永遠を彷徨うコンドルの噺-3-

 ***

 

 ヨセフの朝はいつも早い。マンチャシ山脈にほど近い、盆地に広がるクェスピ領は、白き人々が征服の拠点とした町、ヨセフの通う神学校のあるアルマスから、二条の川に隔てられた土地にある。進学にあたり、本来ならば寮に入ることが推奨されていたのだが、ヨセフの父がそれを許さなかったため、ヨセフは毎朝、陽の昇る前から馬で駆けて通学していた。

 車はつけず、馬の背に直接くらを置いて騎乗する。かつてはこの火の大陸に存在していなかったと聞くこの騎獣は、今ではすっかり人々の暮らしに溶け込んでいる。

 冬至を過ぎたばかりの空に、うっすらと陽の光が挿し始めていた。眼前に広がるのは、刈り入れを終えた広大な畑と、それを見守るようにそびえ立つ、インティの神の住まう山々。目覚めたばかりの太陽はその全てを、燃やし尽くさんとばかりに赤く染めあげている。

 朝ぼらけ。己の吐いた息が白く染まるのを見ながら、こうして一人で通学する時間を、ヨセフは言いようもなく好いていた。土の目覚める音を聞き、鳥のさえずる声を聴く。ふと見れば、放たれたビクーニャやグアナコ等の家畜が、銘々に草を食んでいた。それらの鳴き声を真似るように、「フーンフーン」と声を上げながら、一本道を過ぎてゆく。

「昨日はあんなことがあったのに、今日は随分ご機嫌じゃないか、って?」

 寝不足の目をこすりながら、自ら操る栗毛の馬に、軽い口調で語りかける。そうして馬がぶるぶると鼻をふかすのを聞いて、ヨセフはそのたてがみを撫で、「そりゃ、そうさ」と微笑んだ。

「あんなの慣れっこだし、……。今日は授業の後、チュチャのところへ行く約束だからね。父さんには聖歌隊の練習だって言ってある。俺がチュチャのところへ通っていること、知っているのはお前だけなんだからな。誰かに告げ口したりしたら、承知しないぞ」

 馬が再び鼻をふかすのを聞きながら、ヨセフは一人、微笑んだ。チュチャ。それはアルマス近くの農村に住むインティの少女のことであり、──ヨセフにとって、一番の友人の名であった。

(今日はどんな話をしよう。町で果物を買って、持っていったら、喜んでくれるかな)

 ヨセフが神学校に通い始めたのが、一年半前の夏の頃。まだクェスピ領とアルマスの町を往復する生活に慣れず、市場の人混みに辟易へきえきしていたヨセフは、そこへ野菜を売りに来ていたチュチャと、偶然知り合ったのだ。

 黒目、黒髪に褐色の肌。インティらしい風貌の少女は、少しくたびれたインティならではの額飾りとポンチョを身につけ、野菜を大量に詰め込んだ籠を抱えて立っていた。

「インティのくせに、馬に乗るの? それともそれは、主人の馬?」

 ヨセフが馬の手綱を引き、市場を通り抜けようとしていた時のことであった。突然話しかけられたことに驚き、ヨセフがはっと振り返ると、彼女もぎくりと肩を震わせたのをよく覚えている。後で聞いたところによれば、旧大陸風の衣服を身に着けているとはいえ、明らかにインティらしい風貌のヨセフに気を許して話しかけたものの、振り返ったその瞳が明るい青であることに、酷く慌てたのだと言う。

 アルマスのような都会において、白き人々とインティの間に生まれた混血児はけっして珍しくない。タワンティン・スウユが白き人々の前に降伏して、既に二十年。遠い大陸から船で訪れる征服者の殆どは、体力のある男であり、彼らがインティの女達を妻に迎えることは往々にして行われていたからだ。しかしそうして生まれてきた混血児達は、大抵の場合、父方の文化を優れた先進の文化、母方の文化を劣った粗野な文化として、蔑むのが常であった。中にはインティの母を持ちながら、インティの言語を理解することすらできない者もいる。

「間違えたわ。その、……」

 咄嗟に目を伏せたチュチャは、明らかに動揺していた。確かに、それが他の混血児達であったなら、突然馴れ馴れしく話しかけてきたインティの少女に、何をしたかはわからない。困惑した様子で震える長いまつげが、やけにいじらしく見えていた。チュチャの抱えた籠から、赤いトマトがこぼれ落ちたのを見て、ヨセフは咄嗟にそれを拾う。そうしてじっとチュチャを見て、気づけばこう問うていた。

「俺は生粋のインティじゃないけど、でも、タワンティン・スウユの母の血を引いているし、インティの人間としての名前もあるよ。……あの、よかったら、君の友達になれないかな」

 生まれてこの方、ヨセフの周りにいるインティの人間と言えば、母か、ヨセフ達家族の世話を焼く使用人ばかりであった。特に同じ年頃の子供とは、ともに遊ぶことを禁じられていたのだ。だから単純に、このインティの少女に興味があった。チュチャは一瞬戸惑う素振りを見せて、しかしふと微笑むと、「いいわ」とヨセフにそう告げた。

 そうしてヨセフは、週に一度は帰宅の途中でアルマス近くの農村に寄り、チュチャと会話をするようになったのだ。

 彼女らの生活は質素であった。幼い頃に両親をなくしたのだというチュチャは、兄と二人きりで、小さな木造の家に住んでいた。農村に暮らしてはいるものの、彼女らは畑を耕すのではなく、主に近隣の家の収穫物を預かり、町へ運んでそれを売ったり、チュチャの兄が森で仕留めた獣をさばいては、その肉や皮を売って暮らしていた。

「市場で、どうして俺に話しかけたの? 今どき、馬が珍しいってわけでもないだろうに」

 ある時、ヨセフがそう問えば、チュチャは真っ直ぐな目をしてこう返した。

「馬に興味があったの。乗ってみたかったのよ。獣にまたがって走るなんて、楽しそうだし、戦いの場でうまく使えれば、機動力が増すでしょう。タワンティン・スウユにも馬がいたら、インティの民は白き人々にだって、負けていなかったかもしれない」

「物騒だな。まさか、戦うつもりでいるの?」

 今でも大陸のあちこちで、インティの人々が反乱を起こしていることを、ヨセフも噂に聞いていた。もしや彼女もその一派なのではと尋ねてみれば、チュチャはあっけらかんとした口調で、「今は戦わない」とそう返す。

「今は戦わない。太陽の加護がないから。──でも時が来れば、太陽が再び現れたなら、私も必ず戦うわ。私は戦士の一族の女だもの」

 彼女の一族は、代々タワンティン・スウユを統べる王──太陽の化身にして創造神たるインティアプ、その末裔たる太陽王を敬い、守る戦士の家系であったのだと、チュチャはヨセフにそう告げた。

「私達の一族は、最盛の王コリンカチャにも認められた、勇敢なる戦士なの。白き人々がこの大陸にやってきた時にも、一族は皆、王と共に死力を尽くして戦った。私は当時、生まれていなかったから、詳しいことは知らないけど……。でも兄さんが、いつも私に教えてくれる。歴代の王と共に、私達の一族がどう戦ってきたのかを」

 チュチャの語るインティの話は、ヨセフにとって、いつだって興味深いものばかりであった。創世の話から、歴代の王の逸話まで、文字を持たないインティの民は、その連なりを全て口頭で伝承する。年長者は己の見聞きした事柄を幼い子供達へと伝え、子供達は長じて後、また同じようにその子供達へ語り伝える。そうして彼らの歴史は脈々と、言葉を通じて紡がれてきたのだ。

 チュチャがそれを望んだので、ヨセフは彼女に馬の扱い方を教えた。代わりにヨセフはインティの物語を希望し、彼女の語るそれらの話を、全てノートに記録した。

「いいの? ここ数年、白き人々が私達に、彼らの信じる唯一神を崇めるように説いて回っていることは知ってるでしょう。インティの神のことを記したりしたら、彼らの不興を買うんじゃない?」

「このノートのことを、知られなければいいんだよ。大体インティの血を引く俺が、インティの神と歴史を知ることに、一体何の問題があるのさ」

 ヨセフがそう語れば、チュチャは嬉しそうに微笑んだ。

 インティの物語を白き人々の言語に訳し、それを文字に起こすのは、なかなかに骨の折れる仕事であった。しかしヨセフはそれを続けた。インティの文化の保護といったような、学術的な高尚さをそこに見出していたわけではなかった。ただヨセフは、インティの記さぬその歴史を、己に与えられた文字という道具を用いて表現できることに、自らのルーツを紐解く喜びを見つけていたのである。

「最盛の王コリンカチャには、沢山の逸話が残されてる。王は神々に捧げる詩を読み、その詩を受け取った神々は喜んで、代わりに死と再生を司る黄金のコンドルを王に与えたんですって。王はそのコンドルを、常に従えていたんだそうよ」

「最後の王、カルパワムイは白き人々との戦で死に、その直系にあった三人の息子達は一人ずつ、白き人々に扱われる傀儡の王となり、そして殺されていった──」

「創造神たるインティアプと、天地を支える四柱神は、元は兄弟なの。だからインティアプの末裔にあたる太陽王は、四柱神とも血縁があるということになるわね」

 チュチャはヨセフに多くを教えた。インティについて記したノートは、気づけば十冊を超えていた。ヨセフは教わった物事を夜な夜なノートに書き記し、誰にも見つけられることがないよう、戸棚の裏に隠しておいた。

 ヨセフは白き人々と、インティの間に生まれた子であった。

 白き人々の文字でつづったインティの物語は、まるでヨセフ自身であるとさえ思われた。

「出会った時に話したけど、俺にも、インティの名前があるんだ。今はもう、誰も呼んではくれないけど……。でもよかったら、チュチャは俺のこと、その名前で呼んでくれないかな」

 ある日ヨセフがそう言えば、チュチャはにこりと頷いた。

「いいわよ。あなたって瞳の色以外、まるでインティの人間だもの。何より今となっては、私達は同じ歴史を共有した、同胞はらからでもあることだしね」

 同胞。その言葉が、何故だか少し、嬉しかった。

「ありがとう。それじゃ、これからは俺のこと──トゥパクって、そう呼んで」

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