【1980年代 (4)】ファンダムの展開とファンサブ

 1970年代後半に現れた日本製アニメのファンダム(ファン社会、ファン文化)の、その後の展開を見てみましょう。

 以下で「アニメファン」という言葉は、テレビでアニメを観ているだけの子供たちは含まず、もっとマニアックな層を指して使います。「アニメオタク」と言ってもいいかもしれませんが、米国でオタクという言葉が使われるようになるのは90年代からなので、まだ使わないでおきます。


 1977年に設立されたロサンジェルスのアニメクラブ「カートゥーン・ファンタジー・ネットワーク」ですが、その後、東海岸を含む米国中に支部を広げていきます。「最盛期には北米全体で三ダース以上の支部が生まれた」ということです。[1]


 また80年代後半から90年代にかけて、大学のアニメクラブが増加していきます。これは、子供の頃にテレビで日本のアニメを観ていた世代が、成長して大学に入学してきたためです。[2]

 なお、少し時代がズレますが『現代日本のアニメ』の著者で研究者のスーザン・ネイピアの1990年代末の調査によると、大学のアニメクラブは外部のメンバーも受け入れており、テキサス大学のアニメクラブではメンバーの約4割は大学生ではないとのことです。[3]

 80年代の大学のアニメクラブでも、メンバーに大学の外部からの参加者が混じっていたかもしれません。


 米国のアニメファンは低年齢化の方向で拡大していき、やがて高校にもアニメクラブが作られるようになります。その時期ははっきりわかりませんが、日本のアニメが入手しやすくなってからということなので90年代以降だと思います。80年代だと英訳されていない日本語のアニメを観ることになるので、高校生にはちょっと厳しい。

 三原龍太郎は、90年代後半に米国の高校(おそらく西海岸)のアニメーション同好会で『マクロスプラス』の英語吹き替え版を観たと書いているので、その頃には高校のアニメクラブは存在していたことになります。[4]


 1980年代には、日本製アニメのビデオなどほぼ売られていないも同然で、入手困難でした。そこでまず日本のアニメを観られるようにするのがアニメクラブの第一の目的となります。

 アニメクラブでは米国で放映されていない日本アニメを入手して上映会を開いていたのですが、それは、日本人の知人に送ってもらったもの、カリフォルニアにある日本のビデオを扱うレンタルショップから入手(おそらく勝手にダビング)したもの、西海岸やハワイなどの日系人向けのローカル放送を録画したもの、日本に駐留していた軍人(!)が持ち帰ったものなどでした。[2]


 初期のアニメファンダムについて調べていると、意外な感じがしますが軍人のアニメファンがしばしば登場します。フレデリック・ショットの『ニッポンマンガ論』には、日本のコミケに参加して同人誌を売り、コミックマーケット準備会のスタッフまでやっている米国海軍将校が登場しますし、米国のコンベンションで見かける職種として米国軍人を挙げています。[5]

 また、『ル・オタク フランスおたく物語』の著者の清谷信一は、「只で日本に行けるというので軍隊に志願したオタクも結構いるそうだ」と書いています。[6]


 このようなビデオテープのやりとりが可能だったのは、日米両国の家庭用ビデオの普及が早かったおかげでもあります。また日本と米国で、テレビ放送(アナログ)の規格が同じNTSC方式だったのもアニメファンにとっては幸いでした。ヨーロッパでは規格が違うため、日本のビデオテープを持ち込んでもそのままでは観ることができず、NTSC方式に対応した機材を買わなければなりませんでした。[6]


 そうして入手した日本のアニメには当然吹き替えも字幕もないわけですが、アニメクラブには日本語ができる者がいました。

 80年代といえば日米貿易摩擦、そしてバブル経済の時期でした。米国では日本脅威論が叫ばれる一方で、日本のことを学んぶべきだという考えも高まっていました。学生が日本語を学べる機会は増えていたと思われます。


 とは言ってもやはり日本語のできないメンバーの方が多かったので、日本語のわかる者がストーリーを説明するか、あらすじを書き起こしたものを見て話を理解していました。

 あいにくそうした助けが得られない場合は、とにかく映像を観てセリフの意味を想像するという涙ぐましい努力をしながら視聴していたそうです。フレデリック・ショットによると、漫画の場合、日本の漫画特有の「文法」を知らないと理解が難しいのに対して、アニメの場合は言葉がわからなくてもストーリーを理解するのは比較的容易なのだ、といいます。[5]


 しかし言葉がわからないのを想像で補うといっても限度があります。

 米国版『ダーティペア』(原作は高千穂遙のSF小説)のコミックというのがあって、日本側の許可を取って刊行されているんですが、内容は原作ともアニメ版とも関係ない米国オリジナルのストーリーになってます。

 米国版の作者アダム・ウォーレンによると、「85年頃、僕が初めて観た『ダーティペア』のアニメには英語がついていなかった。だから僕は動きと声優の声だけで二人のキャラを推測したんだ。何年も経ってから英訳されたアニメを観たら実際のキャラクターは僕の想像とは全然違ってた」ということなので、やはり言葉の壁というのは厚いのです。ところが、「でも、僕は自分のカン違い理解でコミックを描き始めた」というから凄い。[7]

 米国コミック版は、原作とストーリーが違うだけじゃなくてキャラクターの性格まで違うんです。もう、空想の中で膨らんだ“自分のキャラ”になっちゃってるんでしょうね。


 さて、当時の米国のアニメファンの活動内容はどうだったのでしょうか。

 パトリック・マシアスは、若い世代が日本のファンを真似て「ドージンシ」を作ったり「コスプレ」をしたりするようになったのと比べて、「僕らの世代のアニメファンはただ日がな一日ダラダラとビデオを見てるだけだった」と書いています。[7]


 その頃は日本のアニメを観るというだけで大変で、特別な体験だったということはあるでしょう。ただし実際には、単にアニメを観るだけではなくいろいろな活動も行なっていました。日本語ができる者は翻訳をしましたし、そうでなくてもアニメのレビューを書いたりしていました。

 日本のいわゆる「同人誌」のような二次創作の漫画はまだなかったようですが、ファンジンという自主制作の雑誌は作られていました。カナダでは「プロトカルチャー・アディクツ」という『ロボテック』のファンジンが1987年に創刊され、後には商業誌に発展しています。

 またアニメのコスプレはそれほど一般的ではなかったかもしれませんが、80年代にも行われていたようです。


 手に入れたビデオのダビングもアニメクラブで行われていました。アニメ関係の翻訳、レビューなどは、初期には紙媒体でコピーされ、ビデオテープとともに郵送で各地の同好の士とやり取りされました。

 このようなビデオテープ等の交換を通して、ファン同士のネットワークが形成・拡大していったのです。


 初めは郵便だけが遠距離の情報交換の手段でしたが、パソコン通信(インターネットではなく)のサービスが始まると、交流の場として利用するアニメファンもいました。

 パソコン通信サービスの「コンピュサーヴ」で日本のアニメ・マンガのフォーラムが開設されたのは1988年頃でした。「Genie」でも同じ頃に開設されています。[5]

 ただし、長距離の電話料金が高かったため、それほど広くは使われなかったようです。[2]

 日本でパソコン通信のニフティサーブやアスキーネットが運用開始したのも80年代後半です。ただしパソコン通信がよく使われていたのは90年代までで、その後、インターネットの利用が普及していくとパソコン通信の利用者は減少していきました。


 また米国のファン文化には、ファンが集まって行うコンベンションというイベントがあります。企業主催ではなくファンが自主的に運営することが多いようです。創作物の頒布が中心になるコミケのような同人誌即売会とはまた違うもので、SFファンが開催している「日本SF大会」が米国でいうコンベンションに当たります。

 規模はいろいろですが、ホテルなどを借り切って、週末をはさんで2〜4日間に渡って開催されたりします。


 80年代の米国で、日本アニメファンダムはまだ単独でコンベンションを開くほどの勢力はありませんでした。

 しかし、コミックブック(アメコミ)やSFのコンベンションでは、日本製アニメのファンが集まって、ホテルの一室でアニメの上映会を(コンベンションの正規の企画ではないのに)勝手に行っていました。上映されるアニメには吹き替えも字幕もないこともあり、そういうときはあらすじの書かれたプリントが配布されました。[2]

 また、筋を知っている者が口頭で説明することもあったようです。

 80年代も後半になると、サンフランシスコで開催されるSFコンベンション「Baycon」では、日本のアニメの上映会がイベントの公式企画に組み込まれるなど存在感を増しています。[2]

 しかし日本製アニメ専門のコンベンションが開催されるのは90年代を待たなければなりません。


 80年代後半、技術の一般化によってアマチュアでもビデオに字幕をつけることができるようになると、いわゆる「ファンサブ」(fan subtitling)すなわちファンによる字幕(subtitle)の作成が、大学のアニメクラブなどで行われるようになります。[8]

 それまでの原始的な方法と比べるとファンサブは画期的な技術です。そして、インターネット上にアニメがアップロードされることがまだなかった当時、大学のアニメクラブはファンサブ付きの日本の最新アニメが観られる主要な場でした。

 ファンサブ付きのビデオテープはダビングされて、ファンの間に広まっていきました。もちろん、無許諾翻訳・無許諾複製は著作権侵害ですが、フレデリック・ショットが言うように「アニメ(やマンガ)が人気を得たのは、これら海賊版のビデオを使ってファンが英語の字幕を入れたりコピーをしたからこそだというのは、動かせない事実だった」[5]と考える人は少なくないようです。


 ファンサブ付きビデオによって日本のアニメの修正前の姿が知られるようになると、今まで米国放映版の吹き替えで失われたものロスト・イン・トランスレーションに気付く人が増えてきます。

 ひとつはストーリーの改変です。元の作品にあった複雑さが米国版では削られて単純化されていることを知ったファンは、オリジナルに忠実な翻訳を求めるようになっていきます。なかには改変は絶対に許さないという強硬派も出てきます。

 二つ目は、米国版で削られていた暴力とセックスの要素です。若い男性が多かった当時の米国のファンは、これに強く惹きつけられました。日本のアニメにはスゴイのがあるという認識が生じて、90年代にはいわゆる「触手もの」に代表されるようなポルノアニメにファンが飛びついていくことになります。

 そして三つ目は、テレビでやっている吹き替えアニメだけを見ていては決してわからない日本独特の声優文化です。これ以降、米国にも声優ファンが生まれてきます。『ロボテック』の熱心なファンは、『マクロス』のファンサブ版を観てリン・ミンメイ役の飯島真理を知り彼女のファンになっていったとパトリック・マシアスは書いています。[5]


 最後に断っておくと、80年代の米国の日本アニメファンの数は米国全体から見たらごくわずかな割合にすぎません。アニメクラブでの上映会や愛好家の間のビデオテープのやり取りなどは、商業的な流通と比べればごく小さなものでした。

 それが90年代以降になると、日本製アニメのビデオを普通に店で買ったりレンタルしたりできるようになり、ファンもそれなりに増えていきます。



[1]草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店、2003年

[2]ローレンス・エング「ネットワーク文化としてのファンダム・イン・アメリカ」、宮台真司[監修]、辻泉/岡部大介/伊藤瑞子[編]『オタク的想像力のリミット <歴史・空間・交流>から問う』筑摩書房、2014年

[3]スーザン・J・ネイピア[著]、神山京子[訳]『現代日本のアニメ 『AKIRA』から『千と千尋の神隠し』まで』中央公論新社、2002年(原著は2000年)

[4]三原龍太郎『クールジャパンはなぜ嫌われるのか』中公新書ラクレ、2014年

[5]フレデリック・L・ショット[著]、樋口あやこ[訳]『ニッポンマンガ論 日本マンガにはまったアメリカ人の熱血マンガ論』マール社、1998年(原著1996年)

[6]清谷信一『ル・オタク フランスおたく物語』講談社文庫、2009年(オリジナルは『Le OTAKU フランスおたく事情』KKベストセラーズ、1998年)

[7]パトリック・マシアス著、町山智浩編・訳『オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史』太田出版、2006年

[8]伊藤端子「制作者 vs 消費者のあくなきせめぎあい ファンサブ文化にみる『ハイブリッドモデル』」、宮台真司[監修]、辻泉/岡部大介/伊藤瑞子[編]『オタク的想像力のリミット <歴史・空間・交流>から問う』筑摩書房、2014年

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