永遠を彷徨うコンドルの噺-8-

 ヨセフの絶叫と、母の叫び声が重なった。燃え広がる炎を見て、咄嗟に井戸へ手を伸ばす。だが先程父ともみ合った際に、井戸の底へ落としてしまったのだろうか。釣瓶にかけた綱がない。真っ青になったヨセフは、それでもすぐさま母の方へと駆け寄ると、素手で彼女の衣服をいだ。

 その頃には屋敷の使用人達も、騒動に気づき動き始めていた。ある者は水瓶みずがめを取りに炊事場へ走り、ある者はナイフを取り出して、燃え広がろうとする母の髪を切った。父はすっかり惚けてしまい、その場に座り込んだまま、何をしようともしなかった。こんなことになろうとは、思ってもみなかったという様子であった。

「母さん、……母さん!」

 水瓶に汲んだ水をかけ、火はなんとか消し止めたものの、背と顔の右半面に火傷を負った母は、どんなに呼んでも目を覚まさない。息はある。しかしいかにも頼りない、浅くか弱い呼吸であった。

「医師を、……医師を呼んで。今すぐに」

 自らも腕に火傷を負いながら、やっとのことでヨセフは言った。頷いたインティの使用人達が、数名外へと駆けていく。とはいえ、田舎のクェスピ領に常駐している医師の手では、応急処置を施すのがせいぜいであろう。

「誰か、アルマスの医師にも使いを送って。酷い火傷だと説明して、薬も沢山持ってきてもらうんだ。──いや、やっぱり俺が行く。俺が馬で駆けるのが、きっと一番早いだろう」

 浅い息をする母を横たえて、ヨセフがそっと立ち上がる。腕の火傷のせいだろうか。何やら体が酷く火照ほてって、視界はぐらぐらと揺れていた。それでもなんとか馬の方へと向かうヨセフを、そこに留める腕がある。

「その必要はない」

 そう告げたのは、先程まで黙って座り込んでいた父親だ。続いた言葉に、ヨセフはこの男の正気を疑った。ヨセフの父は地面に横たわった母を見下して、火傷で赤黒く腫れあがった母の顔を見るや、こう続けたのだ。

 「もはや、医者にせるほどの価値はない」と。

──征服者達め、俺達の命なんて何でもないと思ってやがる。

 不意に、先程チュチャの家で聞いた、インティの言葉を思い出す。視線を落とせばヨセフの母が、半分程も塞がれてしまったその口を、懸命に動かしていた。

 「トゥパク、」と呼ぶ、柔い声。彼は咄嗟に跪き、ただれた腕で母を抱き寄せると、かすれたその声に耳を傾けた。

「ごめんね、トゥパク。ごめんなさいね、──私は結局、白き人々からも、インティからすら、お前を守ってあげられなかった、……」

 ヨセフの腕に、震えが走る。。それでは母は、知っていたのだろうか。あの夜ヨセフが、どこにいたのか。半分だけの己の血の由来を、知ってしまっていたことも。

「──トゥパク。お前は私に残された、宝物の、その、片割れ」

 焼けて爛れた母の手が伸び、その胸元をそっと撫でる。そこにはあの日、彼が受け継いだ、太陽の紋の首飾りがある。

「太陽の神に愛された、コンドルの最後の子。お前が進むべき道を、どうして、裏切り者の私に決められようか……。コンドルの子。お前は気高く飛翔する、コン、ドルの、……最後の、──」

 振り絞るようなその言葉が、ヨセフの腕の中で果てた。周囲で見守っていた使用人達が、口々に何か言い募る。座り込んだヨセフに、父が何かを話しかけた。だがそのどれもが、ヨセフの耳には雑音のように不快に思われ、言語として理解することはできなくなっていた。

 ヨセフであり、トゥパクであった少年の中で、今、何かがせめぎ合っていた。

──お前は私の息子だけれど、同時に、白き人々の血を引く子でもある。どちらの言葉も理解できる。……お前は賢い選択をなさい。どちらの神を選ぶのか、どう生きてゆくべきなのか。

 己に流れる二つの血を、見定めようと必死であった。遠い旧大陸からやってきた人々の高慢さを目の当たりにし、物のように扱われるインティの人々に同情をしながら、しかし力に屈し、古き神々を捨て去ろうとする彼らの姿に失望もした。

 それでも彼は、知ろうとしたのだ。自らの生命をにえとして捧げられそうになりながら、彼らを恨まず、ただ純粋に、その背景を知ろうとした。そうしてそれを残そうとした。彼を構成する、もう一方の道具である、文字を用いて。

 選びなさいと母は言った。

 選ぶことはできなかった。己の内に流れる二つの血は、そのどちらもが、彼の生命を象る要素であったから。

 だが今、その二つの血は混じり合い、毒のような臭気を帯びて、──彼の身の内を巡っている。

「俺にはどちらも、選べない、……」

 ぽつりとひとつ呟いて、少年はうつろな目を開き、焼け爛れたその腕を、彼の父親へと伸ばした。彼の記録は燃えてしまった。彼の母親も炎で死んだ。ならばその片割れも、

 炎で死なせてしまいたかった。

 くぐもった悲鳴をあげる父の声。騒然となる周囲の声。すっかり灰と化したヨセフのノートが、かさかさと音を立てながら、地を這い辺りへ散らばっていく。

 視線を上げれば、そこに見知った顔があった。どこかで馬を借り、彼を追ってきたのだろう。額に汗を浮かべたインティの少女は、口元を引き結ぶと、そっとその場に跪く。

「ごめんね、チュチャ。……君が待っていた太陽の加護は、もう、二度と、昇らない」

──時が来れば、太陽が再び現れたなら、私も必ず戦うわ。私は戦士の一族の女だもの。

 じっと彼を、──彼の瞳を覗き込むこの少女が、彼に何かしらの期待を抱いていたことを、少年も薄々気づいていた。彼の母が持つ首飾りの意味を、理解していたインティは幾人もいた。贄として泉に捧げられた、この少年の身に起きた奇跡のような出来事を知る者も、その全てが、命を絶ったとは限らない。

 チュチャもおそらく、知っていたのだ。知っていて、さも偶然かのように、あの日少年に声をかけた。

「……太陽の加護を継ぐ王の訪れを、長い間待っていた。だけど、……トゥパク、あなたがそれを選ばないなら、私もそれに従いましょう」

 チュチャが微笑んだので、彼も思わず、微笑んだ。

「もうすぐここへ、保安官が押し寄せる。この土地の領主を殺したんだ。俺も咎めを受けるだろう。だけどその前に一箇所だけ、付き合ってほしい場所があるんだ」

 「どこへでも」と告げる声は穏やかだ。少年はその場へ背を向けると、「ビルカバンバの麓の森へ」と、そう言った。

「君が話してくれた、最盛の王、コリンカチャの逸話にあった、──知の泉、ススル・プガイオを探したい」

 

──最盛の王コリンカチャは、まだ幼い頃、ススル・プガイオと呼ばれる泉を見つけたの。トゥパク、あなたのその瞳のように、青く明るい色の泉よ。

──コリンカチャがその泉を覗くと、そこに太陽の光輪を背負った男がいた。何羽もの黄金のコンドルを従えたその男は、コリンカチャに彼の未来を告げたの。

──泉の中の男は、太陽神の化身であったと言われているわ。その泉は神の泉。過去に行われたことも、これから起こることも、何もかもすべての事象が、そこには蓄えられていた。

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