第35話 大政奉還と暗殺計画

 西本願寺に屯所を構えていた新選組だが、僧侶たちの我慢の限界が達したのか、お金は要らないから越してくれと不動尊への移転を願われた。資金繰りに手を焼いていた所に、この話が来たため移転を承諾したのが夏に入る前だった。

 そして、伊東一派の大きな動きもないまま季節は移っていった。


 秋が近まり、新しい屯所生活にも慣れた椿は変わりなく忙しく働いた。


「皆さん、生物は食べないで下さいね。お酒も控えめに」


 椿は口を酸っぱくしながら、隊士の体調管理に目を光らせていた。忘れもしない、壬生にいた頃に腹を壊した者で屯所内が大変な事になったことを。もうあんな光景はごめんだ。廊下にまで転がった隊士たちの面倒を看るのはもうお断りである。


「原田さんお疲れ様です」

「椿は忙しいな。おまえも倒れないようにしねえと。何時だったか、高熱を出しただろ」

「原田さん、覚えていてのですか。あのことは、忘れて下さい」


 原田は椿を見かけると、どうしても声を掛けずにはいられないのだ。山崎と恋仲なのは知っているが、いちいち過剰に反応する椿が可愛くて仕方がない。


「医者の不養生って言葉があるくらいだから、椿だけじゃねえって。気にするなよ」


 傷痕が残る立派な腹をデンと出し、にやにや笑いながら原田は言った。原田は腹さえ出さなければ、世間では色男で通っている。背も高くガタイもいい。歩くだけで女性が振り向くほど色気をぷんぷん出しているのだ。

 新選組の羽織を着ていなければ、引く手数多あまたは間違いない。


「ちょっと、原田さん。腹を出さないでくださいっ」

「ときどき、古傷が痛むんだよ。たまにこうしてお天道様に晒さないとな」

「え、大丈夫ですか」


 椿はさっきまで怒っていたくせに、痛いだの苦しいだのと言われると放っておけないらしい。原田はそんな椿を目を細めながら、優しい眼差しで見つめた。


「土方さんから石田散薬を貰って来ますね」

「おいっ。その必要はねえって!」

「駄目ですよ。十番組組長に何かあったら困りますから」


 椿はにっこり笑って、足早に去っていった。


「敵わねえなぁ」


 原田がどう仕掛けても、椿らしさは変わらない。一本芯が通っていて、その辺の女とは違う何かを屯所にいる男たちは感じ取っていた。



 ◇



 季節は秋が深まり始めた頃、巡察に出ていた永倉が血相を変えて土方の部屋に飛び込んできた。


「土方さん、大変だ。慶喜公が政権を朝廷に還すらしいぞ」

「そいつは本当か」

「ああ、会津藩邸の前でそう聞いた。かなり慌ただしい動きをしていたな」


 十四代将軍、徳川家茂は享年二十一歳という若さで亡くなった。驚く暇もなく、次の将軍を一橋慶喜が継いだ。その後、幕府寄りだと信頼していた孝明天皇が崩御。そして、慶應三年十月、徳川慶喜は大政奉還を朝廷に申し出た。

 世が激震した事件だった。


 一方、伊東甲子太郎は孝明天皇の墓を守る任務を朝廷から賜ったといい、自らが率いる隊を『御陵衛士ごりょうえじ』と改名。

 伊東一派は尊皇攘夷倒幕派という立場を武器に、薩摩藩との距離を縮めていた。幕府が京の町から追い出した、長州の肩を持つような素振りも見せ始めている。伊東は賢く、世を見る目を持っている男なのだ。その世の流れに一気に乗ろうとしていた。


「失礼します!」 


 山崎が入ってきた。

 いつも以上に神妙な面持ちで土方に無言で文を渡す。黙って読む土方の表情は険しく、無意識か眉をヒクヒクと動かしていた。読み終わると近藤の所に行ってくると言葉を残して部屋を出て行った。

 椿はその様子を見て、これは何か大変なことが起きると感じ取っていた。


「山崎さん……」

「椿さん。そんな顔をしないで下さい」

「え?」

「路頭に迷った幼子のようです」


 山崎は椿をそっと抱き寄せた。椿の不安を山崎は読み取ったのだろう。幕府が揺らぎはじめ、倒幕派が勢力を増し始めたのを、政治に疎くとも分かるほどになった。新選組は会津藩なくして、この京で武士として生きることはできない。幕府と共にといくら誓ったところで、この行く末を不安に思わずにはいられなかったのだ。


「少し、不安なのです」

「……」

「これから新選組はどうなるのでしょうか」

「大丈夫です。皆を信じましょう」


 不安なのは椿だけではない。でも、それを武士が口にしてはならないのだ。自分が仕えると決めた長を信じるしかない。

 山崎が抱きしめる腕に力を入れれば、椿も応えるように背に回した腕に力を入れる。

 暫くして、そっと身体を離した山崎が椿に向けて笑った。それだけで椿の心は日が射すように温かくなるのであった。



 その頃土方は、近藤に伊東甲子太郎暗殺を持ちかけていた。斎藤が掴んだ情報によると、伊東は近藤を「近々亡きものにする」と確かに口にしたそうだ。それ聞いた藤堂が、伊東にそれだけは避けてくれと言ったとか。


「伊東の奴、本性を現しやがった。近藤さん、るしかねえ」

「うむ、致し方あるまい。しかし、どうやって殺る。彼の剣の腕は侮れん。まともにやりあって討ち損ねたりしたら」

「酒の席で殺るしかねえだろ。相手に隙を作る為にも、あんたの妾宅に呼んで酔わせる。適当な小路に遺体を晒しておけば御陵衛士が必ず引き取りに来だろ。そこを叩く!」


 斎藤には日時を事前に知らせ、その日は隊から離れるように伝えることにした。近藤の強い願いもあり藤堂平助だけは、可能な限り助けてやるのだと決めた。何故ならば、藤堂は日野(江戸)で共に剣の腕を磨いた仲だから。


 近藤の部屋から戻った土方は、文を書き上げた。


「山崎、これを斎藤に」

「御意」


 土方が文を託すと、山崎は瞬く間に部屋を後にした。緊迫した重苦しい空気が土方の部屋を包み込む。


「椿、お前に頼みたい事がある」

「はいなんでしょうか」

「実は、伊東さんを殺ることになった」

「っ!」

「その日、斎藤は御陵衛士を抜けだす。斎藤が不在の時に起きた事件と見せかけるためにな。もしバレたら斎藤は消される」

「はい」

「お前と逢引していた事にする。出会い茶屋の一室で二人で一晩過ごしてくれ」

「二人きりで、ですか」

「ああ。絶対に気づかれちゃならねえんだ。いいな!」


 土方の表情はいつものものとは違い、有無を言わせない迫力があった。それだけ重要な仕事であり、失敗は決して許されないという事なのだ。


「はい。承知いたしました」


 この日のために、斎藤は身を削り間者となって潜り込んだのだ。そして山崎は互いの情報を零すことなく繋いだ。彼らの功績を自分が潰してはならない。椿は拳を強く握り、自分に言い聞かせる。


 ––新選組を信じる。これは間違っていない!


 決行の日は次の新月の刻。伊東甲子太郎、暗殺である。


 ◇


 伊東暗殺の計画は着々と進んでいた。

 近藤自ら直々に伊東に文を宛てて書いた。政治情勢の意見交換という名目を付けて、近藤の私宅に招くことになっている。


 決行日は十一月十八日。


 本当はそれより前に斎藤を新選組に戻すことを考えていたが、念には念を入れて椿と逢引をしているていを選択した。斎藤は新選組にとって無くしてはならない人物だからだ。


 そして最近、土方の部屋に頻繁に出入りする人物が増えた。


「宜しいでしょうか!」

「おう、入れ」


 若々しい、ハリのある声の主は市村鉄之助と言う少年。土方に茶を淹れたり、簡単な文を届ける仕事をしている。

 この市村鉄之助に関して、土方にしては珍しく接し方が甘い気がしてならない。以前、沖田が言っていた事が頭に浮かんだ。


『それにしても土方さんはモテますね。そのうちそこら中に土方さん似の子が増えるかもしれませんね』


 ––似てなくもないのよね。まさか、土方さんの……。でも鉄之助くんの年齢からすると、京に来てからではないと思う。きっと江戸の……!


「何だ椿。じろじろ人の顔を見やがって。言いたい事があるなら言え」

「えっ、ないです。ないですっ」


 この鉄之助は性格も良くできた少年だった。文句の付け所がない。


「変なやつだな。なあ、鉄之助」

「はっ、いえ。椿さんは素晴らしいお医者さまだと思います」

「だとよ、椿」


 二人のやり取りに顔が赤くなる。そして胸の奥がじんとするのは何故だろうか。父と知らずに父の側で働く鉄之助、父でありながら父と悟られぬよう鬼の副長を通す土方。


 ––なんだか、感動していまいますっ


 いや、親子ではないのだ。

 その証に鉄之助には兄がいる。流石に江戸にいた頃に同じ女から二人の隠し子を造ることはないだろう。


「すみません、少し外します」


 椿は涙を堪えて部屋を出た。


「椿さん?」


 振り返ると山崎が立っていた。


「あ、お帰りですか。お疲れ様です」

「えっ。泣いて、いるのですか!」


 山崎は椿の泣き顔を他の隊士には見せられないと、すぐに手を引き椿を部屋に送った。


「何があったのです」

「え、あ、その」

「隠し事は、だめですよ」


 山崎の真剣な眼差しが椿の瞳を射止める。椿はその視線から逃れる事ができなかった。


「土方さんが」

「土方さんが?」

「鉄之助くんと」

「はい」

「もしも親子だったりしたらって考えたら、泣けてきて」


 瞳を涙で潤わせ、今にも零れ落ちそうにその粒が揺れていた。


「……え?」

「はい」

「あの、椿さん。もしも親子だったりしたらって、仮説ですよね」

「そう、ですね」

「親子ではないですよ」

「……」


 椿はもうわけが分からなくなっていた。視線は彷徨い、何かを懸命に考えている。


 ––そう、親子ではないのよ。では私は何故そんなことを思ったのかしら!


 何故というか、単なる妄想に過ぎないのだが……。


「その仮説は何処から来たのですか」


 山崎は監察としてのさがが疼き始めたのか、椿がそう仮説を立てた根拠が知りたくて仕方がない。


「何処からって」

「はい、仮説には必ず根拠らしきものが存在します」


 あまりにも真っ直ぐな山崎の姿勢に椿は焦った。まさか、土方の不在時に恋文を盗み見したなどとは言えない。ましてや、子種が欲しいと書いてあったなんて、もっての他だ。

 椿は迷いに迷って、沖田の言った一言だけを掻い摘んで山崎に話した。すると山崎は、眉間にぐぐっと皺を入れ動かなくなってしまった。


 ––あゝ、もう私のバカっ。山崎さんが怒ってる


「全く、正直呆れてものが言えませんね」

「すっ、すみません」

「椿さんの事ではありません。沖田さんですよ。あの人には困ったものです」

「言わないでください。私が勝手に思い違いをしたんです。沖田さんは悪くありません」


 すると山崎は真顔で椿をじっと見る。


「分かりました。では口止め料をいただけますか?」

「えっ。口止め料、ですか」


 真顔だった山崎の顔が、ゆっくりと崩れて口角がくぐっと上がった。椿はまさか山崎もこんな顔をするとは思っていない。


「山崎さん、なんだか悪い顔をしていますけど」

「それは椿さんに疚しい事があるから、そう見えるのです」


 なるほど、そう言われるとそんな気もする。


「さあ、椿さん。口止め料をいただきたいのですが」

「えと」


 椿はいくらならと巾着を漁る。すると山崎はお金はではないといって椿を混乱させた。困り果てた椿はもうお手上げだ。

 すると山崎が少し身を屈めるた。


「椿さんの口付けで払ってください」

「え、あっ、山崎さん!」


 椿は激しく照れながらも、それが山崎なりの甘えなのだと思い知る。こんな口付けのせがみ方があるだろうか。椿は目を閉じて山崎の唇に自分のそれを重ねた。


 世間が大政奉還でぐらぐら揺らぎ始め、坂本龍馬が暗殺されて、何が正解で何が間違いなのか分からなくなっていた。

 それでも椿は山崎と、この新選組と共に在りたいと、強く願った。

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