第4話 水色の封筒

 走の家は夜明け前と同じように、薄青い暗がりの中にしんと沈んでいた。

 雨戸は相変わらず閉まったまま。小窓からの漏れ明かりはおろか、いつもなら灯っている門灯すらも消えたままだった。

「おかしいなあ」

 スマホを取り出して時間を確認する。午後七時四十五分。いつもなら走ママと走と私、夕食のテーブルを囲んでわいわい話しながら料理に舌鼓を打っている頃だ。

 走のパパはそれより一時間ほど遅れて、いつもなら毎晩八時半ごろに帰宅する。そこまで待っても誰も帰ってこないなら、いよいよ本当の緊急事態だ。

 私は右手に握りしめたままのスマホを見つめ、小さく震える指でロックを解除する。

 ドキドキしながらメッセージアプリを立ち上げて履歴を見るが、昨晩展望台へ行く待ち合わせ場所の確認以来、走からのメッセージはパタリと途絶えている。

 ためらった挙げ句、『元気?』と一言だけメッセージを送ってみる。

 でも、いつまで経っても返事はおろか既読さえ付かなかった。

 無言のまま俯いて立ち尽くし、いじいじと両手でスマホを転がす私をいい加減見ていられなくなったのか、先生は大きく咳払いをすると私の右肘を軽く叩く。

「なあ、良かったらそろそろ晩飯を食いに行かないか? たまにはおごってやる」

「でも……」

 私は二階にある走の部屋の窓を見上げ、再びスマホの液晶画面に目を落とす。

「お前も腹減ってるだろ? 行こう」

「もう少し! あと十分だけ待って下さい」

 私は祈るように液晶画面を見つめ、無言のまま小さく頭を振る。小さなため息が返事の代わりに戻ってきた。

 そんなやり取りを何度も重ね、ようやく街灯の向こうに人影が現れた時には既に午後九時近かった。

「走パパ!」

 叫ぶようにそう呼びかけた私の声に、なぜか彼は困ったように眉をしかめ、そばに立つ真弓先生の姿を認めて驚いたように立ち止まった。

「やあ、ナツ」

 そう言って小さく笑う走パパの表情は、なんだかとっても疲れているように見える。

「今日は家に誰もいないんだよ。悪いんだが………」

「走パパ、走のこと、教えてくれませんか?」

 祈るようにそっと呼びかける。でも、何度頼んでも彼は最後まで首を縦に振ってくれなかった。


「先生、私、これからどうしたらいいんでしょう?」

 深夜のファミリーレストラン。真弓先生に引きずるように連れてこられ、ほかほかと湯気を立てるミートドリアを前に私は途方に暮れていた。

「そうだな。とりあえず、お前はまず飯を食うべきじゃないかな」

 私の向かいには、ナイフとフォークを構えた真弓先生。三段重ねのパンケーキを瞬く間に片付け終え、満足そうな顔でうんと頷いている。

「いえ、そうじゃなくてですね……」

「お前の親父さんが帰ってくるまでの食費は貸してやる。とりあえずそれで飢え死にはしないだろ?」

「あ、ありがとうございます」

 両手をひざに置いたまま小さく頭を下げる。

「まあ、あんまり思い詰めないこと。もし一人で寂しいなら、私が添い寝してやろう」

「え! それだけは〝全力で〟お断りします!」

 両手を思いっきり広げ、慌てて首をぶんぶん振る私にニヤリと笑いかけ、

「うん、お前はそのくらいの方がいいな」

 目を細めながら頷かれてしまう。

「からかわないで下さいよっ! こっちは真剣なんです」

「私だって大まじめだぞ。お前達はいつも二人でワンセットだったから、急に一人になって必要以上に不安に感じてるだけだ」

「そうでしょうか?」

「そうだよ。とりあえず気を楽に持て。走のお父上だって、時間を置けばもう少しちゃんと話をしてくれると思う」

「でも、あんな走パパ見たの初めてで……」

 そこまで答えて、ふと、引っかかる。

「先生、本当は色々ご存じなんですよね?」

「知らない。仮に知ってても本人や親御さんの許可なしにこれ以上は話せない」

 感情を押し殺した無表情で淡々と返される。ああ、やっぱり先生は何か知っているんだ。

「お願いします。本気で心配なんです」

「……悪いな」

 真弓先生は私から目を逸らし、窓の外に流れる車のテールランプをぼんやりと眺めながら黙り込んだ。

「ま、私から言えるのは……」

 しばらく気詰まりな沈黙が続いた後、真弓先生はそのままの姿勢でぽつりとつぶやくように口を開く。

「お前にとっても試練だが、ヤツにとってはもっと深刻だ。願わくばお前は…いや、せめてお前だけでも、最後までヤツの味方であって欲しい。ヤツを支えられるのはきっとお前しかいないだろうから」

 そう言う先生の瞳は、まるで窓の外の暗闇を映すように漆黒に揺れていた。

「……先生、それは一体どういう……?」

 でも、真弓先生はそれ以上答える事はせず、両手をパンと打ち合わせると不意に表情を緩めた。

「さあ、せっかくだから冷めないうちに食え。食ったら家まで送ってやる」

 それは、打ち明け話終了の合図。これ以上はもう何も話してくれないのだろう。私は不安で張り裂けそうな胸を抱えたまま、無理矢理にドリアをかき込んだ。

 味なんて全然わからない。まるで泥を食べているみたいだった。


 目が覚めると太陽はもう空の半ばに達しようとしていた。

 結局昨夜はいつまでも眠れなくて悶々と過ごし、ようやく眠気がさしたのはもう空が白み始める頃だった。

 おまけにようやく眠れたと思ったら得体の知れない悪夢ばかりで、寝覚めはもう最悪に近かった。

 頭の芯が、まるで粘土でも詰まっているかのように重く、頭が回ってない感が半端ない。

 机に放り出していたスマホで時間を確認すると、既に十一時近い。夏休みじゃなかったら大遅刻確定だ。

「あ~」

 ボサボサの頭を手櫛でかき回しながら階段をドタドタと降り、冷蔵庫からミネラルウォーターの瓶を取り出すとそのままごくごくとラッパ飲み。何気なくテレビをつけると、画面の中ではまるで青空に刷毛でさっと描いたような一筋の雲がどこまでも伸びていくのが映し出されていた。

「何?」

 慌ててリモコンを取ってボリュームを上げると、寝起きには辛い突き抜けたようなテンションのナレーションが入る。

『先進レーダー衛星、だいち四号を搭載したH-Ⅲロケット三号機は、本日午前七時三十七分、種子島宇宙センターから無事に打ち上げられました~っ! ロケット各段は正常に燃焼、いよいよ衛星の分離ですっ!』

『H-Ⅲ型ロケットは日本が独自開発した大型ロケットで、打ち上げコストをこれまでの主力、H-ⅡA型の半分にすることを目標としているんですね。初号機の失敗でだいち三号を失い、日本のロケット開発は一時暗礁に乗り上げましたが、今回の打ち上げは……』

(ああ、そう言えばそうだったなぁ)

 数日前、走が妙にキラキラした瞳で熱く語っていたのはこれだったかと今さら思う。

 日本のロケット打ち上げではテレビの前に正座して可能な限り生中継ライブを見るのが走の習慣で、テレビ中継がないときはネット中継を探し回る。私も過去に何度か付き合わされた。

 小学二年生の夏、H-ⅡA型ロケットの打ち上げを種子島でたまたま目撃して以来、走はそれまでまったく興味がなかった所からいきなり重度のロケットオタクに変貌したのだ。

 自分の手で市販のペットボトルロケット組み立てキットを作って飛ばすだけでは飽き足らず、自分で部品を集めて身長ほどもある多段式のペットボトルロケットを組み立てたりもしていた。

 まあ、自分で設計したロケットがちゃんと飛ぶことはごくまれで、毎回何かのトラブルで失敗しては修理するの繰り返し。そばで見ていて正直何が面白いのだろうとずっと思っていた。

「ロケットかぁ」

 再び画面に目をやると、CGで作られたらしい人工衛星の画像が、はるか眼下に地球を眺めながらゆっくりと回転を始めるシーンが映っている。

 実を言うと、私自身はロケットについて全然興味がない。こんなCGを見せられても何が何だかさっぱりわからない。ナレーションが順調なんだと言っているから、ああそうなんだろなあと思うレベル。

 適当なところで切り上げてほかのチャンネルをザッピング。大して面白そうな番組もないのでさっさと電源を切る。

 途端に家の中は静まりかえった。

 ダイニングの椅子に座り込み、肩を落としてふうとため息をつく。

 もう、どうなんだろうこれは。何を見ても何を聞いても、すべて走に思いが至る。

「やっぱり駄目だ、私」

 握りしめたままのスマホをロック解除し、LINEの画面を改めて確かめる。相変わらず既読すら付いていない。

『お願い、走、返事してよ』

 重ねて送ったメッセージにも、いつまでたっても既読は付かない。

 呆けた頭でしばらく画面を見つめた後、私はもう一度、はあーっと深いため息をつき、勢いをつけて階段を駆け上がる。

 パジャマを脱ぎ捨て、制服を着る。

 髪をとかし、後ろ頭の高い位置できゅっと強めにまとめると、両手でパンと頬をはたく。

「よっし!」

 当たって砕けろ。

 真弓先生か、走パパか、走のことをもう一度ちゃんと訊こう。でないと、私はどこへも進めない。

 そう決心して玄関を出た瞬間、ポーチにたたずんでいた人影に激突しそうになって慌てて立ち止まる。

「あ! 走パパ?!」

「ああ、ナツか」

 走パパは苦笑じみた表情を浮かべ、左手にぶら下げた小ぶりなボストンバッグを探って私に一通の封書を差し出した。

 パステルブルーの洋封筒。受け取ってみると思ったよりかなり厚みがある。

「何ですか? これ?」

「ああ、走から預かっていたんだ。君に渡してくれってね」

「えっ!」

「本当は昨夜渡そうと思っていたんだが、ほら、先生もいらっしゃったし、ちょっと渡しそびれてしまって……」

 言いながら照れたように薄い笑みを浮かべる。

「じゃあ、確かに渡したよ。ああ、あと、しばらくうちは留守にするから。急な話で悪いんだけど、当分夕食は自分でなんとかしてくれるかな?」

 そう言いながら、胸ポケットからもう一通、こちらは普通の白い長封筒を取り出して反対の手に強引に握らせるようにすると、

「迷惑かけて済まない。これは返しておく。じゃあ、私は急ぐから」

 そのままくるりと背を向ける。

「あ、走パパ!」

 慌てて呼び止めるが、彼はまるで私から逃げるかのようにそそくさと階段を下り、待たせてあったタクシーに乗り込んであっという間に私の前から姿を消してしまった。

 あっけにとられて何も言えないまま、車の姿が暑さで蜃気楼のように揺らぐ景色の向こうに消えていくのをただ呆然と見送る。

(もしかして、避けられた?) 

 私はその事実にちょっとだけ傷つき、眉をしかめながら両手に一通ずつ渡された封筒に目を落とす。

 よく見ると後から渡された長封筒には封がされていなかった。私は折り返し部分フラップを指でつまんで中を覗き込み、数枚の一万円札が入っているのに気付いて思わず「うわっ」と声を上げる。父が星川家に渡したであろう、私の一ヶ月分の食費が丸々入っていた。

「どういうこと?」

 首をひねりながら独りごちると、とりあえず長封筒を二つ折りにしてポケットにねじり込み、もう一通の洋封筒を二度、三度と裏返してみる。

 こちらはきちんと封がされ、表にはシンプルに「ナツへ」と、それだけがいかにも走らしい几帳面な筆跡で書かれている。そして裏には右下に小さく「走」と、こちらもたった一文字だけがポツリと書かれていた。

 私は何だかそれだけで胸が苦しくなり、ペーパーナイフを求めて再び玄関に駆け込んだ。

 ローファーを蹴り飛ばすように脱ぎ捨て、リビングのローボードに飛びつくように駆け寄ると、引き出しからペーパーナイフを取り出して立ち上がる。すぐに封を切ろうとしてナイフを握る自分の手が小刻みに震えているのに気付く。

(落ち着け、私)

 そう胸の中で自分に言い聞かせながら、ダイニングテーブルに封筒とナイフを置き、胸に両手を当てて大きく深呼吸。

 何度かその動作を繰り返すうちに、ようやく手の震えは収まってきた。

「よし!」

 改めて覚悟を決めると、右手でペーパーナイフを慎重につまみ上げ、封筒の隙間に差し込もうとしてふと、手を止める。

(ところでこれ、本当に走が書いたのかな?)

 考えてみると、私はこれまで一度も走から手紙のたぐいをもらったことがなかった。

 年賀状やクリスマスカードを両家でやり取りする習慣もない。何か伝えたい事があれば直接話す方が手っ取り早かったし、実際、これまではずっとそうしてきた。

 ペルセウスの夜、走が姿を消して以来、星川家はずっと無人だった。もしもこの手紙が本当に走の自筆だとして、こんな分厚い手紙を書くほどの時間はなかったのではないかと思う。

 だとすれば、この手紙はずっと以前から用意されていた事になる。それはそれで結構凹む。

 何だか封を切るのが怖くなってきた。

(それに……)

 走パパは旅行にでも出かけるようなボストンバッグを抱えていた。走も一緒に行くのだろうか? だったら、どこへ? なぜ?

 多分、答はこの封筒の中にあるのだろう。

 私はもう一度大きく深呼吸をすると、息を止めて一気に封を切った。

 ギチギチに詰まった分厚い便せんの束を破かないように慎重に抜き取り、ゆっくりと開く。


〝ナツ、僕のことはもう、忘れて下さい〟


 目に飛び込んできた最初の一行だけで、私は全身から力が抜けるほど打ちのめされた。

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