アパートたまゆら【部分公開】

砂村かいり

プロローグ

プロローグ

 雨の日は嫌いだ。バスに乗らなければならないから。


 ウールの手袋をするにはまだ少し早い季節なので、わたしは塩化ビニール手袋(抗菌タイプ)をぴっちりとはめた手で吊革につかまる。

 今日の運転手はベテランではないのだろうか。ブレーキを踏みこむたびに車体が揺れ、後ろに立っている学生風の若い男性の上半身がわたしの背中にあたる。

 ああ、早くこのコート、除菌スプレーしたい。

 まだ会社に着いてもいないのに、わたしの頭はそんなことでいっぱいになる。せめて自分は前に立つおじさんにぶつからないよう、左手に持った傘の柄を杖のように握りしめ、パンプスの爪先でしっかりと踏んばる。

 車内に充満する体臭、香水、その他もろもろのにおいが可視化されてわたしを包もうとしている気がして、マスクの下でさらに唇をかたく引き結ぶ。

 あとは会社最寄のバス停に着くまで、誰かの涙のような雨が車窓を叩くのを人の頭越しに見ていた。

 次からは絶対、面倒でも駅前に出てバスターミナルから始発に乗ろうと思い定めながら。


 わたしはいわゆる潔癖症だ。不潔恐怖症とも呼ばれるあれだ。

 自己診断だけれど、軽度から中程度のものだと思っている。

 除菌ジェル(ウイルス対応タイプ)は必携。

 お金や動物に触ったら、即除菌。

 公共の乗り物に乗るときは、マスクと手袋が欠かせない。

 海やプール、温泉が苦手。


 そして――たとえ恋人が相手でも、積極的にキスはしたくない。

 特に、深いやつは、無理。

 かといって、処女でもないのだけど。


 そんなめんどくさいわたしが、隣人に恋してしまうことになるなどとは、思ってもみなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る