガ嫌いがマンガを非難する際の常套的な手法は、たとえば外国人を登場させ、彼に日本人のマンガ好きを揶揄させることである。「おとながマンガを読む」「白昼堂々と電車のなかでマンガをひろげている」と外国人、とりわけ欧米の白人に驚愕、不可解の声をあげさせる。世間体(世界体)が悪いと思わないか、というのである。日本文化の伝統的なやりくちで日本の特殊性をとがめるのである。<<


>>そのような意見を持つ向きには、外国ではなぜおとながマンガを読まないのか、なぜ隠れて読むのか、と問い直してみるのも一興である。輸入物に強い興味を示すはずの日本人が、輸入マンガには見向きもしないことについても思いをいたしてみるべきだろう。外国マンガは一般に技術が未熟で、表現上の志も低いから定着しないのである。欧米におけるマンガは「子供だまし」か「芸術」の二極に分離する傾向が強く、そのいずれもが電車のなかで読むには適当ではないのである。また、なぜ欧米のマンガはつまらないかという設問への端的な回答は、「手塚治虫がいなかったから」である。<<


 繰り返し述べてきたように、漫画は、低俗・幼稚で大人が読むようなものではないというスティグマを長らく背負わされてきました。手塚治虫でさえ電車の中で漫画を読むのは恥ずかしく感じると語っています。[3]

 そして、旧来の価値観を守って漫画にスティグマを押しつけ続けたい人々は、「外国人、とりわけ欧米の白人」の声を借りるという「日本文化の伝統的なやりくち」を使って漫画を攻撃してきました。

 そうした欧米を権威として利用する言説に対して、関川はここで、欧米の権威自体を否定することで反撃しているわけです。それにしても「外国マンガは一般に技術が未熟で、表現上の志も低い」「欧米のマンガはつまらない」と、かなり強い表現を使っています。かなりはっきりとした日本漫画優越論だと言えるでしょう。


 欧米の権威を借りた漫画叩きの事例として、関川は「Newsweek 日本版」1988年8月18・25日号に掲載された記事を引用して批判しています。この記事を書いたのは、英語版『子連れ狼』の翻訳者デービット・ルイス。1987年に、フランク・ミラーの表紙絵でファースト・コミックスから刊行されたものの訳者ですね。

 デービット・ルイスは次のように書いています。[2]


「日本の社会は圧力がまのようなもの。そこにははけ口が必要で、その役割を果たしているのがマンガ--それだけのことかもしれない。だが活字を捨て、低俗な絵ばかり眺めていれば、頭の回路がどこか変わってしまうのは確かだろう」

「きっとアメリカの母親は疑問に思うはずだ。日本の母親はどうして子どもたちにマンガを好きなように読ませておくのか」

「日本のマンガファンは年をとってもマンガを捨てず三〇代、四〇代まで抱えていく」

「果たしてマンガで形成された世界観で、複雑過酷な現実に対応できるのか」


 もちろん関川はルイスを批判していますが、同時に外国人にこうした記事を執筆させて掲載する日本の雑誌も非難しています。

 ルイスの文章には活字を高尚なもの、絵を低俗なものとする価値観が現れています。これと関連するのですが、どうやら欧米には、西洋の文化を非映像的・抽象的、日本の文化を映像的・具象的とするステレオタイプが存在するようです。これについてはいずれまた別に書きたいと思っています。


 なお、漫画評論家の夏目房之介も著書の中で、この雑誌の同じ号に触れたことがあり、「この特集では車内でマンガを読む日本人驚く欧米人の写真がタイトルに大きく使われ、外国人の反応を印象づけている」と書いています。[4]


 ただし、この「Newsweek 日本版」も漫画批判一辺倒というわけではなかったようです。

 『カムイ外伝』(これは1987年にビズが出版したものですね)のリライターの青年の「問題は、なぜ日本人がこれほどマンガを読むのかということではない。むしろ、ほかの国の人々がなぜ読まないのかということだ」という発言や、日本の衆議院議員秘書をしているアメリカ青年の「マンガが日本でこれほど読まれているからといって、日本人が変わっていると考えるのはおかしい。単に、日本のマンガが面白いだけの話だと思う」という言葉も載せられていました。[2]

 主張としては、朝日新聞の社説を先取りしている感もあります。


 とにかく「Newsweek 日本版」のこの号も両論併記ではあるのです。朝日の社説もそうでしたが、80年代末には漫画擁護派も批判派もそれぞれ力を持っていて、大手のメディアでは両論併記するくらいが無難な位置、というのが社会の空気だったと言えるかもしれません。そして、それが1989年あたりを転換点に、擁護派の方が強くなっていったような印象があります。


 これまで述べてきたように、日本の漫画の独自性や質の高さを語る論者は、決まって少女漫画や女性漫画家の作品が持ち出してきました。関川夏央もまた、以下のように女性漫画家の作品を挙げて論じています。[2]


>>また第二次大戦後四十年間にきわめて多量に表現の消費と蓄積をともに行ってきたマンガは、いまや独特のジャンルとして定着し、かつ文学的なよそおいをほぼ脱ぎ捨てるまでに成長したものも出現しはじめている。この稿で取り上げる内田春菊の作品など、あきらかにそのひとつとして数えることができるし、大島弓子、吉田秋生らの作品も、「まるで得体が知れない」が「魅力に満ち」同時に「豊かな表現力と伝達力を内包した」作品として、いまわたしたちの前にある。それらは近代文学とも、もはや映画とさえ縁が薄い。しいていうなら、これらのマンガは古典的な意味あいマンガでのマンガそのものの嫡子、または私生児である。<<

>>彼らは生まれながらにしてすでに独特であり、彼らの作品は活字的教養による微分をあらかじめ許容していない。<<


 ここでは、日本の漫画はもはや“漫画なのに文学的だからすごい”という類の論法さえ必要としておらず、文学の権威など持ち出さなくても漫画は漫画としてすごいのだと語っています。


 ちなみに、芸術や文学などの権威を借りることは拒絶し、漫画は漫画として独自の価値を確立すればいいという議論は、日本では以前からあります。例えば、1968年に詩人の天沢退二郎が、つげ義春の漫画『ねじ式』を「芸術」という言葉を使って評価したのに対して、反発の声が上がるということがありました。[5]

 第九の芸術として漫画(バンド・デシネ)を位置づけようとしたフランスや、「コミック」より重みのある呼称として「グラフィック・ノベル」が使われることがある米国と比べて、芸術や文学と距離を置きながらも、それなりに社会に存在を認めさせてしまっていることも日本の漫画の特徴でしょう。


 それでは当時、関川夏央はどれくらい海外の漫画について認識していたのでしょうか。

 関川夏央は、漫画家の谷口ジローとのコンビで漫画原作の仕事もしています。谷口ジローと言えば、日本では『孤独のグルメ』(原作:久住昌之)の作画を担当した漫画家として有名かもしれませんが、ヨーロッパでは非常に高い評価を得ている作家です。

 『谷口ジロー 描く喜び』の略年譜によると、谷口ジローは1974年頃にバンド・デシネ作家メビウスの作品と出会ったとあります。この本には関川夏央の文章も載っていますが、それには以下のような記述があります。[6]


>>一九八二年、ヨーロッパに行ったとき、私は谷口ジローに頼まれたフランスのマンガ「バンド・デシネ」をたくさん買ってきた。フランスのマンガは絵は巧みだが、原則として「コマ割り」をしないから「絵物語」に似て、日本のマンガのような動きがない。谷口は大いに喜んだ。<<


 どの程度か分かりませんが、谷口ジローの影響で関川もフランスのバンド・デシネに接触していたものの、あまり評価はしていなかった様子です。


 その後、1990年に谷口ジローと関川夏央との共作『海景酒店』が米国で出版されました。手掛けた出版社はビズで、形式はグラフィック・ノベル(書籍扱いの単行本)として刊行されています。これがおそらく初の海外進出で、時期としては関川の「諸君!」での連載期間と重なっています。


 1995年には、谷口ジローの『歩く人』のフランス語訳が出て、以後、谷口はヨーロッパでの評価が高まっていきました。2001年にフランスのアングレーム国際漫画祭で『父の暦』がキリスト教漫画審査会賞を受賞したのを皮切りに、00年代に谷口ジローはフランス、イタリア、スペインなどの漫画賞を次々に受賞していきます。その中には、関川夏央との共作による作品も含まれています。

 そして2011年、谷口ジローはフランス芸術文化勲章シュヴァリエを受章しました。ちなみに、日本人の漫画・アニメ・ゲーム関係者では、宮本茂、松本零士、鳥山明、永井豪がシュヴァリエ、大友克洋、高畑勲がオフィシエとして、この勲章を受章しています。なお、シュヴァリエ(騎士)よりオフィシエ(将校)の方がランクが上という違いがあるようです。


 谷口ジローの作品は、1992年に短編「犬を飼う」が小学館漫画賞審査員特別賞、1993年に関川との共作「『坊ちゃん』の時代」が日本漫画家協会賞優秀賞、1998年には同作が手塚治虫文化賞マンガ大賞、1999年に「遥かな町へ」が文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞しています。海外で賞を取る以前の90年代に国内でこれだけ賞を取っているわけで、谷口ジローは海外で評価されているが日本では評価されていないというわけではありません。(残念ながら、それがあまり知られていないとは言えるでしょうけど。)


 * * * * *


 一方、日本のアニメはすごいという言説が一般化するのは、漫画と比べると遅かったようです。漫画は大人も電車の中で読んでいたのに対して、テレビアニメは子供番組という扱いでしたし、80年代に現れたOVAもごく一部のオタクのためのもので一般の人の目にはほとんど触れない存在でした。

 そのアニメに関して、手塚の亡くなる前年の1988年12月に関川夏央は以下のような文章を書いています。[2]


>>『ルパン三世・カリオストロの城』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』そして『となりのトトロ』まで、宮崎駿は世界最高水準の日本のアニメーションの、さらに最高の稜線を歩みつづけている。能や歌舞伎だけが輸出可能な芸術ではない。宮崎作品こそ日本文化の果実であると認識して、はじめてわたしたちは拝金教徒にあらずと口に出せるのである。<<


 関川は、日本のアニメーションを「世界最高水準」、海外に「輸出可能な芸術」だと評し、宮崎駿の作品は「日本文化の果実」だと称賛しています。

 ただし、この頃に輸出されていた日本のテレビアニメを海外で観ていたのは子供とごく一部のマニアだけです。したがって日本のアニメが世界最高水準だというような評価は、国内でも海外でもまったく一般的なものではありませんでした。この記事の書かれた時点で米国で公開されていた宮崎アニメは『風の谷のナウシカ』だけ。それもひどく改変されたもので、一般には大して評価もされていません。

 ただし80年代はディズニーアニメの低迷期でもあったので、「世界最高」という言葉も使いやすかったのかも知れません。ディズニーが復活するのは、1989年11月公開の『リトル・マーメイド』からと言われます(日本公開は1991年)。


 1988年4月公開の『となりのトトロ』は興行収入の面ではあまり成功していません。しかし批評家などからは高く評価する声も上がっており、1989年4月のテレビ初放映では20%を超える視聴率を獲得しています。そして、1989年7月に公開された『魔女の宅急便』は、興行成績第3位(邦画では第1位)の大ヒットになりました。


 この89年頃を転換点にジブリ作品は、国民的アニメとなっていくのです。世界に誇る日本のアニメという言説が広がりはじめるのもこの頃からで、宮崎駿作品の知名度が上がっていった影響は大きかったと思います。


 ここで「わたしたちは拝金教徒にあらず」なんて言葉が出てくるのは、当時がバブル経済の最中だったからですね。バブル期は1986年末から1991年までとされています。ただ、バブル時代の象徴として語られるディスコ「ジュリアナ東京」の営業は、1991年に始まり1994年に終わりました。そうすると、国民の意識としてのバブル期の終わりは1991年より多少、後にずれ込むとも考えられます。

 いずれにせよ、朝日新聞の社説も関川夏央の言説もバブル時代のものです。海外の論者がしばしば語るように、バブル後の不景気の影響で日本漫画アニメの優越論が出てきたわけではないのです。


 それにしても1989年は、漫画やアニメに関しては色々な意味で転換点になった年でした。手塚治虫が亡くなった年であり、米国で『AKIRA』が公開されて「ジャパニメーション」が認知され始める年でもあり、ジブリアニメが国内で大ヒットし始めた年でもあり、世界的に見ればディズニーが復活して米国のアニメが活発化し始める年でもありました。

 そしてこの年、連続幼女誘拐殺人事件の容疑者として宮崎勤が逮捕されたことも少なからぬ影響を与えていくことになります。


(つづく)



【文中で言及した人物の生年】

 手塚治虫、1928年生。

 関川夏央、1949年生。

 谷口ジロー、1947年生。

 夏目房之介、1950年生。

 天沢退二郎、1936年生。

 つげ義春、1937年生。


[1]「朝日新聞」1989年2月10日朝刊

[2]関川夏央『知識的大衆諸君、これもマンガだ』文藝春秋、1991年

[3]手塚治虫『手塚治虫とっておきの話』新日本出版社、1990年

[4]夏目房之介『マンガ 世界 戦略 カモネギ化するかマンガ産業』小学館、2001年

[5]石子順造『戦後マンガ史ノート』紀伊國屋新書、1994年(オリジナルは1975年)

[6]コロナ・ブックス編集部[編]『谷口ジロー 描くよろこび』平凡社、2018年

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