第44話 誠の旗

 椿が広間で対応していた怪我人もようやく落ち着きを見せ始めた。残念ながら中には、息を引き取った者もいた。それでも、やれる事はやったつもりだと振り返る。


――山崎さんは、まだかしら。


 椿はまだ戻らない山崎の安否が気になって仕方がなかった。胸の奥がざわざわして落ち着かない。その疼きを掻き消したい一心で怪我人の治療をしてきたのだ。


「良順先生のお手伝いを、しましょう」


 椿は何かしていないと不安に押し潰されそうだった。他の新選組隊士はどうなったのか。永倉の顔は見たが、他の者たちは無事なのかと気にかかる。長い廊下を歩いていると、聞きなれた声が耳に届いた。


「頼む、何とか助けてくれ! 失くしちゃならねえんだ、こいつは」


 土方の悲痛な声が聞こえる。すると斎藤や原田、永倉もそして沖田の声もする。それは誰かの命を救って欲しいと松本に縋っている声だった。


――もしかして、近藤さんがっ!


 椿は近藤の具合が良くないのではと焦る。自分が治療をした肩の傷が悪化してしまったのではないか、と。


「椿です! お手伝いにあがりました」


 障子を開けると、みなが一斉に振り返った。とても驚いた顔をして。その中には、椿が心配していた近藤の姿もあった。


「あっ、近藤さん!」

「椿っ!」


 その時。ものすごい勢いで土方が歩み寄り、椿の前に立ちはだかった。それはまるで進入を阻むかのようで、敵の前に立つ時と同じくらいの迫力があった。しかし、椿は土方に対して臆することを知らない。


「あの!」

「椿、お前は少し休め。ずっと働きっぱなしだろう」

「いえ、それは皆さんも同じです。私は大丈夫です」


 椿は怪我をしている人物が誰なのか、なぜ新選組幹部たちが深刻な顔をしているのか。それが気になって仕方がなかった。

 そのとき松本が、低い声で椿の名を呼んだ。


「椿」

「はい」

「お前が医者として向き合えるのならば、入室を許可しよう。もし、少しでも女の心情が顔を出すのなら、一歩たりともこの者に近づくことは許さない」

「え?」

「どうする」


 椿は松本が何を示唆しているのか考えていた。目の前の土方が不安そうにその瞳の奥を揺らしている。まさか、土方が動揺するほどの人間というのか。医者として、女として……松本が言うその言葉をの意味に何が含まれでいるのか。

 椿が考えている間も松本の手は動いていた。見れば手元には、真っ赤に染まった布が散乱している。男の腕が血で染まっているのが見えた。時々、ピクピクと反応しているが、それが危険な状態である事は容易に察しがついた。

 その力なく放り出された腕を、椿はじっと見つめた。腕は細く骨ばっており、指は細かな仕事ができそうな繊細さを覗かせている。顔は島田が座っていて見えない。でも腕の作りからして体格は想像できた。

 新選組で、それに当てはまる人物と言えば......。



「良順先生っ!」


 椿の心臓が激しく唸り始める。まさか、いや違う! でもひょっとしたら。そんな言葉が脳内を駆け巡った。見れば見るほど、椿が慕う男の顔しか浮かび上がって来ない。


「椿! 今のお前は医者か、それともただの、女かっ!」

「ぅ......っ、い、医者ですっ!」


 椿は言い終わると、土方の僅かな制止を振り切り、良順と島田の間に体をねじ込ませた。そして、横たわってる人物を見て椿の心臓は激しく弾けた。


――嘘っ! 誰か嘘だと言って! 山崎さんっ―!


 椿は両手で口を覆い、叫びたくなる衝動を抑えた。ここで取り乱しては追い出されてしまう。

 なんと瀕死の状態に陥っていたのは、山崎だったのだ。全隊士に撤退を知らせるぎりぎりまで、退避せずに伏見・鳥羽・淀と駆けていたのだり


「椿」


 皆が心配そうに名を呼んだ。

 椿は乱れる精神を落ち着かせるため、瞳を閉じた。心臓の痛み、浅い呼吸、込み上げてくる恐怖と涙。

 椿はその全てを飲み込む様にゆっくりと、深く呼吸をした。


――私は医者だ! 女になる前から医者だった。この人を救うのは私よ。死なせないと誓ったのは、この私!


「私は医者です。新選組の医者です!」


 良順は椿の、その強い意志を持った言葉に射抜かれた。わずか数年の間で、なんと強い女になったものだと。


「治療を続ける。椿は私の助手をするように」

「はい!」


――絶対に死なせません。山崎さんは約束通り戻って来てくれた。だから今度は、私が約束を果たす番です。


「山崎さん! 椿です。もう大丈夫です。だから頑張って、生きてっ」


 椿がそう叫ぶと、山崎の瞼がピクリと動いた。

 誰もが息を呑んで、二人の医者と山崎を見守っていた。




 ◇ ◇ ◇




 百五十人いた新選組は二十名近くが今回のいくさで死亡した。中には組長であった井上源三郎も含まれていた。刀と槍でする戦闘はもう時代遅れとなり、鉄砲や大砲といった人間ではない機械が、この戦争を支配した。

 錦の旗を掲げた薩長連合は新政府軍と名乗り、賊軍となった徳川軍は旧幕府軍と言われるようになる。


「まだ、終わっちゃいねえ! 奴らは必ず江戸にも押し寄せてくる。体制を立て直してこの負け戦の屈辱を晴らすんだ」

「そうだ、まだ終わってはいない。我々も江戸に向かう」


 新選組は旧幕府軍の海軍が準備した船で江戸に向かうことが決まった。途中品川の手前、横浜で怪我人や病人を下ろし横浜病院で治療をさせる事も決まった。

 松本良順がそこで指揮を揮う事になっている。怪我が完治していない近藤は沖田と共に一旦、横浜で下りる。土方始め、他の隊士たちは品川で屯所を構えるのだ。

 新選組一行は大阪を出る為に港へと移動を始めた。


「椿くん、君は本当に行かないのか。横浜の病院なら君も働けるし安心すると思ったのだが」


 近藤が大阪に残ると言う椿を心配し、もう一度確認をした。


「ありがとうございます。それに、もとは大阪の人間です。ここで皆さんの武運をお祈りいたします」


 椿は深々と頭を下げた。すると残念そうに近藤はため息をこぼす。


「そうか、ではもう言うまい。達者でな」


 近藤は椿の頭を撫でた。近藤にそうされたことは無く、椿はとても驚いた。もしかしたら、今生の別れになるのではと思わせる程に、その手つきが優しかった。

 原田と永倉は椿も頑張れと、両方から肩を抱き寄せながら励ます。椿が笑顔で答えると、その笑顔が椿らしくていいと褒めてくれた。椿は懐の大きい兄のような二人を見送った。


「椿」


 落ち着いた斎藤の声が鼓膜を震わせる。護身術や偽の逢瀬、そしていつも分かり易く人の心情を諭してくれた人。表情の硬いこの男が、椿にだけほんの少し見せる笑顔が今となっては懐かしい。


「斎藤さん、お元気で」

「ああ、あんたもな。しかし惜しいな」

「何が、ですか」

「あんたが俺の事を、好いていたら良かったのだがな」

「え、あっ。またっ、そんなご冗談を」


 椿が軽く睨むと、ふっと口元を緩めて斎藤が笑う。


「またな」


 斎藤は名残惜しそうに、手の甲で椿の頬をひと撫でし踵を返した。凛とした後ろ姿だった。

 次々と慣れ親しんだものが去っていく。椿は涙が出そうになるのをぐっと堪えた。見送る側がこんなに辛いものだとは思わなかったのだ。


「椿さん。一緒に船に乗って欲しかったのですが、今回は諦めます。僕のお嫁さんにしたかったなぁ」


 そう言って戯けて声をかけて来たのは沖田だ。どんなに体が辛くともその素振りを見せず、作る笑顔は泣きたくなるほど穏やかだ。


「沖田さんったら。ふふっ、残念ながら今生では無理ですね」

「では、来世なら叶えてくださるのですか」

「沖田さんが一番最初に私を見つけたら、ですけどね」

「なるほど」


 沖田はくっと両頬を上げて微笑んだ。その笑顔があまりにも眩しくて椿は目を細めた。いつもこうやって、子供の様に笑っていて欲しいのに、と嘆かずにはいられない。そして沖田は一瞬真顔に戻る。


「これくらいは許してくださいね」


 そう言いながら、沖田は椿をそっと抱き寄せた。


「沖田さん」

「椿さん。知らぬ振りをしてくれて有難うございます。僕は武士らしく死にますよ。また、遭いましょう。いつか、戦争の無い、どこかの時代で」


 そう囁いて、再び子供のような明るい笑顔を見せた。


「では」


 くるりと背を向け後ろ手を振って去っていく。前よりも細くなった沖田の背中が遠くなる。


「沖田さんっ、ありがとうございました!」


 椿は沖田の背にそう叫んだ。でも、沖田は振り向かない。その背は病を思わせない、確かにそこには武士の背中があった。腰に差した刀がそう語っていた。



 ザッと地面を踏みしめる音がした。振り返ると土方が立っていた。先に行く仲間の背を確認して、椿に視線をゆっくりと落とした。


「土方さん」

「椿。おまえ、本当に一人で大丈夫なのか」

「はい。良順先生が残してくださった家があります。そこで診療所を営みながら生きて行くつもりです」

「そうか」

「はい」


 土方もまた椿に、酷く優しい顔を向ける。無理に江戸に連れて行っても、この先はずっと戦争だ。恐らく死ぬまで戦わなければならない。ここで椿を手放すのが一番いいと土方は自分から言い聞かせた。

 この屈託のない笑顔が傍にないと思うと、心にぽっかり穴が空いたように思える。なんて不思議な女だと土方は思った。


「椿ならやれるだろう。期待している。何かあったらすぐに言え、と言いたい所だが、今回ばかりはそうはいかねえな」

「ありがとうございます。でも、私、頑張れますから」

「そうだな」


 土方は椿の頭を撫でながら、いつか椿を組み敷いた日の事を思い出す。武田観柳斉から椿が狙われている事を自覚させるためにした時の事を。ずっと子供だと思っていたのに、すっかりいい女になってしまった。皆が椿の事を好いていた。その中に自分もいたのだ、と思い出す。


「土方、さん?」


 何も言わない土方を、椿が心配そうに見上げた。土方は堪らず椿を自分の胸に押し当てる。今の自分はきっと、副長らしからぬ情けない顔をしているだろう。それを椿に見せたくなかったからだ。


「おまえは危なっかしいからな。心配なんだよっ!」


 口調とは裏腹に心は泣いていた。もう二度、この笑顔を見る事はないだろう。もう二度と、喧嘩も慰めあう事もないだろう。


 そして、そっと椿から離れると、土方は柔らかく笑った。


「嫁に行くまで護ってやれなくて残念だ」

「っ。まだ覚えていたのですか! 土方さんこそ私の心配ばかりしていてら行き遅れますよ」

「ばぁか、俺は嫁には行かねえよ」

「もうっ......」


 そこまで話すと椿の我慢していた涙がぼとぼと落ち始めた。土方がどんなに鬼と呼ばれようとも、誰よりも優しい男なのだと椿は知っている。だから、涙が次から次へと溢れて止まらない。


「椿。先に逝った奴らの分も生きろ! そして、俺たちが走り抜けた、この時代を言い伝えてくれ」

「はい」


 そして土方は一通の文を懐から取り出し、椿に渡した。


「確かに、お預かりしました」

「頼んだ」


 土方はもう一度、椿の頭を撫で背を向け歩き出す。

 他の誰よりも広く逞しいその背には、皆の命と希望がのしかかる。誰よりも優しいその男を、椿は見えなくなるまで見送った。


 その背には金色に輝く【誠】の旗が、なびいているように見えた。


「ご武運を」


 椿はそう呟き、深く、深く頭を下げた。

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