鬼の棲まう窟の噺-2-

 死亡印。

 一瞬の間ののち、大袈裟な調子で吹きだしたのは、先程の少年であった。ぎょっとなった燕仙が言葉を失っているのを見て、彼はどうやら、先程の借りを返す良い機会であると判じたらしい。顔の前で手を合わせ、御霊みたまのご平安をお祈り致します、と経を読み出すこの少年を睨め付けると、燕仙は官吏に向き直り、「馬鹿を言うな」と詰め寄った。

「私が死んだことになっているだと? じゃあなにか、ここにいる私は幽霊だとでも言いたいのか?」

「いえ、そのう、そういうわけじゃないんですが、書類上はそういう事になっておりまして、……」

「身分票だって見せただろうに! もう一度見せてくれようか? 人を死人扱いしおって、」

「はあー、ご愁傷様、ご愁傷様」

「お前は拝むのをやめろ! 官吏、それで私の滞在補助はどうなるんだ!」

 怒気を押し殺してそう問えば、官吏は青ざめた顔に笑顔を貼り付けて、「ひぇ」とか細い叫び声を上げる。

 。燕仙が眉間に皺を寄せ、顔を寄せて事を問えば、官吏は無言で白い修正墨を取り出した。

「そのう、恐らく死亡印は、何かの手違いかと思いますので、……」

「当たり前だ。私を勝手に殺してくれるな」

「そうですよねえ、はは……、死亡印は、この、これ、修正墨でスーッと塗りつぶしておきますので、……ええと、元々の滞在補助書を見るに、燕仙様には滞在中の住居の斡旋、それから世話役を一名提供するようにと指示が出ておりますね。世話役は、こちらで適当に見繕わせていただいてよろしいでしょうか」

「ああ、頼む。なるべくこの辺りの地理に明るい者にしてくれ」

 そう言って、ひとつ大きく息をつく。計算外のことで時間を食ってしまったが、これでようやく鵺岩やがんの土地を踏めそうだ。しかしそんな事を考えながら、ふと視線を戻し、──先程の少年が燕仙に向けて舌を出し、おちょくるように目を剥いているのを見るや、──燕仙は冷静な声音で淡々と、「この餓鬼を」と官吏に告げた。

「この餓鬼を世話役に付けてくれ。この私に喧嘩を売ったこと、存分に後悔させて、むせび泣くほどこき使ってやる」

しゅんを? はあ、構いませんが。見ての通りの子ですからね、世話役としてお役に立つか」

 ぎょっとした様子で声を上げたのは、李旬と呼ばれた少年だ。

「ちょ、ちょっと待て! おっさん達、勘弁しろよ! 俺にだって都合ってものがあるんだから、」

「──茶屋での無銭飲食十五回、家賃滞納二ヶ月分、大家への借金七十二銭、質屋で質料を上げてくれと駄々をこねること数回、……」

 唐突にそう割り入ったのは、先程「担当外」の一言で仕事を断った方の官吏である。彼は淡々と数字を並べると、李旬と呼ばれたこの少年を無表情に見据え、「仕事が見つかって、良かったじゃないか」とそう告げた。

「最近、あちこちからお前のことを相談されていてな。まだ訴えられる程ではいないが、まあ、時間の問題だろう。……刑務部の俺の仕事を、わざわざ作ってくれるなよ。しばらくの間その旦那様にお仕えして、少しはまっとうな生き方をするんだな」

 無銭飲食だの借金だの、官吏の告げた内容に、どうやら覚えがあるらしい。少年は最早ぐうとも応えず、ただ無言で、ごくりと唾を飲み込んだ。

 それで、そういう事になった。

 

 李旬と呼ばれた少年は、己のことを絵師だと言った。絵師。一体何の絵を描いているのだと問えば、彼はこの鵺岩に数多存在する石窟で、下絵を描いては小遣いを稼いでいるのだという。

 絵を描いて小遣いを稼ぐ、とはおかしな事だ。この鵺岩窟に掘られた神洞は、燕仙が先に聞いた話では、修験者達が己の修行のため、信仰心から洞に絵を描き、像を彫っているということであったはずだ。しかし燕仙がそれを問えば、旬は鼻で笑い、「役割分担だよ」とそう言った。

「修験者達は、信仰心から神を描く。だがその神の絵には、神に退治される脇役達──悪鬼の姿が必要なんだ。人を喰らう鬼、人を誑かす鬼、人を病ませる鬼、……。そういうものの下絵を、俺が描いてやるんだよ。俺の描く悪鬼は、今にも動き出してきそうだって評判なんだぜ」

「ふうん、それじゃあなんで、その評判の絵師が借金まみれで食いっぱぐれているんだか」

 嫌味ったらしく燕仙が言えば、旬はぎくりと肩を震わせてから、そっと視線を逸らしてみせた。

 鬼。そういえば鵺岩を訪れる前にも、そんな言葉を耳にしていたことを思いだす。

──鵺岩窟には鬼が棲む。

(角のある鬼やら、牙のある鬼やら、いったいどこにそんなものがいるっていうんだ?)

 あれほど脅されて訪れた鵺岩であるというのに、こうしてそぞろ歩きをする限り、それらしい様子は微塵も感じない。平屋造の建物が続く大通りには、そこかしこに市が立ち、近隣で採れたのであろう色とりどりの野菜が並べられている。人々は悠々とした足取りで町を闊歩しており、とても、鬼に怯える様子など無い。

 鬼の話は、結局ただの噂に過ぎなかった、ということなのであろうか。しかしそれであれば、途中の町々はその噂の風評被害にあっていたということになる。例の鬼の噂のせいで、事実、旅人達はこの鵺岩窟を抜ける交易路を避ける傾向にあるようなのだ。

 大彩国の中心地、中原ちゅうげん──将河しょうが中流域にある平原地帯から西へ旅をするためには、遙かなる北神山麓ほくれいさんろくを超える必要がある。その際、重要視されるのが二つの交易路だ。鵺岩を通る北神山路ほくしんさんろ、それに、より南に位置する東翁砂路とうおうさろという交易路。しかし最近、旅人たちは鬼の噂を恐れ、北神山路よりも東翁砂路を重宝する傾向にあると聞く。この町の人間たちは、その現状を理解しているのだろうか。

(好んで岩窟に住まう修験者どもはまだしも、町の人間達にとっては死活問題だろうに)

 しかしそんなことを考えながら、燕仙が角を曲がろうとした、その瞬間。

「おい、──危ない!」

 注意を促す旬の声。咄嗟に腕を引かれ、はっとした。

──まあせいぜい、わたくしの足を引っ張るような真似だけはしないでくださいね。

 一瞬音の遠のいた世界へ、何年も前に耳にした、──の声が脳裏に響く。

 膝と掌に痛みが走る。予期せぬ衝撃に目を白黒とさせながら、しかし燕仙は眉をしかめ、周囲を見回して、ようやく事態を把握した。

 先ほど歩いたその道へ、四つん這いになった格好でいる。旬に強く手を引かれ、そのまま地面へ転がり込んだのだ。突然何をするのだ、と一瞬苦情を言いかけて、しかし燕仙は振り返って息を呑む。見れば先程まで燕仙が立っていたその場所に、石の瓦がめり込んでいたのだ。

「おいあんた達、大丈夫か!」

 周囲を歩いていた人々が、惚ける燕仙と、その脇に尻餅をついた旬に声をかける。そんな声を傍らに聞き、燕仙は地に落ちた瓦を再度見て、ごくりと唾を飲み込んだ。もしこれが頭上にでも落ちていたなら、ひとたまりもなく死んでいたに違いない。「ご愁傷様、ご愁傷様」とつい先程、茶化されたことを思い出す。

 そして同時に、

(ああ、──)

 心の中で、ひとつ呟く。

(ついに、?)

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