断章Σ 虚数推理

 夢と希望を描くアニメの二次創作で、陰惨な殺人事件を書く。

 思えば膠は最初から一貫していた。

 無論、気を遣うところにはきちんと気を遣ってはいた。アニメの登場人物は決して殺さない。彼女たちはあくまで探偵役あるいは容疑者で、死体役はアニメには登場しないオリジナルキャラクターがあてがわれる。

「死ネタ」が嫌われるという風土を理解し、その上で凄まじく惨たらしい事件と、それに介入することになるキャラクターたちの活躍を魅せる。

 櫟はそれを可能にする技巧にばかり目を奪われていた。櫟の書くものはどちらかといえば「日常の謎」に近いものだったからだ。同種の「狂人」として、膠には一目も二目も置いていた。

 彼女の読者たちも、きっとその絵面の凶悪さばかりに目を奪われていたに違いない。ファンシーな原作から出力される二次創作がこれかという、ある種のおかしさに。だから「狂人」のレッテルも称賛と畏怖でしかなく、誰も膠の本質には目を向けていなかった。

 今の櫟にならわかる。膠は、根底から狂人であったと。

 三日前、膠に逮捕状が下りた。

 陵殺しの犯人として、警察は彼女を捕らえた。

 わけが、わからない。

 櫟と膠が殺人には関与していないと、あらゆる物証が証明していた。二人は重要参考人として警察署に呼ばれこそすれ、容疑者へと格上げされることはありえないはずだった。

 だが、膠は捕まった。

 自首でもない。自白を強要されたわけでもない。膠はそんな単純な破滅を選ばない。

 証拠が必要十分に揃ったからこそ、膠は逮捕された。それ以外に考えようがない。

 加えて奇妙なことに、膠の逮捕前後から、櫟に対する事情聴取がぴたりとやんだ。

 まさか――と思ってしまう。

 櫟を解放するために、膠がなんらかの取引に応じたのではないか。

 膠は櫟を道連れにはしないと宣った。そのために自分がありもしない罪をかぶり、その代わりに櫟に累が及ばないように取り計らったのだとしたら――。

 ありえないと笑ってしまう。

 膠にとって、櫟にそんな価値はない。道連れにしないというのは、死ぬ時は一人で死にたいというだけの、ある種の決別だ。櫟は膠と一緒に死ねるだけの価値もないのだと告げられた。だからあの時、自分と膠の間に大きな距離を感じて一人で泣いていた。

 それを理解しているからこそ、この状況の異常性にいやでも気がついてしまう。

 たとえ膠が嘘の自白をしたとしても、その裏取りに必ず櫟の証言も必要になる。だが櫟は一度たりとも、自身と膠が不利になるような証言はしていない。それどころかあらゆる関与を否定し続けてきた。決して声高に膠の無実を主張したりはしなかったが、彼女を陥れるような発言は断じてしていない。

 そもそも二人はほぼ同時に事件現場に足を踏み入れた。櫟が無実を主張することは、そのまま膠の無実も主張していることにほかならない。

 だというのに、なぜか膠だけが逮捕され、ほぼ同じ立場の櫟にはなんの音沙汰もなくなっている。

 十五分です――そう言われて留置場の面会室に入ると、アクリル板越しに膠が手を振っていた。

 結局、直接相手に聞くしかない。櫟はそう判断した。

 弁護士を雇えば面会時間の制限も警官の立ち会いもなくなるが、櫟にそんな余裕はなかった。一刻も早く、膠に会いたかった。

 それにおそらく――警官に立ち会われるより、事情を弁護士に話して立ち会われるほうが、都合が悪いだろうともわかっていた。

「時間がないから単刀直入に聞く。なにがあった?」

 これで大丈夫――大丈夫なはずだ。二人の間で言語は極限まで削ぎ落とされても通用する。ずっとそうした間柄だった。

「探偵」

 膠は笑顔でそれだけを呟いた。

 駄目だった。わからない。

「誰」

「我々は彼女から逃げられない」

 くつくつと笑っていた膠は、そこでふと差し迫った表情へと変わり、櫟の名前――ハンドルネームを呼んだ。

「いい? トイチちゃん、これは、仕方がないこと。私が結末を望んだから、こうやってケリがつけられた。少なくともこの事件は、私が犯人として終結する。でも、気付いちゃった。それで終わるはずがない。トイチちゃんでもフォウマさんでも、誰でもいい。お願いだから、あれの続きを書き続けて。そうしなければ、逃げ続けなければ、彼女は全てを終わらせてしまう」

「――わかるように、話して」

 お願いだから――泣き崩れそうになる櫟を、膠は憮然と見つめていた。

 わからない。なにもわからない。膠の言葉を、櫟は端から理解できていなかったのではないかとさえ思ってしまう。彼女の狂った戯言に、櫟が勝手に意味をつけて読み取った気になっていただけだったのだとしても、もう驚かない。

「私から説明しましょう」

 面会室に静かに現れた少女を見た瞬間、櫟はそのあまりの美しさに言葉を失った。

 待て――少女の美貌に見惚れてしまいそうになる魂を強引に矯正する。

 この状況は、異常だ。

 櫟は膠との面会を求め、現在面会時間中である。その場に突然、第三者が颯爽と登場することは、絶対にありえない。

 そしてそれを立ち会っている警官が咎める様子もない――ならば彼女は警察官なのか――いや絶対に違う。制服は制服でも、着ているのは学生の制服――セーラー服。外見は見紛うことなく少女だが、超然とした立ち振る舞い。それを打ち消すように否応なく学生だとわからせるための記号としてのセーラー服。

 あまりに異常な存在だった。その異様な美しさにわずかでも囚われれば完全に言いなりとなってしまいそうな危機感と期待感で、櫟の内側はじりじりと焼かれていた。

「トイチちゃん、逃げたほうがいい」

 膠が掠れた声で告げる。理解が及ぶはずの膠の声が遠い。櫟の目と耳の受容感覚が、全て少女へと吸い上げられていくかのようだった。

「私はこの事件を終わらせるためにやってきた、そう」

 探偵です――少女の言葉は、なんの違和感もなく櫟の中にしみ込んでくる。

すうと申します。皆さん以後お見知りおきを」

 探偵――数は立ち会いの警官ににっこりと微笑みかける。警官は数の美貌に顔を赤くして、何事か告げられると頷いて面会室を出ていった。

 警察にも発言力を発揮する探偵など存在しない――はずだ。たとえ数が警察トップ官僚の親族だとしても、一警察官にここまでの強権を発動することはありえない。

「あなたは、弁護士ですか」

 だから櫟は少しでも可能性のある方向に発言を寄せる。弁護士立ち会いのもとならば、面会の時間制限は大きく緩和される。だから数が言葉通りの探偵で、さらに弁護士の資格を持ち、こんな超法規的暴挙に出られるだけの力を持っていると仮定――することのなんという馬鹿らしさ。

「そうですね。あまりに馬鹿らしい」

 櫟はびくりと身体を震わせる。櫟の思考を読んだかのような、意図そのままの返答。

 彼女が着ているセーラー服はいやというほどその身に馴染んでいる。コスプレを目にする機会の多い櫟には、その真贋など即座にわかってしまう。だから数は、まず第一に高校生――あるいは中学生の身分であることは疑いようがない。

「真っ当さは毒ですよ。特に私に対してはね。年齢、法律制度、警察機構、そんなものに気を配っているようでは、ろくなものは書けません」

 なぜなら――

「私は探偵ですから」

 納得してしまっている自分の正気を疑う。「探偵」のひとことであらゆる煩雑さを取り払ってしまうような人間が存在するわけがないとわかっているのに、彼女の声で堂々と宣言されると、そういうものかと腑に落ちてしまう。

「私の推理を警察に話したところ、膠さんはすんなりと逮捕されました」

 そうだろうな、とまた納得。数の言葉に間違いなどありえない――。

「トイチちゃん!」

 ドンドンと激しい音が響いていることに気付き、櫟ははっと膠へと目を向ける。

 膠は立ち会いの警官がいなくなったのをいいことに、面会室を隔てるアクリル板を思いきり叩き続けていた。

「私はこれでいい。これで満足。これでお役御免。でも、トイチちゃんには、私の言葉を、信じてほしい」

「――わかんない」

 アクリル越しに膠と手を合わせた櫟は、己の無力と無知を吐露する。

「それでいい。わかったら駄目。じゃあ、さっき言ったことを繰り返す」

 膠はきっと数を睨み、叫ぶ。

「逃げろ!」

 櫟はその声とともに駆け出した。

 警察署の中を駆けていく櫟に気を払う者はいない。

 なあんだ――櫟は笑っていた。

 世界はとっくに発狂しているんじゃないか。

 膠は間違いなく狂人だった。この発狂した世界の中で、ひとりだけ正気を貫いていれば、彼女は疑いようなく狂人である。根底が狂っているのなら、狂っているのがまともで、狂っていない者だけが狂人の名誉を授かる。

 ――我々は彼女から逃げられない。

 ――逃げろ!

 ありがとう、悲しいけれど、道連れにしてくれなくて。

「逃げてやる」

 狂ったように笑声をまき散らしながら、櫟は膠の言葉を真に受けた。

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