第6話 夜と話をしたこと

「ごめん」


 まず、僕が謝った。何度でも言わなきゃいけなかった。それは、あの時の態度についてだけではない。僕がこれまでずっと、長瀬夜子に嘘をついていたことについてだ。


 長瀬は影のまま、ゆらゆらと夜風に揺れていた。


「ごめん、長瀬。僕は……」

「三田村くんは、悪くない」


 掠れた声が、確かに僕の名を呼んだ。


「忘れたつもりだったのに、そんなことなかったね」


 微かに風が吹くたび、長瀬の姿は頼りなげに消えそうになる。


「また猫になっちゃったんだ。早く戻らなきゃ」

「長瀬が戻ったら戻るよ」


 私は、と影は何か言いかけて、そしてつらそうにしゃがみ込んだ、ように見えた。


「長瀬。僕は、友達だよって言ったのに、その時からずっと嘘をついてた」


 尻尾が僕の気持ちに応じてへにゃりと垂れる。長瀬は何も言わない。


「長瀬のことが好きなのに、隠してた」


 僕の一世一代の告白に対する長瀬の答えは、しかし伴や細野と同じものだった。


「知ってた」


 道路を車が通り過ぎて、ヘッドライトの光は影をはっきりと映し出す。長瀬は歩道から土手の方に少し進んで、コンクリートの斜面に腰を下ろした。僕も隣に座る。


「三田村くんが私をどう思ってるか、だいたい知ってた。私のことを心配して、黙っていてくれているのを知ってた。昨日だって、すごく悩んでるのを知ってた。悪いのは私」

「なんで長瀬が悪いんだよ」


 だって、と涙に揺れた声はこう言ったのだ。


「私だって三田村くんが好きなのに、ずっと黙ってた」


 僕は全身の毛を逆立てて目を大きく見開いたまま、しばらく固まっていた。こういう気持ちを表すことわざも、思い出せそうで思い出せなかった。雷がどうとかいうやつだ。


「僕を?」

「だって、変身の話ができて、ずっと一緒にいてくれて、面倒な話を聞いてくれて、私のこと考えてくれて。……周りに何かあったらいつも一生懸命で。友達思いで」


 今だって、私を怖がらないでいてくれる。影の女の子はそう言って震えた。僕は——僕は、いつも夜に散歩しながら、この空気に溶けてしまいたいと思っていた。長瀬夜子は、僕が出会った中で一番夜に似た女の子だった。やがて実はそんなでもないことも知ったけど、それでも僕はいつだって長瀬と夜の闇が好きだった。


「あのクリスマスの時から、ずっと好きだった」


 夜の方も僕を好きでいてくれていただなんて。しかも、僕とまるで同じタイミングでだ。


「でも、私はもう恋愛とか嫌って言っちゃったから。三田村くんはそんな私を大事にしてくれたから。だからダメなの。これ以上は」


 ごめんね、ややこしくしてごめん。考えてたらぐちゃぐちゃになっちゃった。長瀬はそう言った。この子はずっと、自分の気持ちと、一度言ってしまったこととの間のギャップに苦しんでいたんだろうか。猫の僕はもうほんの少しだけ長瀬の横に寄った。


「……何から言っていいのかわかんないけど。長瀬は……んんんと」


 人間だったら頭を掻きむしっていたくらいの気持ちだ。僕は長瀬を今落ち着かせることと、元に戻して帰ることと、彼女の恋の詳細を聞くことと、全部をどうにかやらねばならないのだ。それも、たったひとりで。猫の僕はスマホを持っていなくて、他のみんなに連絡ができない。


「僕は長瀬が好きだから」


 まずはそれを言った。怖がらないし、嫌いにならないから。大丈夫。それだけは伝えないといけなかった。


「他に誰か怖がったり……してたな」


 大崎さん、と彼女は呟いた。繁華街で影の長瀬に遭遇した女子だ。正体を知らないのだから無理もないが、あいつ面倒なことしやがって、とは思ってしまった。


「あと、前の学校の友達」

「……それは、初めて聞いた」


 長瀬の転校前の話を、僕はほとんど知らない。友達が少ないながらもいたらしい、という程度だ。


「私がこんな風になったのは、お母さんのことがあってしばらくしてから。でも、高校に入って一度少し落ち着いたの。千花ちゃんって友達ができたから。元気な子で、私だけと仲良しってわけじゃなかったけど、よく気にかけてくれた。だから、ひとりでいる時よりは全然寂しくなかった」


 今で言うと細野と近い関係だったのだろうか。僕は孤独に本を読むばかりだった寂しそうな長瀬を思い出し、心に冷たい風が通っていくような気持ちになった。


「でも、たまに辛くなるとこうなって、夜の街を散歩してた。暗い道を選んだから、それほど気づかれることもなかったんだけど……その時は見つかっちゃって。塾帰りの千花ちゃんに」


 その町は僕らの住む場所よりも北寄りで、しんしんと雪が積もった冬の夜のことだったという。短い悲鳴がして、彼女は自分が街灯の真下にいることに気づいた。辺りは白く光を反射して明るかった。大好きな友達は、恐怖に顔を引きつらせて、すぐに逃げ出した。無理もないな、と真っ黒な彼女はそう思ったという。


「次の日学校で、黒板に大きく絵が描かれてた。お化けって書いてあった。横で千花ちゃんが、すごい顔していろんな話をしてた。口が裂けたとか、笑い声が、とか。私は千花ちゃんを見ただけなのにね」


 僕はその千花ちゃんという女子を知らない。どんな声でどんな顔なのかももちろん知らないし、きっと生涯会うこともないだろう。ただ、クラスの話好きの女子を何人か合成して、イメージをすることはできた。


 ねえねえねえちょっと聞いてよ、お化け! 昨日見ちゃった。すごいよ。こんな風に真っ黒で、口だけ赤いの。目が光ってた気もする。怖いよね。どうしよう、明日からあの道歩けないよ。気持ち悪い。あっ長瀬さんだ。聞いて聞いて!


 僕は長瀬ではないが、自分だったらそんな場にいたいとも思わないだろう。


「……それで、あんまり学校に行きたくなくなっちゃって。クラスの子とも喋りにくくなっちゃった。末明さんが事務所を開く話はその頃から決まってて、お前は残れって言われてたんだけど……。もういいから一緒に行っちゃおうって、こっちに来た」


 友達はずっと友達って言ったけど、あれ、ただそうだったらいいなって思っただけ。長瀬の声は風に乗り、僕の耳に溶ける。長瀬はそれでも、今回誰かに声をかけようとするくらいには前向きになっていたのだろう。だが、たまたま相手は変身のことを知らないクラスメイトで、彼女はまた嫌な記憶を思い出してしまったのだと思う。それで、逃げ出した。また同じこと、ならこのままでもういいや、と思ってしまった。そういうことだろうか。


「全部すぐに壊れちゃうのは同じだね。……ただ、原因がいつも自分なのがつらいだけ」

「長瀬は悪くない。何も悪くない」


 機械のように僕は繰り返す。長瀬の母親に、その千花ちゃんとやらに、大崎に、ひたすらに噛み付きたくなった。でも堪える。長瀬はそれを望まないだろうし、だからこそ彼女は今でも影のままなのだ。


「なんでその姿なのか、聞いていい」


 長瀬の影が動いて横顔になったようだった。彼女は僕の方を向かずにこう言った。


「夜に溶けてしまいたかった」


 僕は一瞬、世界が全て輪郭をなくして真っ暗な世界にぐずぐずと溶解していくような気分になった。同じじゃん、と叫びそうになった。夜のような女の子は、僕と同じ気持ちで生きて、徘徊して、そして変わってしまったのだ。


「でも、こんな気味が悪い姿になりたかったわけじゃないのに」


 いや、全くの同じではないのかもしれない。だって長瀬は影そのものだ。猫は夜の街に潜むだけだが、影は溶けたらまるきりの無になってしまう。


 僕らが何か別のもの、他の自分になって、余市が別の誰かになって。その間ずっと、長瀬はただの無になりたかったのか。自分を消してしまいたかったのか。余市の心を言い当てられたのは、それが理由なのか。


「ダメだよ」


 僕はせいぜい爪を立てて手らしきところに縋るも、影相手だ。スッとすり抜けてしまう。さっきはドアを開けられたはずの影が、今はもう手応えが何もない。


「ダメだ」

「もう戻れない。さっきからずっと無理なの」


 ダメだよ、と叫びながら、僕は影を何度も掴もうとした。猫の手は何も掴めない。影には形がない。赤い引っかき傷も残せない。長瀬がいなきゃダメなんだよ。伴がいて、細野がいて、余市がいて、呉さんや他のみんながいて、長瀬の母親だっていて。そこに長瀬もいなきゃダメなんだよ。だって長瀬は僕が生まれて初めて、青い鉱石で飾った小さな椅子に座らせたくなった、たったひとりの女の子なんだ。


 その瞬間だった。僕の頭の中で何かが弾けた。それは猫になった時とよく似ていた。『できる』だ。あの感覚が注射のように全身に広がった。僕はを伸ばす。迷いはなかった。


 変身はいつも一瞬だ。ゲームのアバターが変わったように、すぐ移り変わる。


 僕は人間の、高校二年生の男子の三田村真也の姿で、二本の腕を伸ばして、影の女の子を抱き締めていた。

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