エリジン

 殺せと声が聴こえる。そっとアッシュは、その声に導かれるように意識を取り戻していた。

 視界に広がるのは、一面灰色の世界。その世界の中心に自分は浮いている。

 空も地面もない。灰色だけの空間にアッシュは独りいた。

 そっとその空間に裂け目が出来て、炎に包まれる大地が映し出される。

 ああ、彼が暴れているのだとアッシュは思った。自分の中にいた、もう一人の自分。

 殺し続けろと自分に囁いていた彼が、大地を焼いている。

 殺してしまえと彼はいう。もう、愛した彼女はどこにもいない。だから、この悲しみに満ちた世界を終わらせるのだと彼は叫ぶ。

 彼の悲しみが、アッシュの中に流れ込んでくる。愛しいものを、その愛しさゆえに殺してしまった絶望。彼は、その絶望から破滅の道を選んだ。

 殺して、殺して、殺し尽くして、すべてを道連れにして彼は自分ごと世界を終わらせようとしている。

 でも、そこにはーー

「悲しみしか、ないよ……」

 かつては、アッシュも彼と同じだった。育ての親を殺し、生き長らえた生きる屍だった。

 それを、彼女が変えてくれた。

 グラインを初めて抱きしめたときのあたたかさを、アッシュは今でも思い出すことができる。

 彼女が自分に微笑んでくれて、とても嬉しかった。生きててよかったと心こそこから生まれて初めて思った。

「そう、グラインに会うために僕は生まれてきたんだ」

 そしてアッシュは、彼女に生かされた。

「会いたいな……」

 生きて、またグラインを抱きしめたい。その思いを胸にアッシュは意識を手放していく。




 遠く、大地の縁が燃えている。その赤い炎は漆黒の夜を明々と照らして、辺りに陽炎を振り撒いていた。

 炎が燃え上がる音とともに、悲しい嘶きがグラインの耳に木霊する。

 それは、白き竜の鳴き声だった。どこかおも悲しげなその声に、グラインは面をあげる。二重窓の内側に座るグラインは、そっと冷たい硝子に手を宛てて、その声に耳を傾ける。

「あなたは、何が悲しいの?」

 夜の王は言った。

 白き神と黒き神の争いが、彼らの愛する世界樹を枯らしたと。その世界樹を喪った悲しみに、大地を焼く竜はうちひしがれている。

 炎に燃える大地を見つめながら、グラインはそっと額を窓につけていた。

「あなたの悲しみをなくせたらいいのに……」

 今すぐそこにいって、あなたは独りでないと教えてあげたい。ずっと私は側にいると気持ちを伝えたい。

 離れていた自分が、それを伝える資格はないだろうけれど。

「アッシュ……」

 思う人を呼んでも、竜は悲しげな叫び声をあげるだけだ。

 こんっと窓を叩く音がしてグラインはそちらへと顔を向ける。

 エリジンが窓の外にいた。鋼の竜に股がった彼女は、にっこりと微笑んでグラインに手を振っていた。

「エリジンっ!」

 グラインは急いで窓を開ける。エリジンは笑みを深め、よっとグラインの座る二重窓の間にやってきた。

「どうしたの、辛気くさい顔して?お姉ちゃん、心配になっちゃうよ」

 苦笑しながらエリジンが髪をなでてくる。あっとグラインは息を呑んで、そんなエリジンの顔を見つめていた。

「私、そんな深刻な顔してた?」

「うん、明日にでも世界が終わっちゃいそうな顔してた」

 エリジンの言葉にグラインは苦笑する。本当に世界が終わりそうなのに、この人の明るさは昔から変わらないのだ。

それがおかしくて、嬉しかった。

「ねえ、グライン、元気?」

「元気に見える?」

 エリジンの質問にグラインは弱々しく微笑む。エリジンはそっと首を縦に振ってグラインに言った。

「ちょっと、夜空でも散歩しようか」




  鋼の竜が炎に照らされた夜空をいく。その竜の背に二人の少女が乗っていた。その1人であるエリジンはグラインを背後から抱きしめて、優しく髪をなでてくれている。グラインの新緑の髪は漆黒の空に踊る。炎の明かりに照らされた髪は、仄かに橙色の光を帯びていた。

「初めてグラインが根の国に来たときも、こうやってお散歩したっけ……」

 背後からエリジンの優しい声が聞こえてくる。グラインはエリジンを振り返って、顔に小さな笑みを浮かべていた。

 突然父がいなくなって独りになった自分は、宛がわれた部屋でいつも泣いていた。そんな自分をエリジンが外に連れ出してくれたのだ。

 粉雪の舞う空の蒼い日だった。鋼の竜に乗ったエリジンが窓の外にいたことにグラインは心の底から驚いた。そんなグラインに小さなエリジンは微笑んでいったのだ。

 ――空をお散歩してみようか!

 竜の背から見る世界は美しかった。

 青い空に雪花が舞って、太陽の光を受けて虹色に輝いていた。その光の向こう側に、高く高く聳える世界樹の姿があった。

 グラインは空を仰ぐ。夜の空から白い雪がひらひらと舞い降りる。そっと掌をかざすと、その一片が掌に落ちた。雪の結晶は、グラインこ手の中で瞬く間に溶けてしまう。

 灰人形として再開した父の姿を思い出す。彼の冷たい体に雪が触れても、溶けることはなかった。

「この雪も灰になった世界樹の断片なんだよね……」

 夜の王に聴かされたこの世界の神話を思い出して、グラインは言葉を紡ぐ。そんなグラインをエリジンが強く抱きしめた。

「なんで、グラインなの……?なんでグラインが世界樹なの?」

 エリジンの声が震えている。グラインはそんな彼女を振り返っていた。

ほろほろと、エリジンの夜色の眼から涙か零れおちていく。グラインは優しくエリジンの腕を振りほどくと、そっと彼女を抱き締めていた。

「なんかさ、訳が分からないよ……。グラインが世界樹で、世界が終わっちゃうのに私たちは戦ってて、その世界はもうすぐ終わっちゃって……」

「終わらないよ……」

 優しくエリジンに囁きかける。エリジンは驚いた様子でグラウンを見つめた。新緑の眼を細め、グラウンは言葉を続ける。

「だから、待っててくれる? お姉ちゃん」

「グラウン……」

 また、エリジンの眼から涙が零れる。鼻をすすって、彼女はきつくグラウンを抱き寄せてきた。

「狡いよ……。グライン」

「うん、ずるいね……。私」

 エリジンが何も言えなくなることを知っていて、自分は待っていてくれと言葉をかけた。

 この人のもとに、アッシュとともに帰りたいと思ったから。

「絶対に、お父さんと一緒に帰ってくるから……」

 決意を言葉にして、グラインはエリジンに微笑んでみせた。





 


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