第3話 猫でも嘘がつけるらしい

 僕らは冷たい空気の中に隣り合って座りながら、ゆっくりと指の先で会話をした。伴と細野がこちらに来る様子はなかったし、長瀬もしばらくこの場にいたいようだった。ただ、声が聞こえるたびに悲しそうな顔をするので、僕はイヤホンを自分のスマホに刺して長瀬に渡した。使われなかったクリスマスソングのプレイリストが、少しは彼女を慰めてくれればいいと思った。




 これは、僕がその時長瀬に手短に説明されたことを頭の中で整理したり勝手に補ったり、それと後からまた聞いたことを織り交ぜたりした内容だ。だから、この時点での僕はここまできちんと状況がわかっていなかったし、それに憶測や脚色もだいぶ混じっていると思う。そこは留意してほしい。


 長瀬夜子が生まれてしばらくした頃、両親の仲は既にあまり良くなく、父親には別に浮気相手がいたのだという。彼女が中学に上がるあたりでふたりはあっさりと離婚をした。はじめ父親の方に引き取られた長瀬は、父親自身ともそちらの再婚相手とも関係が上手くいかなかった。両親は再び協議をして、長瀬は今度は母親の元で暮らすことになった。


 わりと楽しかったよ、と彼女は言う。母親は世渡りが器用な方ではなかったが、それでも十分に愛されて育ったと感じていたそうだ。昼夜問わず働く母と、家のことはなんでもやる娘とで、狭いアパートの部屋は明るかった。長瀬は当時からあまり友達が多い方ではなかったようだが、それでもどうにか中学の卒業前くらいまでは平和だったという。


『その頃、お母さんに彼氏ができたの』

『呉さん?』

『そう』


 その頃は他所の探偵事務所の社員として働いていた呉末明はあいにく、反抗期に差し掛かった中学生の娘にすぐに受けるタイプではなかった。第一印象は最悪だった、目つきが悪いし、煙草も吸ってたし、という。長瀬夜子はかなり険悪な態度を取ったらしい。呉さんは呉さんであんなだから、自分から折れる方ではない。母親は、そこに挟まれておろおろとしていたのだとか。三人の関係は拗れたものとなった。


 それでも、時間を置けばどうにかなったはずの関係だった。不器用ながら、家族になることはできたはずなのだ、自分が良くなかったのだと、長瀬は表情のない顔で語る。


 心が弱く、人に依存しがちだった母親は待てなかった。


 なんであんたはいつもお母さんを困らせるの、とある日泣きながら怒られた、と彼女は記した。突然感情が爆発したようだったという。知らない、と中学生の長瀬夜子は言い返した。


「お母さんなんか知らない。あんな人に媚び売って気持ち悪い。どっか行っちゃえ」


 多分、あれが引き金だった、というのが彼女の見解だ。次の日、母親は姿を消していた。途方に暮れた長瀬の前に、呉さんが現れた。今はもうほとんど処分してしまったそうだが、呉さんはあれで植物を育てるのが好きだったらしい。家の中に、ひとつベンジャミンの鉢が増えていた、と抱えてきた。


「これがお前の母親だ」


 わけがわからなかった。だが、彼女が席を外した時、そこからは確かに母の声がした。娘のことはすっかり忘れた風で、若返ったような声で、呉さんに甘えるように話しかける。


 母親は娘と恋人の間で板挟みになり、引き裂かれた。そして、選んだのは恋人の呉さんだったのだ。そう長瀬は思い知った。植物になれば俺に世話をされるばかりだろうからな、と呉さん自身もそこは認めていた。


 人が何か違うものに姿を変えてしまう、変身現象。そのことを長瀬は初めて知った。呉さんは仕事柄、そういうケースをいくつか見てきたのだという。


 やがて長瀬と、彼女を引き取った呉さんはぎこちなくもゆっくりと和解した。呉さんが知り合いの伝手で自分の事務所を開くためにこっちに越して来た時は、もう今くらいの関係だったらしい。それはとても美しいことだ。でも、長瀬の母親は戻らない。時々呉さんとふたりきりの時にふと植物の姿のまま喋り出し、また黙り込む、それだけだった。




 僕には両親がいる。来年は結婚二十周年だそうだ。家族はそこまでベタベタに仲がいいわけではないが、それでも相談をすればちゃんと向き合ってくれる。だから、彼女の気持ちはきっと本当にはわからない。こんなにわかりたいのに、黒々とした穴がどこまでも深く空いている、そのことしか認識ができない。


『長瀬さんが恋愛が嫌って言ってたのは、その辺のこと』


 隣で膝を抱えている女の子に、そんなデリカシーのない質問しかできない。


『そう。恋愛とか結婚って関係に終わりがあるでしょ。家族だって別れちゃう』


 僕の想像は、知識よりも深く潜れない。両親が離婚したクラスメイト。事情で親と離れて暮らしている奴もいる。伴は彼女と別れた。でも、やっぱりどこか他人事だと思っていた。僕はいつだって甘ったれだ。


『友達は、友達だからいいね』


 絶交することはあっても、仲直りできるでしょう、ということだ。僕は彼女の執着の理由を知った。友達ができてあんなに喜んでいたのは、そういうことだったのか。


『私、末明さんとも友達のつもり。お父さんって呼ぶ気はないの。なんか変な気がして』

『内緒だけど、私もこっちに越してきてから、姿が変わってしまったことがある。やっぱり、思春期の子がなりやすいのはあるんだって。不安定だから。でも』

『三田村くんと話すようになって、いつの間にか忘れちゃってた。毎日楽しいよ』

『三田村くんと、友達になれて良かった』


 僕は、堰を切ったようにどんどん続いてくる長瀬の文章に目を剥いていた。僕はこの子と友達でいなくちゃいけない。いなくちゃいけないんだ。


 無理だよ。好きだよ。


 少し弱った顔で僕に笑いかける長瀬夜子は、すごく綺麗だった。彼女がずっと黙っていたことを聞けて、本当は少しだけ誇らしかった。秘密を共有できたような気がしたんだ。それが、たまたま僕がここにいたから知れただけのことだったとしても。


 気がつくと長瀬の頭はずいぶん上の方にあって、あっ、まただ、と思った。僕の目の前には小さな黒い前足があった。僕はまた黒猫の姿になっていた。尻尾の先だけ星のように白い。スマホは上手いこと僕の背中の上に乗っかっていたので、長瀬が持ち上げてくれた。


『ごめん、なんか落ち込ませちゃったみたい。気にしないで。本当にごめん』


 長瀬が謝る必要は何もないのだと言いたかったけど、言えなかった。迂闊に声を出しては呉さんたちに聞こえるし、猫の足は文字入力に向いていない。でも、何か言いたかった。僕は君のことが好きで、それで勝手に悶々として落ち込んでいるんだよ、気にすんな、とかそういうことじゃなくて。


 僕はどうにか後ろ足で一瞬立つと、長瀬の耳にはまったイヤホンのコードを前足に引っ掛けて引いた。彼女の右耳が自由になる。ドアの向こうの会話がそこに飛び込む前に、僕はかがんだ長瀬の背中に乗り、耳元で小さく囁いた。


「僕はずっとの友達だから」


 猫の顔は便利だ。表情が読み取りにくい。僕は伴よりもよっぽど嘘が上手だ。人狼ゲームで嘘をつき通して勝利したことだって何回もあるんだ。でも、気持ちは嘘だけど、言葉は嘘じゃない。僕はきっとこの言葉を守り通そうとそう思いながら、また床に飛び降りた。


 夜の化身なんかじゃない、ただの女の子。反抗期だった中学生時代と、どうしようもない喪失を経て、今おかしな家族構成で生きている長瀬夜子は、きゅっと目を細めた。


『ありがとう』


 文字じゃなくて、唇の動きで彼女はそう伝えてくれた。それで良しとしよう。


 良しとするんだ。僕は、僕は、絶対に。


 また立ち上がると僕はもういつもの人間の姿に戻っていて、ちょっと足が冷えて痺れていた。長瀬もイヤホンを外して一緒にクリスマス会へと戻る。戻ると、細野は疲れたような顔で迎えてくれた。伴は何やらティッシュで鼻をかんでいる。僕らがずいぶん長く出ていたこと、結局飲み物を持ってきていないことは特に言及されなかった。


「三田村さー、もうちょっと話聞いてやってよ。礼央ぽん元カノの話してめっちゃ泣くんだけど」

「お前、ちゃんと終わりにしたんじゃないのかよ」

「したけど、楽しかったのは楽しかったんだよー」


 仕方がないので、その後は伴の慰め会みたいになって、最後に申し訳程度にプレゼント交換して、パーティーって雰囲気でもなく会は終わってしまった。なんだか甘いコーティングの中にひどく苦い薬が一粒隠されていたようなそんなクリスマスで、飲み込むのには時間がいりそうだ。


 長瀬の本棚に詰まった、たくさんの文庫本の話。それができなかったことも、少し心残りかもしれない。

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