第七章 意義

 ヴェレンス一行とグリスの会合から二日が経ち、ハイドアウト平原にはヴェレンス率いる中央管理軍二百名と、グリス率いるシーヴォリー王立国境団三千名の軍勢が野営地を築いていた。これだけの軍勢が国境沿いに集結してしまえば、自然と隣国のフィッチマン帝国との緊張は高まるはずだったが、グリスの母、セレス=シルヴォリアが橋渡し役として出国し、フィッチマン帝国に牽制の動きは見えなかった。

 陣頭に立つヴェレンスが、グリスへと顔を向ける。

「本来ならば私が出向く所だが、株を奪われてしまうとはな」

「……母はあれで気が立つ方だ。貴軍の報告資料にも目を通したが、誰よりも兄を取り戻そうと躍起になっていたよ……だが、最後は私に任せてくれた。休戦中とは言え、人質も同然の隣国への訪問だ。今思い返せば、確かに適任者は母しか居なかったのだろう」

 そう言いながら、グリスはフィッチマン帝国へと続く林道に視線を移していた。両軍が野営地を築くハイドアウト平原は、シーヴォリー王立国を背に向かいあうと、左方は海に、右方はフィッチマン帝国へと続く林道が存在し、前方は霊石の産出地でもある霊山フィアルマウンテがそびえ立つ。

 霊山から振り下ろされる風は春の装いなど一切感じさせず、海風も相まって肌に氷付くような気温の低下をもたらしていた。その頂きは遥か高く、見上げようにも厚い雲に阻まれ、どれだけの高度に達するのか判然としない。

 アノンは目を細めながら、その雄大な霊山へと向かい合っていた。左方の海から霊山へと視線を動かし、右方の林道、後方の街道へと順に移していく。その様子に気付いたウィルが、アノンへと声を掛けていた。

「なにか気になるのか、アノン」

「……あー、いえ。地図上ではなく実際に足を運んで見た感想で、なんと申しますか……戦略上あまり有利そうではないなーと思いまして」

 顔を傾け唸るアノンの言葉に、ウィルは頷き言葉を返す。

「確かにな。常識的に考えれば、ここは袋小路の地形になっている上、補給線となる街道、林道共に異界側からして見れば敵国の最前線だ。おいそれと斥候を出す訳にもいかんし、起点とするには優位とは言えないな……ただ」

 そう言ってウィルは、静かに霊山を見上げていた。

「ただ、なんですか?」

「まぁ、奴さんはあれだろ。空間の亀裂を利用して移動が可能な訳で、補給線自体も異界側から直接送り込んじまえば大した問題じゃなくなる。その上、あの霊山だ。空間の亀裂の発生になにを使っているかは分からねぇが、霊石も燃料の一つになるかもしれねぇ」

「……確かに」

「常識的な戦術、過去に実績のある戦略、そう言ったもんが通用しないと考えたほうがいいだろうな」

 腕を組み、アノンへと話し続けるウィルを一瞥し、ヴェレンスが声を上げる。

「ほう、愚息にしてはなかなかにどうして。良い状況判断だ」

「……へいへい」

 お褒めに預かり光悦至極でござんすよと言いながらウィルは、ヴェレンスから距離を取り背を向ける。気恥ずかしいのだろうか、腕を回しながら肩を鳴らしていた。そんな愚息の様子を気にも留めず、ヴェレンスはアノンへと顔を向ける。

「ところでアノン中尉、亀裂の兆候は感じ取れるか」

「……はい。とても濃いと言いますか、普段であれば空間にもやのような歪みが見て取れるのですが……これはその、見渡す限りの空間に歪みが広がっていて、もやと言うより、まるで霧に包まれた状態になっています」

 アノンの言葉に、ヴェレンスは目を細める。

「いつ、亀裂が発生してもおかしくない、という事か。変化があれば即時報告しろ」

「了解です」

「グリス、我らは敵対勢力を確認次第、打って出る。貴様の軍勢は予定通り、シーヴォリー王立国へと続く街道を死守してもらいたい」

「……ああ、そのつもりだが、フィッチマン帝国に続く林道はどうするのだ」

「そちらも我らで対処しよう。貴様は貴様の国を守れ」

 ヴェレンスの言葉に気圧されながらも、グリスは異を唱えていた。

「しかしヴェレンスよ、帝国には母が居るのだ。私の軍勢も加勢したい」

 言って伏し目がちにヴェレンスを見やるグリスに、ヴェレンスは前髪に指を宛がう。

「ふむ。二兎を追えばという状況、貴様の母も覚悟を決めて出国したのであろう。その意を汲んでやれと言いたいところだが、どの道、敵対勢力は殲滅する手筈だ。好きにしろ」

「すまない、ヴェレンス」

 グリスは言うなり周囲に陣取っていた副官へと声を掛ける。ヴェレンスの手前、グリスは従う姿勢を見せていたが、元々そのように陣形を展開するつもりだったのだろう。グリスが要する王立国境団三千名は済々と陣形を変更し、街道に七部、林道に三部の陣形が敷かれる事となった。

 街道、林道、それぞれの入口を死守するように凹型陣形が形成され、前衛に騎馬隊、中衛に人造兵器を含む射手隊、そして後衛に歩兵を中心とした防衛線が築かれる。

 それを見やりながらヴェレンスも手勢に指示を出していた。ヴェレンス率いる中央管理軍二百名はそのほとんどが街道、林道へと配され、陣頭に立つヴェレンスの傍らには数えるほどの手勢しか残されていない。

「……おい、まさかと思うが、これだけの人数で斬り込むつもりじゃないだろうな」

「そうだ」

「過信が過ぎるぞ、大将さんよ」

「そうか?貴様は一度の失敗で偉く自分を過小評価するようになったな」

「――っ」

 ウィルは息を呑み、ヴェレンスは言葉を続ける。

「自身を見つめ直す事は良い事だ。反省も必要だろう。だがな、貴様のそれは子供のいじけ癖と同じだ。いつもの調子を取り戻せ。今日は貴様を助けてやる暇はおそらくない」

 それに、とヴェレンスは付け加える。

「私が出した命令を忘れたのか」

「……忘れてねぇよ」

「復唱してみろ」

「いやだから――」

 言ってウィルはヴェレンスの命令を復唱しようとした瞬間だった。ハイドアウト平原に陣取っていた両軍全ての人造兵器が一様に反応を見せ、アノンが声を上げていた。

「ヴェレンス大将!反応増大、来ます!」

 その言葉が早いか否か、ハイドアウト平原に存在する全ての空間が軋みを上げ、耳障りな音と共に大量の亀裂が虚空へと発生していた。ハイドアウト平原の面積は縦に長く、横に短い長方形である。その幅は一キロに満たず、長さは約二十キロ。

 その幅全てを覆い尽くすほどの亀裂が、ウィル達の眼前に生まれ出ようとしていた。

「こんな……同時に」

 驚愕の眼差しでその光景を見据えるアノンは、無意識に重心が後方に傾く。過去最大級の亀裂、言葉にすれば至って単純な現象だが、眼前の光景は目を疑うばかりだった。

 自軍に明らかに広がる動揺の波。その伝染に一層の拍車を掛ける人物が亀裂の境目を素手で掴み、溜息と共に歩み出ていた。

「……おや、奇襲とまではいかないまでも先手は取れると思っていたのだがね、上手くはいかんものだね」

 言っておもむろに地を踏みしめる一人の男。

「陽動と囮で煙に巻いたつもりだったんですけどねー……情報戦ではやはり不利でしたか」

 亀裂の後方から更に一人、肩口までの銀髪を風になびかせ、意地の悪い笑みを浮かべた男も地へと歩み出る。

「仮にもあちら側の最高戦力だからね、まぁ予想の範疇だよ」

 先に亀裂から出てきた男は眼鏡を掛け直すと、首をゆっくりと傾ける。中肉中背で白髪交じりの黒髪を後ろ手に結うその姿には、老齢さが際立っていた。

「最高戦力ですかぁ……おぉ怖。ステイル中佐、第二プランといきましょう――あ、これ使って下さい」

「うむ。陣頭は慣れていないが、仕方ないね」

 ステイル中佐と呼ばれた男はもう一人の男から拡声器を受け取り音量部位の調節を始める。

「……距離は?」

「えーっとシルヴァリア王国に最も近い亀裂から出ましたので一キロってところですかね」

 男の返答にステイル中佐は虚空を見つめるばかりで、なにも聞こえていないように見えた。

「……あれ、調整ミスったかな……ステイル中佐?聞いてます?一キロですよ!いーちーきーろっ!」

「あぁ、一キロか。私としたことが随分大胆な地点を選んでしまったようだね」

 拡声器をいじりながら、不思議そうな表情を受かべるステイルに、男は両手を振りながら声を掛ける。

「やだなぁ、忘れちゃったんですか?ステイル中佐が仰ったんですよ、先手必勝あるのみって」

「……ふむ、そうだったか」

「えぇ、間違いなく」

 男はそう言いながら、心中では相反することを考えていた。これだけ至近距離での出陣は、奇襲が成功した場合は大なる成果を得られるが、相手側がすでに陣を敷いていた場合は後手に回るため、決して好機にはならなかった。にも関わらず至近距離を選択したのには理由が二つあった。

 一つは、後手に回ったところで被害を被るのは初戦に参加するステイルの軍勢であること。そしてもう一つは、ステイルの軍勢に損害が発生したとしても、さして痛手にならない上に、敵方の戦力をある程度把握出来るからであった。

 ぐるりと戦場を見渡しながら男は踵を返す。

「ではこの場はステイル中佐にお任せしますので、後は宜しくお願いしますね」

「……あぁ、任せたまえ」

 返答するステイルに目を配ることもせず、男は亀裂へと戻っていった。ステイルに期待することは一つだけ。なるべく長時間、足掻いてもらいたい。

 ステイルは男の真意に気付かぬまま、拡声器の調整を終えて周囲を確認していた。自軍の手勢はおよそ三百。全員が虚ろな目をした男ばかりで、みな簡易な軽装だった。

「戦力差は目視で十対一といったところか……個体差で十分渡り合えればいいが、こればっかりはやり合ってみないとね……あーっあー、聞こえるかね、中央管理軍及びシルヴォリア王国の兵士諸君。私はクリープス先兵団のステイル中佐だ。そちらの筆頭兵は返答願いたい」

 拡声器から聞こえるその声は至って事務的で、感情に乏しかった。

「今の声、聞き覚えがあるんですけど、本人でしょうか……」

 困惑を強めるアノンに、ウィルは前を見据えたまま応える。

「……敵方の関係者によく似た人物を使って士気を下げるってのは単純だが強力でな、本人かは分からんが厄介な手を使ってきやがったな……」

 そうウィルが懸念した通り、自陣に広がる動揺は協力関係にある中央管理軍と王立国境団の間に、僅かな溝が生まれつつあった。

「ヴェレンス、貴軍に在籍し、我が国に駐在官として派遣されていたステイル中佐は失踪していると報告を受けてはいたが、これではまるで……」

 息を飲むグリスに、ヴェレンスは応える。

「裏切りか、洗脳か、どちらかだろうな」

 グリスの問いに、ヴェレンスの身体には怒気が宿り始めていた。

「自分の尻は自分で拭くさ、グリス。私が応じて問題ないな」

「……あぁ、頼む」

 発端はどうであれ、目の前にいる脅威を払わねば議論も叶うまい。グリスはヴェレンスの怒気に気圧された訳ではなかったが、冷静に現状を理解し身を引いていた。

「今、通信兵を呼んで拡声器を持って来させるから少し待ってくれ」

「いや、要らん」

 ウィルの言葉に、間を置かず前へと歩み出るヴェレンス。深く、息を吸う。

「……おい、待て、全力は止め――」

「中央管理軍大将イーレ=ヴェレンスだ!何用か!」

 地鳴りと、電の様な怒号が、戦場に響き渡る。驚愕の表情を浮かべるアノンやグリスを横目に、ウィルは呆れた表情を浮かべていた。自軍の兵士まで震え上がらせてどうする。

 敵方の思いも寄らぬ返答に、ステイルも眉を潜めていた。

「……やれやれ、気品のない野蛮な声だね。まぁいい。繰り返すが、私はクリープス先兵団のステイル中佐だ。我々の国は土地不足でね、少しばかりだがここら一帯を拝借願いたい。付いては申し訳ないんだが、道を譲ってはくれないかね」

 あくまで中央管理軍としてではなく、他国の中佐としての挨拶に終始するステイルに、ヴェレンスは目を細める。成程と。元からそうだったのか、至ってそうなったのかは判断しかねる。が、気に食わないことに変わりはなかった。

 更なる怒号を繰り出そうとするヴェレンスを制し、ウィルは拡声器をヴェレンスの肩口に押し当てる。

「使ってくれ」

「要らん」

「キレてるのは判るが、あんた一人でやってる戦じゃねぇだろうよ。味方まで怯えさせてりゃ世話ねぇって。頼むから使ってくれ」

 ウィルの最もな意見にヴェレンスは一瞬眉間に皺を寄せていたが、やがて小さく口を開く。

「……寄越せ」

「あいよ」

 差し出されたヴェレンスの手に、拡声器を渡すウィル。この場で自軍の大将を止められるのはウィルだけなのだろうと、アノンはその光景を見やり記憶する。

「クリープス先兵団に告げる。貴様らは他国の領土に不当に侵入し、干渉している。これは連合国協定に違反する重大な戦争行為であり、即刻の退去を勧告するものである」

「……聞かぬ場合は?」

 ステイルの挑発的な返答に、ヴェレンスは不敵な笑みを浮かべる。

「判っているのだろう。排除する」

「排除とは好戦的だね。先も言っただろう、我が国は土地が足りない。自国民が死にかけている。猶予がないのだよ」

「では連合国に対し援助の申し立てを行い、交渉の席に付け」

「……申し立てと援助ね。大昔に蹴られているよ、その話は」

 ステイルの言葉に、怪訝な表情を浮かべるウィル。異界という別世界の認知すら大衆には行われていない現状で、過去に異界との交渉の場が設けられたことがあったのだろうか。アノンも同様の考えに至っていた。

「交渉する気はないということだな」

 二人の考察の間を置かず、ヴェレンスが応える。

「残念ながら、我が国のトップはそういう認識だよ。問答に付き合ってくれて感謝するよ、ヴェレンス大将。悪いが、どいてもらうよ」

 甲高い音と共に拡声器からの音声は途絶え、同時にステイルの軍勢三百が左右へと展開していく。

「左がフィッチマン帝国とやらに続く林道のはずだが、割と厚みを持たせて配置しているね。敵対国への道を守っているとも考えにくいし、予備兵かね。向こうには少々当てるだけでいい。シーヴォリー王立国へと続く街道に大半を向かわせろ。中央は少数で良い」

 ステイルの言葉に、黒装束を纏った副官らしき人物達が頷き移動を開始する。

「……さて、釣れるかね」

 まるで盤上の駒を動かすように、淡々とした口調。ステイルは顎を右手で撫でながら、遠い虚空を見つめていた。


「……大昔に援助を蹴ったって話し、聞き捨てならねぇんだが」

 ウィルの疑問に、アノンやグリスも同調を示していた。ヴェレンスは一人腕を組み、黙したまま前を見据えている。

「心当たり、あるんだな?」

「……ないとは言わんが、貴様らどころかステイルさえ生まれる以前の話しだ。この国も存在しておらん上に、連合国なんぞも発足していない時だ」

 ヴェレンスの言葉に、その場の空気が凍り出す。

「いや、しかしまさかな……とすると黒幕はアイツになるが、あの封印をどうやって……」

「……おい、ヴェレンス、何の話しだ」

 ウィルの呆れ顔に、アノンが小声で耳打ちをする。

「連合国が発足したのは記録で二百年ほど前になります。公式な軍事記録もおおよそその辺りから残されているのですが、それ以前となると一体どこからの情報でしょうか」

「……さぁな、お偉いさんしか見れない領域でもあるんじゃねぇか」

「確かにその線なら……」

「余談はそこまでにしろ、ウィル、アノン中尉」

 ヴェレンスの一言に、口を閉ざす二人。代わってグリスがヴェレンスに問い掛ける。

「その心当たりの確証はともかく、クリープス先兵団とやらは止まらぬようだな」

「あぁ、現在各国は少なからず連合国協定の恩恵に預かり、その隷下に居ると言って過言はない。とすれば、私の心当たりは奴らの正当性を証明するものではない。現に侵略が行われるのであれば、やる事は変わらん」

「……脅威は退けねばならん、と言うことだな」

「その通りだ、グリス。ステイルの発言を確かめる術は戦場の先にしかない。ならば――」

 ヴェレンスはグリスに背を向けたまま、声を荒げる。

「我が軍勢には指示を出してある。各国に続く防衛線の死守は任せたぞ」

「心得た!」

 グリスの応答に、ヴェレンスは不敵な笑みを浮かべる。そのままおもむろに右足を振り上げ、足元に置いてあった鉄製の箱を蹴り上げる。その箱の大きさはヴェレンスの背丈よりも長大で、申し訳ない程度に取っ手が二つ付いているだけの簡素な箱だった。

 ヴェレンスは胸元まで蹴り上げられた箱を空中で掴むと、取っ手を左右に持ち、一気にその箱は力付くでこじ開ける。箱の中に収納されていた物が虚空へと投げ出され、ヴェレンスはそれを乱暴に掴み取っていた。

 息を吐き、ヴェレンスは前を見据える。

「林道に少数、街道に多数、中央は薄めに挑発でもしているような陣形だな」

「……乗るのか?」

 ウィルの問いに、ヴェレンスは目を細める。

「中央に指揮官が居るとも限らんが、私の知るステイルという男ならば、自分は蚊帳の外で戦場を見ながら軍を動かすような男だ。自然と見やすい位置に居るだろう」

「なら中央突破で一気にいくか」

「いや、厚みのある街道側を削ってから中央だな。離れ過ぎるなよ、ウィル、アノン中尉」

 ヴェレンスの言葉に頷く二人。

「戦場とは不思議なものだ。両軍がこれほど分かり易く相対してしまえば、相手の出方を見ながら自軍を清々と動かすばかりで、静かなものだよ」

 戦場を見渡しながら説くヴェレンスに、アノンが口を開く。

「……本当に始まってしまうのでしょうか」

 ただ静けさと、海風が漂うハイドアウト平原に、アノンの問いだけが沈み込む。その聞こえるはずのない問いに応えたのは、敵方のステイルだった。

「配置は完了したようだね。林道側から街道側へ斜陣だよ。一対一ではなく、各員三対一を徹底、武勇は必要ない。確実に削っていけ。全軍、進みなさい」

 ステイルから発せられた命令を機に、クリープス先兵団は前進を開始する。緩やかに速度を速めながら、両軍の距離は縮まり始めていた。

「奴さんは始める気のようだな」

 ウィルの言葉に、アノンは息を飲む。

「時は来たれり、か」

 ヴェレンスが言葉と共に右肩に担ぐそれは、構成される素材が判然としない黒色の本体に、金色の縁取りを象った一振りの槍斧だった。名をウィーケストと呼ぶ。

「先陣は私だ。続け者共!貴様らの歯牙にて敵を食い破れ!」

 地を踏み、ヴェレンスは左足で蹴り出していた。その言葉、その動きに呼応されるように、中央管理軍、シーヴォリー王立国境団、総勢三千二百名の怒号が響き渡る。

「……やれやれ、声を荒げれば勝てるというものでもないんだがね」

 ステイルの呆れた口調とは裏腹に、両軍は誰ともなく走り出す。距離は縮み続け、切迫する瞬間、ステイルが更に指示を出していた。

「牙兵を出せ」

 その言葉と同時に、両軍が激突する中央地点に更なる亀裂が次々と広がり、中から異形の何かが這い出していた。頭部だけが巨大に発達したそれは、四足獣の体を成し、肌は赤黒い岩を連想させる。だらしなく開いた口からは無数の牙が顕わになっており、少なくともこちら側の世界には存在しない生物に見えた。ただ一度だけ、同様の姿と化した男の末路にウィルは憶えがあった。

「ビシャスか!?」

「……で、でも沢山居ますよ!」

 ヴェレンスの後方を追走しながらウィルは叫び、アノンが応答する。そのやり取りに反応した手近の四足獣が雄叫びを上げヴェレンスへと迫る。両者の距離が交錯する刹那、先手を打ったのはヴェレンスだった。

「伏兵か、いい度胸だ」

 言ってヴェレンスはウィーケストを逆手に構えると、末尾にある石突の部位で四足獣の顎を打ち上げ、突進を軽々と制していた。小さく呻く四足獣に、抵抗の暇は与えられなかった。

 真一文字に振り下ろされたヴェレンスの一撃に、四足獣は身体を真っ二つに切断されて絶命する。

「……凄い」

 息を呑み、アノンは思わず足を止める。その隙を狙って接近した四足獣の前足がアノンを捉えようとした瞬間、ウィルが立ち塞がっていた。猛然と振り下ろされた右の前足をウィルは両手で掴み、自身に引き付けるように力付くで捻じり上げる。赤黒い岩のような肌が限界まで捻じられ、透明に近い色にまで変色したのも束の間、血飛沫を吹き上げながら四足獣の右の前足は千切れていた。

「足を止めるなアノン!俺の傍に居ろ!」

「は、はい!」

 悲鳴に近い雄叫びを上げながら、前足が千切れていることも厭わずに四足獣が尚も追撃をウィルへと掛ける。ウィルは千切った前足を四足獣に投げ付けながら接近し、その異様に巨大な頭部を右手で鷲掴みにすると、指が頭部にめり込むほど力を込め、四足獣の上体を無理やり掴み上げる。くぐもった四足獣の呻きに、ウィルは奥歯を噛み締める。

「初対面で悪いが、敵対するなら殺すぞ」

 言葉と共に突き出されたウィルの左の手刀が、四足獣の胸元を深々と突き刺し、心の臓と思われる部位を一思いに掴むと、ウィルはそれを握り潰していた。四足獣は一際大きな雄叫びを上げ、全身が痙攣するや否や、それきり動かなくなった。

 力尽きた四足獣を地に投げ出したウィルは、そこに視線を送りながら、大きく息を吐く。

「元からこういう生き物って訳じゃねぇよな、こいつは……まさかと思うが」

 人間だったのではないか。脳裏を過ったその憶測を、ウィルはどうしても口に出して言う事が出来なかった。一旦口に出してしまえば、その胸中に渦巻く感情を戻す事は叶わないだろう。そしてもしその憶測が正しかったとしても、四足獣を人間に戻す手立てをウィルは持ち得ていない上、戦が始まってしまったこの状況で、それを確認する暇も存在しない。

 俯き押し黙るウィルの傍らにアノンが近付く。既に段階を上げ光彩を帯びたアノンの眼がウィルへと向けられ、ウィルもアノンへと視線を移す。

「胸中お察し致します。ですがもしそうだったとしても、私達に出来る事は限られています。今は死力を尽くし、この状況を乗り切る事が先決です」

 そう言い放つアノンの視線は決意に満ちていた。ウィルは思う。違いないと。結論を出すのは戦の後でいい。今は、それしかない。

 次から次へと亀裂から這い出してくる四足獣を見据えながら、ウィルは姿勢を低く構える。ビシャスほどではないにしろ、軽傷でこの獣達を屠れるのは自軍にはそう多くないだろう。自分より自軍側に一匹でも多く逃せば、それだけ被害は拡大していく事になる。ウィルは必敵確殺の四文字を胸に刻み、意を決したように地を駆け出していた。

 その突進は留まる事を知らず、群がる四足獣を抉り、引き裂き、殴り倒す。その様はさながら暴風の如く吹き荒れ、ウィルの通り過ぎた後には文字通り血路が築かれていった。

 一体、また一体と四足獣を葬る度に、ウィルの心は締め付けられる。これが異界との戦、これが戦争。意義などなく、得る物は少ない。

 ウィルの全身は猛々しいほどに燃え上がり、感情の高ぶりはその迷いとは裏腹にウィルの身体能力を否応無しに引き上げる。ウィルの突進は、クリープス先兵団を徐々に圧倒し始めていた。ひたすらに強く、ひたすらに悲哀を帯びたウィルの一騎当千の姿は、ハイドアウト平原にその爪痕を残していくばかりだった。

 戦場の状況が今一つ掴めないまま周囲の四足獣を薙ぎ払ったウィルは、ふと違和感を感じて歩みを止めた。それに追従していたアノンもまたウィルの変調に気付く。

「お怪我をなされたんですか!?」

「……いや、右腕がちょっとな」

 顔を強張らせるウィルに、アノンは動揺を隠せないでいた。戦闘が続くに連れ、ウィルの右腕には僅かな痙攣が生じ始めていた。筋肉の疲労や怪我などではない。むしろ体調は絶好調と言っても過言ではないほど調子が良い。ただ右腕だけが、どうにも拭えない違和感を憶えさせるのだ。

「少し下がりますか」

 アノンの提案に、首を振るウィル。

「いや、ヴェレンスが離れるなと命じていた。視認出来る距離を保ちたい」

「……で、でも」

「大丈夫だ、なんてことはねぇさ」

 言いながらウィルは右腕を回し、手刀から突き、打ち上げから水平に動かす。

「動作に問題はねぇな……やっぱ気のせいか」

 ウィルは杞憂を振り払うと、周囲で暴れまわるヴェレンスへと目を移す。中央を手薄と見せかけて左右への伏兵と、中央を厚くするステイルの手腕に、ヴェレンスはどこか嬉しそうに剛腕を撃ち放つ。

「なかなかどうして、多勢に無勢と見せての空間移動による奇襲か、おもしろいぞステイル!」

 右手に左手にとウィーケストを振り回し、敵を薙ぎ、かち上げ、打ち落とす。ヴェレンスの流麗な黒髪は水面にたゆたう織布の如く、その挙動に合わせて美しくも不規則な軌跡を描き出していた。漆黒の槍斧を用いて舞い踊る戦場の華。ヴェレンスの周囲にはその形容とは裏腹に、四足獣達の血と肉が累々と積まれ、戦場を赤く染めていく。

「……お一人で勝ってしまいそうな勢いですね」

「かもな」

 その様子を見やり、一騎当千の二人が苦笑を漏らす。その時だった。

「えげつないですねぇ……見た目が化け物染みているからって、うちの牙兵達を文字通り肉塊に変えていくのはどうかと思いますよ、ほんと」

 聞き覚えのある声が、近くで聞こえたのだ。肩口までの銀髪を海風に漂わせ、不敵な笑みを浮かべる男がそこに居た。

「……レイバー」

「はい、ご明察です」

 空間を掌握し、ウィルとアノンを頭上から見下ろすレイバー。戦場に似つかわしくないその端正な容姿とは裏腹に、レイバーの声には邪悪なものが宿っていた。

「いつのまに接近していたんですか……」

「あれ、気付きませんでした?結構最初から居たんですけど……って、あぁ、そうですか。ここに展開されているそちらさんの軍勢に、優秀な索敵者が居ないんですね。朗報です」

 レイバーの笑みに、アノンが奥歯を噛み締める。

「あぁ、だめですよ、アノン中尉。分かり易すぎですって、顔に出過ぎ」

「言いたいことは、それだけですか」

 言うのが早いか否か、アノンは空間を掌握し、レイバーの肩口を狙って穿ちを放つ。それを予見していたレイバーは更に早く空間を掌握し、即座に大地へと降り立っていた。

「――なっ」

「今の、犯罪者とは言え、ネイバーハッドを占拠した連中を皆殺しにしたやつですよね。どんな気分でした?こう、果物か何かを潰すように人の頭を握り潰すのって」

 レイバーの空間掌握の速度に、アノンは驚愕せざるを得なかった。こと人造兵器同士の戦闘において、空間掌握で負けることは決してなかった。驕りではない。それが結果だったに過ぎない。先ほど放った穿ちでさえ、察知はおろか、避けられたことすらなかった。

「んまぁ、もう一段階、上げておくべきでしたね。そこらの程度の低い人造兵器や、人間風情なら必殺でしょうけど、なんていうんですかね、今の僕から見ると、アノン中尉の掌握って荒いんですよ。道筋バレバレです」

 尚も挑発を続けるレイバーに、アノンの全身が煌めき出す。

「あれ、上げちゃいます?消耗激しくないですか?単純なんですか?」

「――このっ」

 アノンの両目が深紫の色を宿す直前、ウィルが制止を掛ける。

「冷静になれ、アノン。安い挑発に乗るな」

「で、ですがっ」

「戦況はまだ序盤だ。体力のある俺が主力で、アノンは控えの隠し武器だ。索敵担当。役割を忘れるな」

「……了解です」

 ウィルの言葉に、煌めきが陰りを見せるアノンに、レイバーは笑みを浮かべる。

「ご主人様の言うことは聞かなきゃだめですよ」

「黙れレイバー」

 怒気を孕むウィルに、レイバーは臆さない。

「黙りませんよ。なんか聞いたことありますし、その台詞。凄んで見せても、結局のところ僕以下、ヴェレンス大将頼みの腰巾着じゃないですか」

 レイバーの三度続く挑発に、ウィルは素知らぬ顔を通す。

「……まぁ、言ってることは的を得てるかもな」

「でしょ?ほんとこれだからウィル少佐は――」

 悪態を吐こうとしたのがレイバーの油断だった。空間を掌握せず、大地に降り立っているだけのレイバーはウィルからすれば近付けば殴れる相手である。レイバーはアノンにこう言ったのだ。掌握が荒いと。ウィルに言わせればこうだった。

 俺と距離を開ける間隔が荒い、と。

「……え?」

 一瞬でウィルを見失ったレイバーは間の抜けた声を上げ、目線はアノンへと注がれる。アノンは笑顔でそれに応じ、左手の人差し指をレイバーの上空へと指す。それを見やったレイバーは瞬時に状況を理解し、後方に空間を掌握して移動を図った。

「跳んで上から攻撃ですか!」

 レイバーの言葉に、アノンは手を振って応える。

「残念、外れです」

 その声が届く前に、レイバーは左わき腹に圧力を感じ、笑みが消える。

「これはアノンの分だ」

 渾身の力を込めたウィルの回し蹴りが、レイバーの左わき腹に直撃する。

「――がっ」

 蹴り飛ばされ、呼吸もままならないレイバーを更に追い、上からこめかみにウィルの左拳が放たれる。

「こいつは俺の分な」

「……ちょ、ちょっと待っ――」

 レイバーのこめかみとウィルの左拳が密着したまま、ウィルはそれを大地へと叩き付ける。硬い物が割れる鈍い音と共に、レイバーの頭は首ごと地面へとめり込み、盛大に土煙が舞い上がっていた。

「同じ過ちは犯さねぇよ、悪いな、レイバー」

 左拳を引き抜き、おそらく絶命しているであろうレイバーへ、念のため追撃を加えようと右拳を振り上げた瞬間、視界の端に見覚えのある少女の姿が映ったウィルは、後方へと飛び去り態勢を整える。戦場とは程遠いその状況に、ウィルとアノンは動けないでいた。

「遊び過ぎなのよ、貴方」

 透き通るような声に、少女は幼げな印象だった。短くも丁寧に整えられた金髪に、憂いを帯びた眼、その容姿にウィルは困惑せざるを得なかった。

「町で見た聖女像、憶えてるか?アノン」

「……はい」

 ウィルとアノンの動揺を他所に、少女はレイバーへと歩み寄り、ぴくりとも動かなくなったレイバーの肢体へと触れる。

「損傷は一割ってとこか……大したことないわね」

 少女の言葉と同時に、濡れた奇妙な音がレイバーの埋もれた辺りで鳴り始める。

「素手でこれだけ破壊出来るなんて素晴らしいわ。さすがあの方の一部ね」

 一人そう言うと鈴を振るように静かに笑う少女が何をしているのか、ウィル達には判然としなかった。が、次の瞬間にレイバーの全身が痙攣し始めて状況を察するに至った。

「……御業……治癒者か!」

 ウィルの言葉に、少女は笑みを返す。

「治癒なんて、細胞分裂を促進して傷を治す下等な技よ。その分寿命を縮めるだけ。お勧めしないわ」

 言って少女はレイバーから離れると両手を振りかざし、辺り一面に散らばった牙兵達の肉塊へ力を注ぐ。

「起きなさい。貴方達の役割はまだ終わってないわ」

 濡れた水風船が一つ一つ潰されていくような不快な音に、ウィルとアノンは顔を強張らせる。飛び散った肉片や牙兵達の一部が寄り固まり、倒したはずの者達が再び起き上がり始めようとしていた。

「多勢に無勢とは減数方式であればこそ成り立つ戦況よ。一方は常に数が減らず、一定の値を保っているとしたら、それは果たして無勢と言えるのかしらね」

 少女が言葉を発する間にも、ウィルとアノンの周辺には復活した牙兵達が集まりだし、呻きが所々から上がり始める。

「貴方も万全になったでしょ?そろそろ起き上がってくれない?」

「アハー、バレてました?」

「元に戻したのは私よ。分かるに決まっているじゃない」

「ですよねー……っと」

 首が完全に地中に埋もれているはずのレイバーの声が聞こえ、土を押し上げながらレイバーは起き上がっていた。

「バァ、ビックリ人造兵器ショー!って口の中に砂が……」

 咳き込み吐き戻すレイバーを見やり、ウィルとアノンは倒すべき優劣を見定めていた。聖女の御業かどうかは定かではないが、優先すべきはこの少女なのだと。このまま戦場で倒した敵が次々と蘇り続けた場合、有限の自軍は敗退が必須になる。少女が無限に再生し続けられるとは考えにくいが、自軍が崩壊するまでその検証をする訳にもいかない。今判っていることは、この少女を止めなければいけないということだけだった。

「やれるか、アノン」

「……多少気は引けますが、必要であれば」

 ウィルとアノンは奥歯を噛み締め、覚悟を決める必要に迫られた。戦場にはいくつかのタブーが存在する。投降兵を無下に扱わない、救護兵は攻撃の対象としない、不必要な民衆への制圧は行わい等、それは戦争という政治的行為に置いて、人の良心に訴えた行いでもあった。

 少女が容姿通りの民衆であるならば、もしくは目撃した行為通り救護兵であるならば、どちらにせよ武力行為は控えるべきである。だがもしこの速度で、少女が敵軍を再生し続けるのであれば、排除する他に勝利への道は閉ざされることになる。二人の激しい葛藤を見やり、少女は不思議そうな表情を浮かべる。

「……もしかして、私への攻撃、躊躇われておられます?ウィル少佐、アノン中尉」

 不意の少女の言葉に、ウィルとアノンは応えられずにいた。

「お優しいですね、レイバーから聞いていた通りのお人柄のようで。この場には似つかわしくはありませんが」

 そう言葉を切り、少女はぐるりと戦況を確認する。

「私が立て直したとは言えステイルではジリ貧でしょうね。早々に二人を回収するわよ」

「……あ、急ぎます?」

「えぇ、でも貴方は下がりなさいよ。あの方の大事な入れ物なんですから」

「あー、まー、そうでしょうけど……」

 少女の指示に納得のいかないレイバーは不満げな態度を見せる。

「下がりなさい。世界が変わる様、見れなくても良ければ他の入れ物を探すだけよ」

「……へいへい、分かりましたよーっと」

 少女の強い言葉に、レイバーは踵を返し空間に亀裂を生じさせていた。

「別に逃げる訳じゃないんで、またお会いしましょう、お二人さん」

 レイバーが亀裂へと手を掛けるその一瞬、アノンが先手を打っていた。

「逃がしませんよ!」

 瞬時に空間を掌握し、レイバーの頭部へ穿ちを放つアノンに少女は素早く反応し、レイバーの背を手で押し出していた。レイバーの頭部を掌握しようとしたアノンの穿ちはレイバーに直撃するどころか、庇うように押し出した少女の頭部へと直撃する。

「――なっ」

 音もなく少女の頭部には拳大の穴が穿たれ、後からゆっくりと大量の血液がその穴を埋めんと迸る。

「あらー……やっちゃいましたね、アノン中尉。マジ鬼畜」

 消えかけている亀裂の向こうからレイバーが追い打ちのようにアノンへ中傷を送ると、暇を置かずに亀裂は虚空へと消え失せる。

「……私……私は……」

 元から色白のアノンが更に青白くなるほど、少女の排除という覚悟を決めていたはずの行為を実行したことによる動揺で青ざめていた。

「アノン!気を保て!」

「……で、でも、私は……」

 不慮の事故とはいえ、これで敵方の再生は止まる。止まるが、復活した牙兵達に囲まれている状況に変わりはなかった。広範囲に渡って少女の再生が行われ、敵軍が復活したとみて行動するべきである。従ってウィルが築いた血路の骸も復活したと想定すれば、後方からその血路を通って進軍してきた後方部隊もウィル達同様に囲まれていると推測が立つ。事は一刻を争う状況だった。

「そんなに気に病むことはありませんよ、殺せてませんから」

「――っ!?」

 頭部を穿たれ、骸と化したはずの少女から、くぐもった声が聞こえていた。

「……このままじゃ喋りにくいわね」

 少女は言うなり、穿たれたままの頭部をこちらに向けると、不気味な音を立てながらその穿たれた穴を新たな肉で埋め始める。

「……ウィル少佐……これって……」

 アノンの驚愕に、ウィルも同意していた。シーヴォリー王立国にかつて存在した聖女アンナは、御業の過多で絶命したとレイバーから聞いていた。つまり他者への再生だけで、自身への再生は出来なかったのだろうと推測したが、目の前の少女はそれを覆している。

「聖女がお隠れになってんのが嘘か、それ以上の存在って事になるな」

 ウィルの言葉に、もはや完全に再生し終えた少女が目を丸くする。

「聖女?こちら側の私のこと、ご存じで?博識なのね」

「……こちら側って、それじゃ貴方は……」

 アノンの問いに、少女は嬉しそうに応える。

「えぇ、こちら側ではアンナ……でしたっけ。あの子もバカよね、分け与えるばかりで、本来の使い方も分からず絶命するなんて」

 鈴が振れるように笑う少女に、ウィルとアノンは底知れぬ何かを感じ始めていた。

「これから長い付き合いになることですし、自己紹介しても良いかしら。マリアと申します。末永くあの方の一部として、お役立ち下されば幸いよ」

「……長く付き合うつもりはないんだけどな。それにあの方って誰だよ」

「それはそちらの都合で、関係ないわ。あの方についても、嫌でも分かることになるから、大人しく捕まってもらえないかしら?」

 マリアの有無を言わさぬ言動に、ウィルとアノンは見合わせ、口を揃えて応じていた。

「やれるもんなら!」

「やって見せて下さい!」

 発するが早いか否か、二人は弾けるように左右へと飛ぶ。

「元気一杯ね……素体としては喜ばしいことなんでしょうけど……牙兵、抑えなさい」

 マリアの命令を機に、ウィルとアノンを囲んでいた数十体の牙兵達が一斉に飛び掛かる。

「悪いが何体何十体再生しようがな」

 ウィルは言うなり手近に居た牙兵の顎を打ち上げ、がら空きになった心臓部へ手を一気に突き刺す。そのまま核と思われる塊を握り潰し、速やかに牙兵を屠っていた。

「一度倒した相手だ。弱点は知れてるよ」

「そういう……事です!」

 一振り、二振りとアノンへ向けられた牙兵達の腕を掻い潜り、アノンは最小範囲の掌握で牙兵の核を掌握し、次々と潰していく。数十体居たはずの牙兵が加速度的に数を減らしていく様は圧巻だった。

「……さすが、と言ったところかしら、足止めにもならないわね」

 溜息を吐きながら、それでもマリアの声色は変わらない。

「でも、貴方達の体力は無限じゃないわ」

 マリアは言うと、倒された端から牙兵達を再生し続けていく。

「お前の再生能力も無限じゃねぇんだろ!」

 ウィルの言葉に、マリアは不敵な笑みを浮かべる。

「さぁ、どうかしらね。でもいいの?ここで私と数十体程度の牙兵に手を拱いていたら、貴方達の他の味方はどうなるかしらね」

「――っ!?」

「いいのよ、一日中、三日三晩でもいいわ。貴方達はここで私が抑える。その間に他の子達が戦場を赤く染めてくれるわ。そうなればここに使える戦力は増え続けていく。如何に一騎当千の貴方達でも、敵が千や万単位で繰り返されれば、倒れてくれるでしょ?」

「――この野郎!」

 マリアの言葉に、ウィルは即座に目標を牙兵からマリアへと切り替え突進を掛ける。

「それも想定済み」

 ウィルの突進を遮るように牙兵達が団子となり、行く手を自らの身で阻み続ける。

「……くそが!」

「ふふ、この子達の良いところはね、獰猛な性格や、醜悪な容姿、鋭利な爪や牙、そのどれでもないの。構造が単純なのよ。しかも頑丈。要は使い方よね」

「……なら、これならどうですか」

 アノンは言うと、両手に握りしめた物体を親指で弾くと虚空へと飛ばす。それは丁度、マリアの周囲一メートルの距離に数個飛ばした程度だった。

「指輪?」

 マリアの怪訝な表情に、笑みを浮かべるアノン。

「掌握」

 その刹那、甲高い音と共に指輪は全て空洞の部分がマリアへと向き、細い筒上の穿ちを指輪の数だけマリアに直撃させていた。

「――ぐっ」

 喉元に肩口、右わき腹、両足の大腿部、それぞれが細く穿たれ、マリアは苦悶の表情を浮かべる。

「……再生は出来ても、痛覚は残っているようですね」

「こんな……装具……報告には……」

 マリアの驚愕に、アノンは右手の人差し指を口元に当てて応える。

「新兵器です」

「……あ、そう」

 プリシラから事前に受け取っていた新装具。人造兵器用、空間掌握補助輪。通常は空間掌握の初歩訓練として用いられる腕輪上の装具であるが、上級者用に小型化された対複数多部位掌握装具である。正確に、限定的な空間を最低限の力で掌握出来る画期的な装具とプリシラの説明書に記載されてはいたが、おそらく扱えるのは一握りしかいない。

 マリアが自己再生を始めた途端、牙兵達の再生がぴたりと止んだ。

「他者と自身、同時には出来ねぇみたいだな!」

「――ちっ」

 ウィルの察しに、苛立つマリア。アノンの掌握を妨害しようと迫撃を加える牙兵もろとも補助輪の数を増やしながら多部位を即座に掌握し、次々と地へと伏せさせていくアノン。マリアの呻きが続く中、牙兵の数は見る間に減っていた。

「彼女はこのまま私が抑えます!ウィル少佐はここが終わり次第、次の戦場へ!」

 アノンの眼差しに、ウィルは視線だけ交わし牙兵に拳を放ち続ける。事前に聞かされてはいたが、あの補助輪でアノンの負担がどこまで軽減されているのかは疑問が残る。マリアの再生能力とアノンの掌握能力の最大容量、どちらが上回るかの勝負に、予測は立てられない。ウィルの迷いに答えを出したのはアノンだった。

「出来るだけ早く戻って下さいね。そうじゃなきゃ私、枯れ枝になっちゃいますから」

 最後の牙兵を打ち倒し、ウィルはもう一度だけアノンへ視線を向けると、迷うことなく背を向けた。

「判った。無茶はするなよ、命令だ」

「……了解です。ご武運を」

「お前もな」

 二人のやり取りに苛立つマリアは声を荒げる。その声を聞き届けることなく、ウィルは自身が築いた血路を逆走し、自軍の救援へと走り出していた。

「こんな小娘一人に、この私が!」

「させませんよ」

 アノンの言葉に呼応するように、マリアの周囲に漂う補助輪が甲高い音を奏でる。

「――ぐぅうっ」

「一日中でも、三日三晩でも構いませんよ。貴方の再生能力を抑えることはこの戦での分かれ目となりそうです。全力で取り組ませて頂きます!」

 三度、四度と音が鳴る。例えこの身が朽ちようと、彼女の能力は離さない。アノンの視線は決意に満ち、その全身に煌めく輝きは深々と辺りを照らし続けていた。

 一方アノンとマリアが膠着し、ウィルが救援に向かった同時刻、ヴェレンスは再び起き上がり襲い掛かってきた牙兵達を物ともせず、敵方左方の大半を駆逐し、敵方中央のステイルが陣取る喉元まで辿り着こうとしていた。

「通信兵、現状を報告」

「報告致します。戦況は我が方に優勢ながら、戦場のほぼ全域で倒したはずの敵兵が再び起き上がり戦線に復帰する現象が多数目撃されております。敵方に治癒者、もしくは蘇生者が多数居る恐れあり。現状は敵兵復帰の現象は見られず。被害状況は中央管理軍にて死者数十四名、王立国境団は数百名単位で死亡、もしくは戦闘不能者が出ております」

「長期的戦線維持は厳しいといったところか。少々単騎で突出し過ぎたな……ウィル少佐とアノン中尉の現状は分かるか?」

「ウィル少佐は索敵兵によりますと、進軍路を逆走し各地で遊軍されているところを目撃されております。アノン中尉については不明、繰り返します、アノン中尉については不明」

「……了解した。以上だ」

 ヴェレンスは通信機を切ると、牙兵に突き刺したままのウィーケストを抜き、水平に振って血飛沫を払う。堆く積まれたその屍は山を築き、ハイドアウト平原に新たな丘を生み出していた。ヴェレンスはその丘に腰掛け、一人思う。街道側は一先ず愚息が遊軍をしている限りそうそう抜かれないと想定し、林道側はそもそも敵方のやる気が感じられない。とすれば中央一点突破でグリスを狙いに行きそうなものだが、その様子もない。ステイルの狙いはどこにあるか。ヴェレンスはそこが不明瞭だった。

 一言で表すならば、雑。攻め方が雑なのだ。守りもザルと来れば、これはもはや児戯に等しい。その児戯で、自分の部下と、王立国境団の兵共が命を散らしたのかと考えるだけで腸が煮えくり返る思いだった。

「もう二隊……いや三隊か」

 そこを突破すれば敵陣中央だ。相手も追い詰められれば鬼でも蛇でも持ち出してきそうな予感もするが、このまま動かぬのも愚策だろう。何が出るか分からぬ状況だからこそ愚息には離れるなと命じておいたのだが、伏兵に道を阻まれたか、最優先事項が発生したか。どちらにせよ状況的には愚息が遊軍しているおかげで被害も抑えられていると考えてやれなくもなかった。分からぬことを考察しても仕方なし。

「早々に、見えている頭を潰すか」

 言ってヴェレンスはゆっくりと立ち上がり、ウィーケストをぐるりと片手で回す。右足で数度地面を踏み、敵陣中央に視線を止める。

「行こうか、ウィーケスト」

 瞬間、ヴェレンスが先程まで腰掛けていた丘の一部が弾け飛ぶ。ヴェレンスの疾走、ただそれだけで、地形はみるみる削られていった。その異様な土煙に接近を察した手近の牙兵達が徐に反応を示すが、視界の隅にヴェレンスを僅かに残すばかりで、次の間には自身の首が宙を舞っていたのだった。

 猛烈な土煙と血飛沫、乱れ飛ぶ牙兵の首にステイルが顔を歪ませる。

「……蛮勇ここに極まれり、と言ったところだね。中央指揮隊はひし型陣形、土煙と跳躍に注意しろ!」

 ステイルの怒号が伝わるか否かの刹那、ステイルは異常な寒気に襲われて思わず全方位の空間を掌握し障壁を張り巡らせていた。その障壁が間を置かず、幾重かの斬撃を辛うじて防ぐ様をステイルは目撃する。

「感が鋭いな、中佐」

「……お初にお目に掛かる、ヴェレンス大将殿かね」

「初ではないが、ご明察だ」

 突如現れたヴェレンスに、ステイルの中央指揮隊は混乱の色を呈していた。黒装束の副官達は一様にヴェレンスから距離を取り、目が虚ろな軽装の者達は反射的にヴェレンスへと槍を突き出す。

「洗脳か、妄信かは選別せんぞ」

 一秒にも満たない間に、軽装の者達の首は牙兵同様、宙を飛んだ。黒装束の副官達は状況が不利と見るや、亀裂を生じさせて逃げの一手に転じる。

「指揮官を残して逃走とは、恥を知れ!」

 ヴェレンスの激昂に、黒装束の副官達も亀裂に入る暇もなくウィーケストの餌食と化していた。その様子を見やり、唯一人ヴェレンスの動きを冷静に分析する男が居た。

「背信の将とは言え、逃げはしないのだな、中佐よ」

「……背信とは憶えがないね。私は生まれも育ちもクリープス王国の出だよ」

「ほう、つまり中央管理軍には縁がないと言うことだな」

「大将殿のような猛者が居る組織だ。興味はあるがね」

 ステイルの言に、ヴェレンスは洗脳を確信していた。下調べでステイルが異界生まれでない事は確認している。そればかりか、中央管理軍とは離れた行動を度々行っていた様子すら掴み始めていた。だが今のステイルはどうだ。まるでそんな事はなかったかのように異界生まれだと主張している。考えられる可能性は二つだけ。成りきっているか、成らされているか。前者であれば排除するに迷いはないが、後者であれば憂いが残る。

「……迷いが見られるね、大将殿よ」

「そうか?」

「あぁ、老婆心ながら戦場では禁物だよ。足を掬われる」

「提言痛み入る」

「……いやいや、私にも経験があってね」

 饒舌なステイルに、ヴェレンスは眉を潜める。

「狙いは時間稼ぎといったところか」

「まぁね、大将殿に勝つのが我々の目的ではないのでね。足止めに付き合ってもらうよ」

 一跳びだけ後方へと距離を取るステイルを見据え、ヴェレンスは距離を詰めながらウィーケストを構える。

「僥倖だな、私の部下だった手向けだ。眠れ」

 言ってヴェレンスはウィーケストを逆手に構え、石突の部位でステイルの額を割ろうと踏み込み、あと一足の距離まで瞬時に詰める。一撃必殺の刹那、ステイルは避け切れず片腕を犠牲にするが、ヴェレンスの一撃をいなす事に成功していた。

「――っ、甘いね」

「どうかな」

 両者はすれ違い様、互いに言葉を交わし合う。ヴェレンスは振り向くままウィーケストをステイルに、ステイルは残った片腕を突き出して空間を掌握し、障壁を作り出してその一撃を防ぐ。その攻防にヴェレンスは感嘆を示していた。

「ウィーケストを用いて二撃も生き延びた相手は久しい。誇れ中佐」

「……光栄だね」

 息を荒げながらステイルは尚も空間の掌握を続ける。

「そんなものいつまで持つかな!」

 ヴェレンスは発すると同時にウィーケストを頭上に構え、障壁毎叩き斬るため力を込める。

「恐ろしいね。絶対防御のはずの障壁さえも斬られかねないが、それは武器の材質による。私の見立てではその槍斧、霊石の塊だね」

 ステイルの冷静な分析にヴェレンスが違和感を憶えた瞬間、ステイルは満身の力でヴェレンスの周囲を障壁で囲い始める。

「――なっ」

 さすがに驚きの表情を隠せないヴェレンスだったが、ステイルはその一世一代のヴェレンスの顔に見向きもせず、一枚、また一枚と四方八方を障壁で何重にも囲う。

「貴様、霊石を移植されて間もないと予測していたが」

「……何を言う……元来この掌握術は、我々クリープス王国の技術。お前達の先祖が我々から盗み、発展させたに過ぎんのさ……」

 そう喋りながらもステイルは膝を付き、吐血する。ステイルの顔には無数のひび割れが生じ、眼は真っ赤に充血し始めていた。その様子にヴェレンスは目を細める。

「……もう一度問う。貴様は何者か」

「しつこいね……私は……クリープス先兵団の中佐……ステイル……中佐だよ……」

 ヴェレンスの姿がぼやけるほど、幾重にも生じた障壁は今や何者にも破られぬ檻と化し、ヴェレンスはその決死の捕縛術を見届けるに至っていた。

「相当根深い洗脳か、本当に貴様の出自はクリープスなのだろうな……」

「……くく、だから……言っているだろう……私は……」

 言葉が途切れ、ステイルは虚空を見つめる。

「私は……誰だ……いや、私はステイル……所属は……中央管理……いや、クリープス……先兵団……私の役目は……ヴェレンス……大将……の……足止め……」

 乾いた樹木が倒れるように、ステイルの皮膚は次々と剥がれては出血を繰り返していた。それでもステイルは空間の掌握を止めず、ヴェレンスの檻を厚く、硬くしていく。

「狡猾で、野心家で、自己を犠牲にするなどほど遠い男と思っていたが、洗脳されているのか本心かは別として、見事だよ。ステイル中佐」

「……ヴェレンス……大将を……捕縛……作戦を……次の段……階へ……移行……移行せ……よ……」

 ステイルはそれきり、一言も喋ることのないまま、まるで神に懺悔するような態勢で動かなくなっていた。それと同時にヴェレンスの遥か後方、自軍の近距離に多数の亀裂が発生していることにヴェレンスは気付く。

「成程、ステイルは囮で、別動隊が用意されていたということか……」

 自身の部下だった男の最期を見続けたヴェレンスは静かに息を吐く。

「敵方も酷な真似をしてくれる……障壁は八方に二十弱ずつ、と言ったところか」

 音もなくウィーケストを両手で構え、刮目するヴェレンス。重心を乗せて真正面の障壁へ刺突を繰り出す。地鳴りのような響きと共に障壁の一部がウィーケストで中和され、薄く剥離したような状態に変化していた。

「……一枚割るにも相当だな。渾身の置き土産、堪能させてもらうぞステイル!」

 激を吐きヴェレンスは刺突をひたすらに繰り返す。八方を塞がれているため十分な踏み込みは望めない。ステイルの捨て身の捕縛術はかのヴェレンスに対し成功を収めていたのだった。

「突き破るまで外は任せたぞ、愚息よ!」

 予想外の展開に、ヴェレンスは思わず苦笑せざるを得なかった。命令もろくに聞かず遊軍紛いの暴走をしていた愚息がここに来て唯一の頼りになるとは。

 ヴェレンスの刺突は一突き、また一突きと繰り返される度、勢いを増してステイルの遺した障壁へと打ち放たれていた。


 ハイドアウト平原での戦いが幕を開け、幾何かの時が過ぎた頃、中央管理軍と王立国境団の本陣に座するグリスの元へ、意外な戦況報告が流されていた。

「……それは真か?」

 グリスの問いに、本陣に詰める中央管理軍の通信兵が姿勢を正す。

「索敵の報告では、新たな亀裂多数出現、騎馬隊と思われる敵勢力が我が本陣目掛け進軍中。ヴェレンス大将は敵指揮官と交戦後、空間障壁にて足止めされているとの一報が入っております!」

「……ふむ」

 かのヴェレンスが足止めを食らうほど、この戦場には手練れが存在する。その報告にグリスは言い知れぬ不安を抱くようになっていた。圧勝出来るとは端から期待していた訳ではなかったが、これではまるで――

「グリス陛下!敵勢、来ます!数およそ百機!」

「――っ!」

 王立国境団の副官が叫ぶ中、グリスは奥歯を噛み締める。

「進軍していた我が方の騎馬隊は何をしている!」

 グリスの檄に、副官は青ざめた表情を返していた。

「……新たに出現した敵騎馬隊に粉砕された模様です。その敵騎馬隊、我が国の装具で身を固めていたとの報告が入ってきております」

 顔を伏せる副官の返答に、グリスの額には汗が滲み出す。

「まさか、兄上の騎馬隊か」

「……おそらくは」

 グリスは椅子から立ち上がり前へ進もうと試みるが、眩暈を憶えて姿勢を崩す。すかさず倒れぬように副官は補助に入るが、グリスはそれを片手で制していた。

「やる事は変わらぬ……なぁそうだろヴェレンスよ……」

 地を踏み締め胸に力を込めてグリスは姿勢を戻すと本陣から歩み出て自軍へと声を荒げる。

「射手隊、弾を込め!人造兵器隊は障壁を展開!障壁を扱えぬ者は敵騎馬隊の足止めに邁進せよ!街道、林道ともに一兵たりとも通すな!」

 グリスの命令に呼応するように、王立国境団中衛の射手隊が行動を開始する。

「左右に展開されたら厄介だ。凹型陣形にて敵騎馬隊を受け止める!我が方の騎馬隊は先にかの地へと旅立った。援軍はないと知れ!」

「――陛下、敵騎馬隊を目視で確認、接着までおよそ二十秒!」

「っ……中央管理軍に伝達、本陣攻められたし、近隣の各員は協力されたし、以上だ」

 口早に発せられるグリスの言葉を受け、中央管理軍所属の通信兵は頷くと各所へと伝達を開始していた。

「接着まで十秒!」

「定置槍を起こせ!射手、狙いを付け――」

 グリスは言いながら右手を頭上へと掲げる。弓を引き絞る音が幾百と重なり合い、

「――放てぇ!」

 グリスがその手を振り下ろすと同時に、王立国境団中衛射手隊の一斉攻撃が始まる。空気を切り裂く音と共に、陽の光は放たれた大量の矢に隠れて陰り、本陣目掛けて突進を掛ける敵騎馬隊へと降り注ぐ。

 死の雨の中、赤い板金鎧に大型の両手剣を背負った男が空を見上げていた。

「……ビシャス、速度を緩めるな」

「あいよ旦那!」

 男は自身が跨る牙兵、ビシャスに声を掛けながら、背負った両手剣を眼前に構える。それを自らの頭上へ水平に持ち上げ、軽々と振り回し始めていた。

「か細い弓矢と障壁で我が騎馬隊、止まると思うな!」

 言って男は両手剣を振り回す速度に拍車を掛ける。およそ人力とは思えぬ狂暴な風圧をそれは生み出し、男とビシャスに降り注ぐ死の雨は塵へと変わっていった。

「て、敵騎馬隊、止まりません!」

 悲痛な副官の叫びにグリスは拳を握り込む。

「障壁最大展開!定置槍構え!」

 横一列に並んだ人造兵器達が雄叫びを上げながら障壁に圧を加える。射手隊が後退し、歩兵隊と入れ替わろうとした、その時だった。

「遅ぇよ!」

 言うなりビシャスは定置槍を軽々と飛び越え、跨る男と共に王立国境団が展開する長大な障壁へと真っ直ぐに突進を掛けていた。

「相殺を一点に集中……そこだ!ビシャス!」

「任せとけって旦那ぁ!」

 次の瞬間、男とビシャスの眼前の障壁は完全に消失し、障壁を展開していた人造兵器の胸元には両手剣が深々と突き刺さっていた。

「……あ……え?」

 あまりにも呆気なく、あまりにも無情な一撃に貫かれた人造兵器は息を漏らす。そのまま両手剣を頭部へと切り上げられた人造兵器は悲鳴を上げることもなく、そのまま動かなくなっていた。

 最低でも数分からそれ以上、もしくは破られないと想定していた障壁が意図もあっさり相殺され、手近に居た人造兵器達は掌握に集中出来ず、長大な障壁は崩壊を始めていた。

「ビシャス、そのまま街道側に転身、人造兵器共から片づけていくぞ」

「――合点っ!」

 男を背に乗せたままビシャスは応じ、街道側へと転身しながら射手隊もろとも人造兵器数名を払うように薙ぎ飛ばし、次々と殺戮し始めていた。

「アヒャヒャヒャ!もろいねぇ!もろすぎぃ!」

 阿鼻叫喚の地獄絵図に、グリスは激昂する。

「敵味方の被害報告!」

「……敵騎馬兵、定置槍にて数機落とすに留まり、射手隊の先制でも幾らか落としているとの報告、我が方の状況は悪化傾向、至急陛下は退避されたし、との事です!」

「――私だけ皆を置いて逃げる訳にはいかぬ!」

「で、ですが陛下」

 グリスは徐に自身の弓を持ち突出して単騎グリスへと迫っていた敵騎馬兵に狙いを定める。

「陛下っ!お逃げを!」

「構えて待て」

 グリスの言葉に、副官は動揺しながらも片手剣を抜き放つ。本陣の警護兵が次々と薙ぎ払われる中、グリスの耳からは徐々に音がなくなり、視界が狭まっていく感覚を憶える。

「……捉え……狙い……待って……」

 放つ。グリスの弓から射出された鉄矢は接近する敵騎馬兵の鎧の隙間、左脇へと命中し、態勢を崩しながら尚も接近を図った敵騎馬兵の足元へ更に次弾を命中させ落馬させるに至っていた。

「止めを刺せ」

「――はっ!」

 グリスの冷徹な命令に副官は即座に応じ、落馬して蠢いていた敵騎馬兵へと襲い掛かり行動を完遂する。その様子を見やり、グリスは確信に至る。

「やはり脅威は兄上……いや、あの赤い板金鎧の男と牙兵のみで、他の騎馬兵は突出した強さではない。冷静に立て直せ。射手隊はけん制しながら歩兵隊と交代、順次援護に回るように伝達、多数で一機に掛かり、削り落としていけ!王立国境団の底力、今こそ我に見せてみよ!」

 グリスの檄に、本陣周りの警護兵達は怒号を重ねてその意に応える。障壁が突破され、陣形が崩されかけながらも、射手隊は後退しながら敵騎馬兵の機動力である馬を狙い打ちし、落馬した敵兵を周囲の歩兵が多勢に任せて襲い掛かるという、組織的な動きを取り戻しつつあった。

「……厄介な指揮官が居るようだな」

 ビシャスに跨る男が不快を示す。

「邪魔ならやっちまいましょうぜ、旦那」

 果敢にも男とビシャスへ挑んだ王立国境団の無数の死体をもて遊びながら、ビシャスは応えていた。

「……どこかで見覚えがある気もするが」

「知り合いですかい?」

 問うビシャスに、男は黙したまま応えずにいた。ただ両手剣に染み渡る血飛沫を払いながら、その赤く濡れた大地を見やるばかりで、一向に記憶が晴れることはなかった。

「……俺は誰だ、ビシャス」

「へ?旦那……ボケちまったんですか……いや、まぁ誰かと聞かれれば、クリープス王国の騎馬隊長!炎の男!と言やぁ、アーノルド旦那以外、居やしませんって」

「……アーノルド……そうか……俺は……アーノルド……」

「えぇ、って旦那、大丈夫ですかい」

「……あぁ」

 ビシャスに跨りながら、アーノルドと呼ばれた男は動けずにいた。自分はいつからこの鎧に身を包んでいたのか、いつからこの両手剣を握っていたのか、判然としない。ただ分かることは――

「おのれ化け物がぁ!」

 屠られた味方に憤慨し、ビシャスに向けて槍を突き出した王立国境団の歩兵を軽々と死体に変え、アーノルドは両手剣を見つめる。

「どう戦えばいいか、なぜ戦うのか、という事だけか……」

 杞憂を払い、アーノルドはビシャスへと声を掛ける。

「この戦況の変化、要因はあの指揮官だ。消すぞ」

 その言葉にビシャスは頷くと更に転身し、グリスが座する本陣へと視線を定める。

「直進だ」

「あいよっ!」

 刹那、ビシャスは飛び上がるように地を駆け出す。屠りに屠った死体を蹴り上げ、血中を疾走し、立ち塞ぐ王立国境団の歩兵を肉塊に変えながらアーノルドとビシャスは留まることをしなかった。脳裏に浮かぶ幻想に気を回している場合ではない。アーノルドは思う。一つでも多く土地を。一人でも多く国民を救う。それがクリープス王国騎馬隊長である自身の務めであると。次々と止めに掛かる歩兵の首を刎ね、貫き、薙ぎ払う。その度恐ろしいほどの頭痛がアーノルドに襲い掛かるが、アーノルドはビシャスを焚き付け血路を築く。あの指揮官は危険だ。直感で確信出来る。消さねばならない。

「邪魔だ!異界の住人よ!」

「どけどけどけぇ!」

 猛烈な勢いで殺戮を行いながら突進を掛けるアーノルドとビシャスを、止めることが出来た者は誰も居なかった。ただアーノルドの胸中は締め上げられるように苦しく、鈍い感触が両手に残るばかりで、気が遠くなるような思いだった。

「――陛下、かの者が来ます!今度こそお逃げなされい!」

「……兄上かっ!」

 グリスの警護兵までも次々と打ち倒し、アーノルドとビシャスがグリスへと迫る。

「有能な指揮官よ、退席の時間だ」

 アーノルドの言葉が、グリスの耳にゆっくりと届く。ビシャスが跳躍し、グリスは身構える。着地様に放たれたビシャスの一撃をグリスの副官が決死で受け止め、アーノルドが両手剣を振りかぶる瞬間をグリスは目撃していた。

「陛下っ!退却を――」

 副官の悲痛な叫びは終えることなく、アーノルドが真一文字に振り下ろした両手剣に阻まれ絶命していた。最期まで責務を果たしてくれた副官に視線を送り、グリスはアーノルドへ向き合う。開口は、一言だけだった。

「兄上」

「……?」

 不意のグリスの発言に、アーノルドの動きが僅かに鈍る。

「兄上、私です。グリスです。憶えていらっしゃいますか」

 弓を構え、アーノルドとビシャスから距離を取るグリスに、アーノルドは既視感に襲われる。その間にもグリスを救おうと、周囲の兵がアーノルドとビシャス目掛けて殺到していた。ビシャスはアーノルドを背から降ろすと、

「旦那、周りの雑魚は俺が片付けますよ。指揮官は頼みましたぜ」

 そう言い残し、喜々として迫り来る王立国境団の歩兵達へ凶手を振るい続けていた。

「兄上、貴方は我が国の正当な王の一人、アーノルド=シルヴォリアその人なのです。鎧に隠れたお顔を拝見するに至っておりませんが、その声、その風貌、その雰囲気、懐かしゅうございます」

「……俺は……」

「貴方が異界へと遠征されてから帰らぬ日々が続き、母……セレス=シルヴォリアも兄上の帰還をお待ち申しております。どうか……どうかその矛を……」

「――ぐっ!」

 割れるような頭の痛みにアーノルドは呻きを上げる。

「兄上っ!」

「やめろ!その呼び名は……俺を抉るような痛みが伴う……俺に兄弟なぞ居らぬ……貴様なぞ知らぬ……兄上と呼ばれるのは不快だ!」

 言ってアーノルドは、両手剣を腰に構え、踏み込みながらグリスへと打ち上げる。グリスは後方へと飛び去り、間一髪その一撃は頬を掠めるだけだった。

「兄さん!思い出してくれよ!あんたはこの国の王だ!あんたがさっきから切り倒している者達は、俺達の国民なんだよ!思い出せよ兄さん!」

「黙れぇえええぇええ!」

 絶叫し、鋭く放たれたアーノルドの突きはグリスの左肩口へと命中し、血飛沫が舞い上がる。

「……兄さん」

 数歩たたらを踏み、グリスは片膝を付いて地へと伏せる。その現状を見かね、周りで様子を伺っていたグリスの護衛兵が一斉にアーノルドへと襲い掛かる。

「陛下!お逃げ下さい!アーノルド様は……兄王様はもはや別人だ!」

 護衛兵の一人が叫び、グリスが応じる前にその護衛兵はアーノルドに切り伏せられ絶命する。

「邪魔だ!邪魔だ!邪魔なんだよお前らぁあああ!」

 我が身を盾にグリスを逃がそうとする護衛兵達の波は止まらず、アーノルドは徐々に押され始めていた。

「おいおい旦那ぁ……加勢しますかい?」

 ビシャスの呆れた口調に、アーノルドは背に熱が籠る。

「必要ない」

 刹那、アーノルドに放たれた数々の斬撃は虚空で留められ、アーノルドに届いた者は誰一人いなくなっていた。

「弾け飛べ」

 微かにグリスがアーノルドの言葉を聞き取るや否や、ビシャスの居た後方以外の全ての空間が押し出され、並み居る護衛兵達が悲鳴を残して宙へと吹き飛ばされていた。

「……空間の掌握だと……兄さん」

 グリスの言葉には応じず、黙して歩み寄るアーノルドに、かつての兄としての面影は薄く遠のいていた。

「兄さんも移植されたんだね、霊石を……核を……」

「応える義理はない」

 アーノルドが両手剣を頭上へと掲げる。地へと伏せ、肩口を抉られたグリスに抗う力は残されていなかった。ただ兄の幻影ばかりを追い、母のことを思い出していた。

「……すまない母さん……兄さんのこと、連れて帰ってあげれなかったよ……」

「散れ」

 空を切り、アーノルドの一撃がグリスへと迫る。走馬燈なぞ見ることもなく、グリスは実の兄が振り下ろす両手剣をただ見つめていた。切っ先が、グリスを割る刹那。

「兄弟で殺し合うな馬鹿野郎がっ!」

 ウィルの左拳がアーノルドの顎先へ命中し、その兜を打ち上げていた。露わになるアーノルドの素顔に、ウィルはグリスの面影を感じ奥歯を噛み締める。

「……間に合ってくれたか、ウィル少佐」

「おうよ。伝令一下、こういう時のための遊軍って奴さ」

 グリスの言葉に、親指を立てて応じるウィル。態勢を整え、対峙するアーノルドを見据えながら、ウィルは地を両足で踏み締め、大きく息を吐き出し咆哮を放つ。

「ビシャスッ!」

「……あらあら、厄介な御仁の出現で……」

 歩兵の頭部を持ち上げ、握りつぶしながらビシャスは呆れ顔でウィルを見やる。

「てめぇら、よくもやりにやりやがったもんだなぁ、あぁコラ」

 首を右へ左へと動かし、肩を回しながらウィルは無造作にアーノルドとビシャスへ距離を詰める。

「旦那、油断しないで下さいよ。見た目通りの化け物ですわ、あの御仁」

「……判っている」

 この戦場にて、初めてアーノルドとビシャスが進軍を止めた瞬間だった。

「ビシャス、お前は左から行け。俺は右から打ち込みそのまま指揮官を取りに行く」

「了解だ、旦那ぁ」

 言ってアーノルドは両手剣を突きの構えに持ち、ビシャスは唸りを上げて全身に力を込める。ビシャスの肉が膨張し、脚や首、両腕が見る間に隆起していく。

「てめぇには借りがあるからよぉ……最初から全力で行くぜぇ」

 ビシャスが姿勢を低く、下からウィルを睨み付けるように構える。自然とウィルやアーノルド達の周辺から王立国境団の兵達は距離を取り、グリスを囲うように防陣が敷かれる形となっていた。

「ぶっ殺してやるよ!モンドの兄貴の弔いになぁ!」

 ビシャスは弾けるようにウィルへと迫る。間を置かずアーノルドも追走し、ウィルは両手をだらりと垂らしたまま構えを取ることはなかった。

「覚悟を決めたか!くそ野郎がっ!」

 ウィルとビシャスの距離は瞬時に詰められ、両腕を振り被るようなビシャスの一撃がウィルを襲う。アーノルドもその後方からビシャスごと突き刺さんと言わんばかりの刺突を繰り出し、決着は一瞬で付くかのように見えた。だが――

「大振り過ぎだ、この筋肉馬鹿が」

 ビシャスの両腕がウィルへと直撃する刹那、踏み込んだウィルの両手がビシャスの両脇に命中し、互いの勢いもあってウィルの両手は完全にビシャスの身体へめり込んでいた。

「――ぎっ、いてぇいてぇいてぇよおおお」

 濡れ雑巾を絞り上げるように、ビシャスの両脇を体内から鷲掴みにしたウィルは、そのままビシャスを持ち上げると、がら空きになった胴体へ足を掛け、後方から追走していたアーノルド目掛け思い切り蹴り出していた。

「あっあっ!いでぇいでぇっていでぇ――ごぇ」

「――なっ!?」

 ビシャスの巨大な身体に視界を奪われ、アーノルドはウィルを見失い、声を漏らす。

「致し方なし……許せビシャス」

 右か左か後方か、何れかの方向に避けると踏んでいたウィルの予想は裏切られ、アーノルドは勢いを殺さぬままその両手剣でビシャスを貫き、ビシャスごとウィルへ刺突を繰り出していた。

「おいおいマジかよ!」

 ウィルは言うなりその場から真上へ跳躍し、アーノルドの刺突を間一髪躱し切る。頭上高く表れたウィル目掛け、アーノルドは両手剣を手放すと手甲に仕込んでいた小型の投げ槍を取り出し投げ放つ。投げ槍の飛来を察知したウィルは空中で身体を捻じり射線軸から逃れようと試みるが、左太ももに浅く命中し顔を歪ませていた。その様子を確認したアーノルドは不敵な笑みを浮かべる。

「決まりだな」

 地上へと降り立ち、身体に違和感を感じるウィルにアーノルドは無造作に歩み寄る。途中ビシャスから両手剣を引き抜き、ビシャスが呻いて痙攣している様を見下ろすと、

「貴様の身体は頑丈だ。しばらくすれば自己再生が始まる。大人しくしていろ」

「……ひでぇよ旦那ぁ……」

 アーノルドの非情な言葉に、地に伏せたビシャスは苦言を呈す。そのままウィルへと視線を戻したアーノルドは、顔を傾けながら問い掛けていた。

「お前の方はどうだ、ウィル=ヴィンハレム少佐。身体が痺れて呼吸すらままならないんじゃないか?」

 金属の擦れ合う音がウィルへと迫る。

「……確かに、視界は霞むし腕もろくに上がらねぇな……」

 ウィルの嗚咽に、アーノルドは満足そうに微笑む。

「騎士道とはかけ離れた邪道だがな、神経毒だよ、ウィル少佐。学のない男だ。先の戦いで何も学ばなかったのか」

 膝を付き、息が乱れる様子のウィルに、グリスが声を荒げる。

「ウィル少佐!距離を取れ!各員はウィル少佐を援護しろ!」

 俄かにざわつき始める周囲を他所に、アーノルドはウィルの眼前へと歩み寄り、両手剣を頭上高く持ち上げる。

「これは戦だ。卑怯などと思ってくれるなよ」

「……あぁ、気にしねぇよ」

 額から汗を滲ませ、アーノルドを見上げるウィル。

「戦場でなければ、惜しい男だよ」

 振り下ろされる両手剣に、ウィルは睨みを効かせる。

「惜しいね、全く、同感だ!」

 捻じり上がるように態勢を横にし、紙一重でその真一文字を躱したウィルは、止めの一撃を空振りし唖然とするアーノルドの顔面目掛け両腕を水平に構える。

「何故動け――」

 その言葉を言い終えることは叶わず、ウィルが放った全力の掌底に両耳を挟まれるように圧し潰され、アーノルドは苦悶の表情を浮かべていた。

「あんたも学のない男みたいだな。前回と同系統の神経毒を使うなんてナメてんのか?両手剣どころかその板金鎧のそこかしこに塗ってあったんだろうが、人を切り過ぎなんだよ。返り血で効果落ちてんぞ」

「……そんなことで……効かぬはずが……」

「対策済みなんだよ、小細工が過ぎるわお前ら」

 目や鼻から出血し、姿勢を崩すアーノルドにウィルは渾身の連打を浴びせる。

「――なっ、ぐぅううううおおおおああああ」

 首の付け根に手刀を落とし、喉元を突き上げ、顎を打ち抜き、膝を割る。板金鎧でも手薄な部分、衝撃を加えると負傷しやすい部位をウィルは容赦なく選択し、的確に打ち込む。両手剣を地に離し、吐血しながら虚ろな目と化すアーノルドの首を、ウィルは右手で軽々と持ち上げる。相当な重量を有する板金鎧に、ウィルほどではないにしろ大柄なアーノルドを片腕で締め上げるウィルに、周りを囲んでいた王立国境団の歩兵達は感嘆の声を漏らす。

 ウィルはグリスへと視線を移し、口を開く。

「拘束するか、ここで終わらせるか」

 決めてくれ。ウィルは最後まで言葉に出しはしなかったが、グリスには伝わっていた。

「……兄上の洗脳は、解けるものなのか。もし解けるというのであれば、時間を掛けても罪を償わせたい……母に一目……もう一度会わせたいと思うのは甘いだろうか」

 グリスの苦悩に、ウィルは目を細める。

「……どうだろうな、視てみるか」

 ウィルの不可思議な問いに、グリスはどう返答していいのか分からずに居た。

「視る……とは?」

「……あまり好きじゃねぇんだけどな」

 ウィルは左手を使って制服の襟を掴み、右胸と右肩の部位を露わにする。ウィルの右肩から上腕にかけて黒い入れ墨のような模様が二重三重に描かれており、それは右胸に繋がって一つの紋様を表していた。

 微かに痙攣を続ける右腕を見やりながら、ウィルは地に伏せ蠢くビシャスに注意を払いつつ、腰部の収納帯から特殊形状の短刀を取り出す。

「それは……短刀……いや、鍵か?」

 グリスの問いに、ウィルは顔を向けずに答えを返す。

「あぁ、見た目通りの……な!」

 刮目し、ウィルは逆手に持ち替えたその鍵を一思いに右肩へと突き刺す。グリスが息を飲み、囲んでいた王立国境団の歩兵達も一様に驚いた表情を見せる。何をしているのか理解していたのは、ウィル一人だけだった。

 プリシラから事前にウィルが配給されていたのは、幼少期から発現していたウィルの能力、右腕の特性を開放する三段封印用解除鍵。その使用を認められているのは、封印を施したヴェレンス当人と、ウィルだけだった。

 黒色に描かれた三段封印の紋様は赤く発光し、徐々に血の色に似た渋みをそこに刻み出す。右腕の痙攣は一層強さを増し、ウィルは眉間に皺を寄せていた。

「……心臓の直近下部、霊石が癒着してやがる……こいつを核としてアーノルドの全身に一定の信号を送り続けているな……一種の遠隔操作って感じか」

「……っ、それは真か!?」

「動作まで制御してる訳じゃねぇな。記憶の一部だけすり替えを行い続けてやがる」

「な、ならばその核を摘出すれば――」

 グリスの言葉を遮り、ウィルは更に奥を視ようと試みる。

「核の摘出……ちょいとリスキーだな……だとすればこの信号の送信元を特定し、止めちまえばおそらく――」

 ウィルの右腕の特性は、触れたものを理解し、経験を遡れる力。何を考え、何をし、どこから来たのか、その長短。何もかもを知ることが出来るため、ウィルにとっては面白みのない窮屈な能力だった。知りたくもないもの、視たくもない過去、そんなものを得なくとも、人は生きていける。知らないからこそ、分からないからこそ未体験の出来事は鮮明な色を生み出すのである。

 幼少期のウィルにとってそれは大層便利な能力であったが、いつしかヴェレンスに請い、封印するに至ったこの能力。まさか他者のために再び活用する日が来るとは、ウィルにとっても意外な出来事だった。

「送信元は近いぞ……これなら――」

 確信を得た直後、ウィルは自身の胸元に強い違和感を憶えた。アーノルドの板金鎧さえ貫き、ウィルの胸元まで達するその物体は細く、鋭利な数本の爪に見えた。

 ウィルにとっての誤算は、その視る行為について久しかったこと、視るのに集中し過ぎたことが発端だった。板金鎧ごと貫かれたアーノルドは大量に吐血し、ウィルも僅かに口の端から血が滲み出す。

「兄さん!」

 グリスの悲痛な叫びに、地に伏せていたはずの男が首を左右に振る。

「……ったく、旦那も使いもんになんねぇな……結局俺様が全部片づけることになっちまった」

 いつのまに起き上がっていたのか、ビシャスは立ち上がり、その鋭利な爪を伸ばしてアーノルドもろともウィルに奇襲を掛けていたのだった。

「てめぇ……」

 胸元に広がる濡れた感触に、ウィルは奥歯を噛み締める。

「旦那の騎馬隊もほとんど全滅しちまったみたいだな……これだから人間は使えねぇ」

 伸ばした爪を戻し、アーノルドの核を抜き去ったビシャスはそれを迷わず口に放り込む。一際大きくビシャスの身体は鼓動し、背中から無数の棘が生え出していた。もはやその様相は膨れ上がった肉というより、爬虫類に近い姿をしている。

「……まるで自分は人間じゃねぇみたいな言い草だな、ビシャス」

「そりゃそうさ、元は人間でもよ、ここまで来れば上位種よ。神にでもなった気分だ」

 例えばほら、とビシャスは姿勢を丸くし、大きく膨らんだ次の瞬間。

「こんなことも出来るんだぜ!」

 耳を劈くほどの爆発音に、ビシャスから生えていた棘が四方八方へと射出される。至近距離で不意を突かれた歩兵達は次々とその棘の犠牲になり、かろうじて反応したウィルと、護衛兵に庇われたグリスだけが無傷でこれを乗り切る。周囲に広がる嗚咽に、ウィルは態勢を整えながらビシャスへと視線を向ける。

「……っと、こいつは連発出来ねぇみたいだな……この辺にしとくか」

 ビシャスは無造作に爪を振るうと空間が切り裂かれ、瞬時に亀裂を生じさせていた。その淵を掴み、身を乗り出そうとする。

「逃がすと思ってんのか!」

 駆け出し、ビシャスを捉えようと試みるウィルだったが、繰り出した跳び蹴りは寸でのところで躱され、ビシャスは亀裂の中へと消えていく。

「そう急くなって……また遊ぼうぜ、ウィルさんよ」

 その言葉だけを残し、ビシャスと亀裂は完全に消失していた。

「……くっそ野郎」

 立ち尽くし呆然とするウィルに、ビシャスを追う手段は皆無だった。崩壊しかけた本陣と、屠られ累々と積まれる味方の死体。傷を負い、満足に動けない生還者。失うものばかりで、得られたものはあったのだろうか。ウィルは空を仰ぎ、拳を握り込む。

「兄さん!兄さん!」

「……グリスか」

 虚空へと意識を投げ出されたウィルを現実に引き戻したのはグリスと、アーノルドの声だった。自国の兵を薙ぎ倒し、ウィルに打ち破られ、ビシャスに瀕死の状態に追い込まれたアーノルドは、核を抜き去られたことにより自分を取り戻していた。

「……私は……私の騎馬隊は……」

 アーノルドの消え入りそうな声に、グリスは手を握る。

「全て我が軍にて、かの地へと送りました」

「……そうか。部下達には顔向け出来ないな……国民にも……」

 グリスの手を握り返し、アーノルドの眼には涙が溢れていた。

「異界は……恐ろしいところだったよ……私や……私の騎馬隊程度では何も……新たな可能性を見出すということは、新たな危険を孕むことになる。こんな単純なことに……」

 アーノルドの言葉に、グリスを首を振る。

「それがシルヴォリア家長男としてのお役目だったのでしょう。私には到底同じ真似は出来ません。兄さんのその果敢さが……父や祖父から受け継がれる情熱こそが、国を豊かにするのです」

「……ふ、そんなことを言ってくれるのは……お前だけだよ……グリス。私も随分、お前の冷静さに……助けられた……」

 一際大きく咳き込み、吐血を繰り返すアーノルドに、グリスは握る手の力を強める。

「私達は二人で一つ、一人の王なのです……どうか罪を償い、母の元へ……」

 涙ぐむグリスの懇願に、アーノルドは静かに首を動かす。

「如何に……私の意志ではなかったにしろ……私は随分と暴れ過ぎたようだ……かの地にて、仲間達に謝らなければならない……」

「で、ですが兄さん!」

「……移植された核を抜かれた時に……私の行き先は決まっていたのだよ……」

 アーノルドは言うとグリスの頬を撫で、前髪を整える。

「その傷……すまなかった……肩は痛まないか?」

「……いいえ、何もご心配には及びません」

「強く……なったな……母にも……上手く伝えて……おいてくれ……」

 アーノルドの目から生気が失われ、グリスは奥歯を噛み締める。

「……母に遺されるお言葉はありますか」

 グリスに問われ、目を閉じ黙すアーノルド。その息は細く、消え入りそうな弱さだった。両目の端から涙が零れ落ちる。

「すまない、と……身体に気を付けて……愛している……と……」

「……承知しました」

「あぁ……また皆で……朝まで飲み明かし……国の未来を語り……お前とよく行った森へ……狩りに……その弓……上達……したか……見せて……もら……」

 アーノルドの手から力が抜け、グリスの手を握り返すことも、それきり目を開けることもなかった。シーヴォリー王立国国王アーノルド=シルヴォリア。享年三十四。ハイドアウト平原の戦いにて弟王グリス=シルヴォリアに看取られ戦死を遂げる。グリスはもはや握り返されない兄の手を取り、小さく震えるばかりで、顔を上げ立ち上がることは叶いそうもなかった。

 ウィルはその光景に背を向け、一人胸の中で熱いものが込み上げてくるのを感じていた。アーノルドは先程まで自軍を崩壊させかけた倒すべき敵だった。処遇をグリスに任せ、ビシャスに先手を打たれる失態を演じたのは他ならない自分自身。どうすれば良かったのか、己の右腕は教えてはくれない。ウィルは自問する。何を失い、何を得たのか。思考は空回りするばかりで、脳裏にはアーノルドとグリスの母セレスの顔と、自身の育ての親であるヴェレンスの顔が、浮かんでは消えるを繰り返すばかりで、空虚な時間だけがウィルを包み込む。

 中央管理軍所属の通信兵が最新の戦況を伝達しに来たのは丁度その時だった。

「報告します!現在ハイドアウト平原に存在する敵勢力はほぼ壊滅。牙兵、軽装兵ともに散開し、組織的な動きは見られない模様です。敵主力と今も交戦中のアノン中尉に関して安否は不明、ヴェレンス大将を拘束している空間障壁は我が軍の人造兵器が現在全力で中和作業中との事です。以上になります!」

 ウィルとグリスに向けて通信兵は正対し、踵を返して現場へと戻っていった。ヴェレンスはともかく、アノンの安否が気になるウィルは焦燥を募らせる。それを察したか否か、グリスはアーノルドの手を離し、立ち上がってウィルに視線を送ると、頷き口を開いていた。

「行ってくれ、ウィル少佐。貴公にはまだやるべきことが残っている」

「……とは言ってもな。この現状じゃ……」

 周囲を見やり、陣形とはほぼ呼べない集団と化した王立国境団を鑑み、新たな敵の奇襲も想定すると残留するべきではないかともウィルは考えていたのだった。

「王立国境団を甘く見ないで貰いたい。街道及び林道に配した我が手勢を再編成し、すぐに戦線を復帰維持させる。遠慮は無用だ」

 肩口を抑え青ざめた表情のグリスだったが、眼光は鋭く、衰えを感じさせない。

「……大切な部下なのだろう。行ってやれ。私のように戻れなくなる前に……な」

 憂いを帯びるグリスの圧に、ウィルは頷くしかなかった。グリスに一礼し、アノンが交戦していると思われる方角に転身すると、ウィルは走り出していた。その背を見送り、再び膝を付き咳き込むグリスに救護兵が駆け寄る。

 兄が失踪したあの日、自分も彼のように走れば良かったのだと、今更ながらにグリスは思う。肩口の焼けるような痛みだけが、未だに兄と繋がっているような気がしてならなかった。

「早期に立て直すぞ……副官達をここへ招集、急ぎ指揮系統の再編成を行う!」

 そう言い放つグリスの言に、生き残った王立国境団の兵は声を荒げる。

「……私にもまだやるべきことは残っている……そうだよな、兄さん」

 グリスは傍らで事切れる兄アーノルドに視線を送り、小さく涙を流す。その涙は頬を伝い、ハイドアウト平原に一粒の痕跡を残していた。

 この日、この戦いに身を投じた王立国境団は総勢三千名。その内、軽傷から重体を含む傷病兵五百余名、殉職しこの地の英霊となった御霊は、九百十四柱に上ったことが確認される事となる。グリスの目から流れた涙は枯れ、その目には亡き兄の情熱が光を灯す。英霊よ、今は残された者達に一筋の光明を与えたまえ。かの者達を打ち破り静かな眠りが叶う、その日まで。

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