断章Ω 酔夢する男

「お願い、殺さないで!」

「駄目に決まってるでしょ。黙って殺されなさいよ」

 櫟がそう告げると、陵はがっくりと肩を落とした。

「そっかー」

「ご愁傷様です。私を殺してもいいから、気を落とさぬよう」

 陵はけらけらと笑って、店員にビールのおかわりを注文する。

 文芸サークルと言えば聞こえはいいが、要は単なる飲みサークルだ。それはこの大学において、ほかの大義名分を掲げるサークルにも同じことが言えた。一応は半年に一冊部誌を出すというノルマは課されているが、締め切りが目の前に迫るまではこうして毎日のように飲み屋や下宿で酒を飲む。

 まあいいか、というのが櫟の感想だった。馬鹿みたいに意識の高い連中が素っ頓狂な文学論議に花を咲かすより、よっぽど建設的な日常ではあった。

 しかし文芸サークルを名乗る以上、メンバーは一応は小説に慣れ親しんできた者たちではあった。その精神の柔らかい無垢な部分を突っつくかのように、ある日サークルのファイル共有サイトに、サイズの小さな小説が投下されていた。

 それはサークルのメンバーの実名を使った、なんだかよくわからない小説の一章であった。ファイル作成者はご丁寧に捨てアカウントを使っており、誰が書いたのかもわからない。

 すると翌日、膠が同じ手法で書かれた、全く趣きの異なる一章を投稿した。

 膠はサークルの全員が一目を置く実力者であったが、あまりの遅筆とやる気のなさから締め切り前には毎回死人のような有様になってしまう。その膠がたった一日で一章分とはいえ新作を上げた――その事実は作者不明の実名小説の投稿よりも大きな衝撃をメンバーに与えた。

 これは――面白い。膠が乗り気になったことで、サークルメンバーは次々に思い思いの実名小説を投稿し始めた。

 そして今日、櫟もようやく書き上げた章を共有サイトに投げた。飲み会の日程が重なったのは偶然だったが、遅かれ早かれ陵に文句を言われるのはわかっていたので、酒が入るだけ好都合だった。

「しかし陵、そう落ち込むこともないんじゃないかね?」

 こっそりと持ち込んだウォッカの入ったスキットルを勢いよく傾け、よもぎがにやにやと薄ら笑いを浮かべる。

「櫟の書いた章は、最後に陵の部屋で、櫟と膠の二人が死体を見つけたところで終わる。つまりは、死体が陵であったかはまだ確定していないのだよ」

「いや、死体は陵だけど」

 櫟が真顔で言い返すと、蓬は挑発するように喉を鳴らす。

「いかんなあ、櫟。君はあそこで書くのをやめた。続きはまだ書いていないのだろう?」

「まあそうなんだけどね。この悪ノリの趣旨に反するから、続きのプロットも切ってない。でもそれはみんなそうなんじゃないの? 一人だけ結末までのプロットを建ててるやつがいたら、興ざめもいいとこでしょうよ」

「左様。だから誰もが前後のつながりもない、支離滅裂な話を平気な顔で書いている。私などは一体何度作中で殺されたか!」

「蓬は死体役似合うもんなあ」

 陵が言うと、蓬は無論承知していると感慨深く頷き、互いに笑い合う。もったいぶった口調と裏腹に蓬は驚くほど気安く、それが死体役としての人気に拍車をかけるのだろう。

「私の死体の山は置いておくとしてだ、陵もその葬列に加えるのは尚早だろう。いいかね櫟、作者は驕ることなかれ、だ。君が頭の中で陵の部屋で見つかった死体が陵であると設定していようと、それはまだこの世界に1バイトも出力されてはいないのだよ」

「いま言ったでしょうよ」

「私は小説の話をしているのだ」

 それで櫟も爆笑した。蓬は大真面目なトーンで平然とボケてくる。しかも当人はそれを計算ずくで、今も櫟が笑い転げるの見てしてやったりの顔をしている。

「いやいや、これは実際本当の話なのだ。いくら櫟が口頭で死体が陵だと述懐しようと、それを小説という形で出力しない限り、あの章の真相は誰にもわからず、推理するほかないというのは厳然たる事実であろうよ。そして櫟、君は自分の脳をあまり信用してはならんよ」

 長々と弁舌をふるいながらも、蓬は櫟と一緒になって笑っていた。これだけ笑いながら真剣ぶった話をするものだから、一層おかしくなって櫟はもとより蓬までも喋りながら爆笑の渦に呑まれていく。

「いいか、実際に小説として出力するまで、その作品の内容は作者すらあずかり知らぬのだ。プロットを綿密に組もうと、その場の思いつきで書き散らかそうと、この本質は全く不変のものなのだよ。徹頭徹尾書いたものが思い通りになると信ずるのは、幼稚な驕りでしかない。つまり、いま現在櫟があの死体を陵だと設定していようと、いざ続きを書く際になったらころっと設定が変わってしまっている可能性はいくらでもあるのだよ。それも含めて、私はあの死体が陵ではないと推理しているのだ」

「推理じゃない。誘導じゃないの」

「左様」

 ひときわ大きく声を上げ、櫟と蓬は互いの顔を指さして涙が出るまで笑った。

「いやしかし、未完成原稿推理――とでも名付けようか。これが案外面白いのはいま言った通りではないかね。インターネットの投稿サイトで書いているような連中は、読者の感想を受けて展開を変える者までいるというじゃないか。ああしたサイトでミステリが隆盛の兆しすら見せないのはまっこと妥当なものだと思うが、もしものことを考えるとなかなかぞっとするだろう」

 やっと笑いが収まると、蓬はスキットルを真上に向けて最後の一滴を飲み干して、落ち着いた声音でそう話し始めた。蓬のことだからいつぶっこんでくるか油断はならないが、日ごろから小説投稿サイトにいい感情を持っていないことは知っていたので、一応真面目に聞くふりをする。

「読者が作者よりも作品の決定権を強く持つ――そんな馬鹿げた界隈があるのなら、是非とも参加してみたいものだ。作者が放り投げた未完成原稿――そう、推理に必要なヒントなどかけらも出揃っていないものだ――をもとに、読者が推理を繰り広げる。これはまあ、地獄絵図であろうよ。だが面白いのだ。そうだろう? 櫟」

「まあね」

 櫟は確かに、蓬の言う「未完成原稿推理」――要は誘導を受けて、もしあの続きを書くのなら死体を陵のままにしておくべきかと悩み始めている。いわば作品の場外での腹の探り合い――作者と読者の推理合戦である。恐ろしく程度と段階の低い、まさしく地獄絵図であるのは間違いない。

「そして逆もまた真なりという場合もある。つまり、作者の考えていたトリックや、まだ開示すらしていない情報が、読者に言い当てられた場合だ。そう、読者は恐ろしいのだ。下手な鉄砲数うちゃ当たるというのはまさにその通りで、毎日数百――数十でも読者が殺到し、論理も根拠も読解力もない無為な推理を繰り広げれば、当たらないほうがおかしいのだよ。すると作者はどうするか。当たっていないほうへと舵を切るしかないのだ。作者は誰にも解けない謎を生み出すために、自分から作品を否定し続ける。これは作者が読者よりも上位の存在だという驕りから生じるが、ようく考えれば実質の決定権は読者のほうが強いことになってしまっているではないか!」

 陵が苦笑しながら視線を投げてくる。櫟は同じく苦笑で頷き、蓬が相当酔っている事実を把握した。

「だから私は書いたものをネットに上げたりはしない。そうだとも。いくら書いてもなんの反応も得られないのだから、これももしもの悪夢という夢物語なのだよ。だが私はそんな地獄が見てみたい。夢でも、小説上でも構わない。ああ、夢が迎えにきた。それとも小説だろうか」

 最後のほうは半分寝言だった。蓬は居酒屋の座敷でいびきをかきながら寝入ってしまった。

 閉店時間になってもまだ眠っている蓬を起こそうと身体に触れると、櫟は悲鳴を上げた。蓬の身体はすっかり冷たくなっており、二度と目覚めることはなかった。

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