第2話

不潔なネットカフェに変な女が来たのは、それからさらにしばらくしてだった。

昼前に次の相手を待っている間、順番に個室の扉をノックする音が聞こえてきた。初めは店員なのだろうと流していたけれど、それにしては几帳面に回っている気配がした。すぐ隣の女の子にも何か話している。女の子は邪険に払ったようで、すぐに私の個室の扉も叩かれた。

「……はい」

声だけで答える。

「ごめんなさい、大学院で女性の貧困を研究している者なんですが……」

私は身構えた。

「もし違ったらごめんなさい。家がなくてネットカフェに連泊をしている女性に取材をして回ってるんです。お話しだけでも聞かせて頂けないでしょうか……。プライバシーはきちんと守ります。斎藤芙美(ふみ)と申します、ご協力頂けませんか」

律儀そのものの声色に私は少し気の毒になった。そして何故私がぎりぎりの生活をしているのを知っているのか、不思議に思った。

扉を開けると、予想していたよりも大人びた女が立っていた。

「すみません。修士論文のフィールドワークの一環で周ってるんです」

「どうして、私の暮らしが分かるの」

出し抜けの質問に、芙美は少し戸惑ったようだ。けれど聡い瞳を回してすぐに答える。

「ここら辺のネットカフェに家を持たない貧困層の女性たちが連泊していることは行政も把握してるんです。私はゼミの教授から聞きました。あとは……ネットの情報とか」

「ふうん」

アンダーグラウンドだと思っていた私の暮らしが、透かして見られていたことに微かな不快感を覚える。芙美は通路に立ったまま、次の言葉を探しているようだった。

「……私は頭も悪いし、研究に役立ちそうな話しは何もできないと思うけど」

「特別なことは話して頂かなくてもいいんです。これまでどんな生活をしてきたのかとか、これからのことをどう考えているのかとか……つまり、いつも考えてることなんかを話して頂ければいいんです。どうですか」

そんなことを聞いて周って何が分かるんだ、と私は芙美を眺める。切れ長の瞳がいかにも理知的に見えて、彼女の後ろには無数の本棚が見えるような気がする。

iPhoneが震える。次の相手だ。

そっと画面を眺めると、電車が人身事故に巻き込まれてしばらく動きそうもないと送られていた。今回の相手も大学生だ。友樹と無理やりしてから、変な噂でもばら撒かれたのか最近はやたら盛った大学生ばかりが相手になる。自然と収入も目減りして、私はさらに苦しくなっていた。

「……面白いことは何も話せないし、女のあなたが聞くと嫌なことしかないわ」

「なんでもいいんです。綺麗な話しを聞こうなんて思ってませんから。愚痴のはけ口みたいな、そんなものとして見てもらっていいですから」

芙美も食い下がる。私の部屋は角部屋だった。このネカフェはほぼ回ったのだろう。もしかするとこの辺りのネカフェはあらかた周り尽くしたのかもしれない。芙美の硬い表情を眺めて、私は他人事のように思った。

「ここで話しにくいのでしたら、お茶でも飲みながらどうですか。報酬までは払えませんが、お茶代くらいなら出せます」

私はそこで初めてまともに芙美の顔を見た。育ちの良さそうな、色の良い頰をしている。滑らかな曲線の眉毛が真面目な人柄を描いたようだった。

どうしてこんな人がわざわざ吹き溜まりにやってくるのか、まだ私には分からなかった。

「そうね、お茶代とお昼代出してくれるならいいわ」

私は卑屈な表情をしているだろうと思った。あの男たちと同じような、弱いところを握られた人間特有の皺。

「えぇ、もちろんです……ですが、色々聞かせてもらいます」

毅然とした口調に、一瞬覆面警察官ではないかと思った。

だが薄い腹が鳴った。朝から何も食べていない。飲み放題のドリンクについているコーンポタージュで空腹を騙してきた。

安いものでもいいから、ちゃんとしたものが食べたかった。

「じゃあ、行きましょう」

背に腹は代えられない。テーブルの上には紙コップが散らばったままになっていた。

芙美がそれに気づいたのかは分からない。だがネカフェから出ると、完全に彼女のペースになりつつあった。



「それで……なにから話せばいいの」

私は上目遣いで芙美を見た。彼女の手元にはコーヒーカップが一つと、分厚い大学ノートがあるだけだ。それが暗黙の戦闘体制に見えて嫌な気がした。

「そうですね……なんでもとは言ったけれど困りますよね、ふふ。それじゃあ、高木さんはどんな子どもだったんですか?」

思わぬことを聞かれて私はしばらく黙った。食べ終わったばかりの皿に浮かんだ油と目が合う。思考の糸を巻く。

「……別に普通の子どもだったと思う。人見知りもしなかったから友達は多い方だったし、勉強も嫌いじゃなかったから成績はいい方だったわ。親の進める中高一貫校にそのまま行って……」

大学の名前を言うと、芙美は少し目を見開いた。ある程度名の知れた国立大の名前が出てくるとは思わなかったのだろう。

「ご両親はどんな方だったんですか?」

「母はどこにでもいる専業主婦、父親も普通のサラリーマンよ。でもどちらも教育には熱心だったかも知れないわ。習い事もよくさせられたし。一人っ子だったから余計にそうなったのかも」

芙美はさらさらと大学ノートに私の言葉を書きつける。そこからゆるゆると過去が立ち昇るようで、私は思いつくまま話し始めた。



学校から帰ると、母が必ず家にいた。それは私の帰りを待ちわびているのとは少し違う。私を待ち構えていて、習い事に送り出すという方が正しかったように思う。

ピアノや習字、そろばん……小学校高学年になるとそこに学習塾が加わった。母が一番熱を込めたのが学習塾で、次第にその他の習い事はやめさせられていった。元々自分から始めたいといったものではなかったから、そこに未練はなかった。

父の影は薄かったけれど、一度だけ学習塾を放り出して友達の家で遊んだ時だけは烈火のごとく怒られた。それが父の父親らしい思い出だ。勉強はどちらかといえば好きな方だった。中高一貫の進学校を経て国立大に進学した。特に夢があったわけではない。ただなんとなく教職課程は取っておいた。両親もなんとなく、私のことは教員になる程度に思っていた節があった。大学進学を機に下宿して、初めて男の子とも付き合った。中学や高校時代に付き合った男の子も何人かいたけれど、いかにも温室育ちのお坊ちゃんたちばかりで手を繋いだりする以外は何もなかった。最初に「そういうこと」をした彼氏は、強引に勧誘されたサークルの先輩だった。……あとでそのサークルが学内でも有名なそういうサークルだと知ったけれど、遅かった。新歓だと言われて参加した飲み会では男たちにぐるりと取り囲まれて、私を初め新入生の女の子たちは一様に戸惑っていた。その中でも鼻の効く女の子の何人かは隙を見て抜け出していた。私はぐずぐずとして、結局最後までそこにいた。お酒も随分飲まされたし、その間さりげなく胸や尻を触られていたような気もする。

大分酔って、そのまま男たちの何人かにホテルに連れ込まれた。そこで私は半ば犯されるようにして処女を喪った。口の中に生臭い肉の塊みたいなものを突っ込まれて、胸の上には男が折り重なって腰を振っている。人数はもう覚えていない。でもとにかく、そこで私は自分が綺麗なものではなくなったことを実感した。

最中から、涙が止まらなくなって、男たちのうちの1人がそれに気づいて優しくしてくれた。その男も結局は他の男たちと同じように避妊もせずに私に突っ込んだのだから同じなのだけれど、免疫のなかった私はそれで彼だけは違うと思い込むようにしたのだ。

その彼が、付き合った先輩だった。

卒業するまでそのサークルにはいたし、その先輩とも付き合いは続いた。彼が1年先に就職して社会に出ると同時に自然消滅したけれど、それはそれで良い思い出になっている。

最初のセックスがそんなのだったから、私はセックスに対してあまり綺麗なイメージを持てないでいる。鍵穴を無理にこじ開けようとするような、そんな無粋なイメージしか持てないでいる。

先輩と別れた後も、何人かと付き合ったけれどそれは恋人というよりは、セックスフレンドに近い関係だったと思う。親との交渉は正月とお盆くらいにしかなく、女友達もあまりいなかった私は自然と男の輪の中に身を置くしかなくなった。それも対等なものではなくて、私は対価として自分の身体……セックスを差し出していたのだと今になって思う。

卒業するまでは、そんな歪な男女関係を続けた。

結局教職は取らなかった。介護実習がどうも嫌で、途中で投げ出してしまったのだ。3年の夏に、実家に成績表が送られて目敏い両親はそれに気づいて電話をかけてきた。私は何も考えていなかった。どこかこの学生生活が永遠に続いていくような気がしていたし、社会はまだ遠い世界の話しだった。

私は口から出まかせを言った。ある有名な総合商社の名前を出して、そこにどうしても就職してみたくなったから、もう教員にはならないのだと嘘をついた。なんでもよかった。たまたまついていたテレビのCMがその総合商社だったから、つい名前を出したに過ぎない。だから鉄道会社でも航空会社でも、葬儀社でもなんでも答えていたと思う。

いよいよ就活をする段になって、ようやく私は愕然とした。箸にも棒にもかからない、とはこういうことを言うのだと思った。履歴書を山のように書いて、山のようにある企業に送りつけても色よい返事はなかった。

今思えば当たり前だ。やりたいことも、将来の設計もなにもない。中身のない履歴書を拾うほど、企業は暇ではないのだから。私の大学名に釣られた企業から時折返事があったけれど、最終面接までこぎつけたことはなかった。そのまま卒業間際まで私はぐずぐずとしていた。見かねた両親が、知り合いの派遣登録会社に私をねじ込んで、ある大手企業の事務職に派遣されることに決まった。

女の子は結婚するから、と両親は言い聞かせていたのかもしれない。だが母親は明らかに落胆していた。父親も新聞から顔を上げることもなく、「今は不景気だしな」とだけ独り言のように言った。学生最後の長期休みはアルバイトに明け暮れて、ろくに家に帰らなかった。卒業論文も書かなかった。

そのまま私は大学を卒業した。



「……それで、その会社はいつまで続けたんですか?」

芙美の声に私は顔を上げた。

「ええと……25の時まで。それまで転々としていたわ、色んなところを。派遣だから当たり前なんだけど」

私は少し笑った。芙美も少し表情を和らげた。

「リーマンショックってあったでしょ。あれの、派遣切り。それから家賃も払えなくなって、かといって仕事は決まらないし親に頼る気はないし……自分の身体を男に差し出すことは別に抵抗がなかったから」

「ええ」

芙美は頷きながらメモを取る。その乾いた頷きに、本当にこの人は理解しているのだろうかと、ふと私は思った。

「今思えば、最初のセックスから私の躓きは始まっていたのかもしれないわね……」

芙美は無言だった。

あんな世界があることを、男があんな風に豹変することを、両親はおろか大人たちは誰も教えてくれなかった。

「アパートを出てから、ほんの少しだけの貯金を握ってネカフェに連泊を始めたの。それで……」

「身体を売り始めた?」

「そう」

私はぼんやりと外を眺めた。

大通りの歩道にはスーツを着た男女が交差している。駅の改札口からは無数の人がひっきりなしに吐き出されては吸い込まれていく。私もつい何年か前まではあの中にいたのだと思うと、自分が生きながら屍になってしまったような気になった。それは哀しいというよりも、虚しい感じがした。誰も私を知らないのだ。両親は多分私の居場所を知らない。私も教えるつもりはない。

「……身体を売り始めたきっかけは?」

「そうね、よくは覚えていない。でも、夕方か何かのニュース番組の特集で見たのよ。身体を売る女たちのことをね……なんでだか知らないけれど、あぁこれだなって思ったの。今さらまともに私を拾ってくれる所なんてないもの」

「普通に……就職活動をしようとは思わなかったんですか?」

芙美の声に、責めるようなところはない。私はそれを不思議と好ましく思った。

「じゃあ、逆に聞くけど普通ってなによ」

「それは……」

「普通に大学まで行って、普通にそこそこの会社に勤めて、女だったら適当に何年か働いて、結婚して退職して子どもでも産んで……そうやっていけば普通なの?」

芙美は困ったような顔つきをした。滑らかな眉毛が綺麗な八の字型になっている。私は冷めた気持ちでそれを眺めた。

今の自分は普通じゃない。

どこでボタンを掛け違ったのか、自分でも分からなかった。もう30前だというのに、小娘よりもだらしのない人生を送っている。

「何かが間違っている時ってさ、どこか一部分だけが間違っているんじゃなくて……もう最初から全部間違えているのかもしれないわね」

私は力なく笑った。

「あなたは、院を卒業した後どうするつもりなの」

そこで初めて、私は芙美に質問の矛先を変えた。芙美は少し意外な顔をした。

「理想は大学にこのまま残って研究を続けることですけど……私はそこまで優秀じゃないから、一度大学を出ると思います」

私は芙美が差し出した彼女の名刺を眺める。そこそこ名前の通った私立の大学院の所属であることが印刷されている。

「ポスドクをしながら、論文を書いたりいずれは海外に留学をしようと思ってます……でも両親は、特に母親は企業に就職して欲しそうですけどね」

芙美は苦く笑った。

「ポスドクなんかしても、稼げないでしょう」

「えぇ、年収は200万くらいだし……賞与も昇給もありませんしね。この国では文系の院卒なんて、本当に食えないですしね、あはは……」

私は黙ってウーロン茶をすすった。安い味がした。

彼女のこれからの成り立ちも、そう私と変わらないような気がした。身体を売るか売らないかの違いではないか。でもこの違いは、国境線のように徹底的に違うのだ。

そういう境界線を通して、私は芙美を見て、芙美もまた私を見ている。それが彼女を学者にさせるし、私を研究対象にもさせるのだろう。

「……でも、あなたはまだ社会から見える存在だから食えなくてもまだマシよ」

大通りを行き交う人々を眺めながら、私はなんとなくそう言った。社会という単語に思い入れも信仰もないけれど、不意に口から出てしまった。

「結局、全部が自己責任なんだから……私なんて箸にも棒にもかからない存在なんだもの。まぁ、やってることがやってることだからそれも仕方ないことだけれど」

余裕のない社会の中で、まともでないことをやってまで生活している大人を庇うほど、この世界は優しくない。それを芙美は研究したいのかもしれないけれど、私にはお遊びにしか思えなかった。

「……どうやって、相手を見つけているんですか」

「どうって……普通にネットで相手を募るのよ。年齢は関係なく……。中年のサラリーマンもいるし、大学生もいるし。基本は口だけ、相手によっては手だけの時もあるけど……私は甘々だから相手がタイプの人だったりすると本番も許しちゃうわ。もちろんそのぶん割増にはするけどね……」

芙美は顔をしかめることなく熱心に聞き入っている。これこそが、彼女の聞き出したいことなのだと思った。

「初めて、男性を取ったときはどうだったんですか」

「どうもこうもない。処女ってわけでもないし、初めての経験が何しろレイプみたいなものだったから、別にって感じよ。お金は貰えるし、私もやることは分かってるから……こんなものかって感じだった」

私は淡々と話す。羞恥も嫌悪もない。林檎が木から落ちるように、「そんなものだから」と事実を芙美に話してみせる。

「無理やり襲われたことだってあるけど、そのぶんふっかけてやったからおあいこじゃないかしら。怖いと思ったことも、不潔だと思ったことは……さすがに少しくらいはあるけれど、私はこれで生活をしてるんだもの。生活保護なんかに頼ってなくてもね……それだけで私は偉いと思ってる、実わね」

芙美は相槌を打つこともなく聞き入っていた。私の何がそう彼女を真面目にさせるのか分からなかった。

「今日はありがとうございました」

話しは唐突に打ち切られた。十分資料になるだけのことを私がゲロッたのだろうか。少し非情な気配すら感じつつ、私も頷いた。

「年明け1月の17日に修論発表会があるんです。一般の方も観覧できるので是非来てください。……事例研究として、お話し頂いたことの一部は発表することになると思いますが……」

「まぁ、何を話してもどうでもいいわ」

芙美はホッとしたようだった。この許可こそが、今日の彼女の一番の仕事らしかった。

「またご連絡しますね、まだあのネカフェにはいらっしゃいますよね?」

「えぇ、多分ね」

芙美はなんとも言えない顔をして、頭を下げた。

「では、また」

私と芙美は手を振って別れた。駅の改札に吸い込まれていく背中を眺めて、これから追い込みが始まるのだろうと思った。

芙美から連絡が来ることはなかった。

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