【2/我慢、出来ない】

 

 

 コンビニの向かいにあるマンションの一室。

 慎太郎部屋に戻ってきた綾子は、出る前とは違い明かりを点けられた室内を改めて見る。

 来る度に、その学生が自力で借りるのには過ぎた大きさに、慎太郎が御曹司だという事を想い知らされる。

 モデルルームと言っても信じてしまいそうな、すっきりと整えられたリビング。

 しかし一箇所。

 テレビの前のソファーの横その右のサイドテーブルに、見覚えのある包装紙がくしゃくしゃになって置いてあった。



「~~~~っ!」



 手作りチョコを口移しで食べさせた事を思いだしてしまい、綾子は動揺する。



「チョコ、美味しかった。あんなに情熱的な綾子は初めてで。……嬉しかったよ」

「なっ、ぁあっ!!」



 慎太郎は熱の籠もった視線を向け、つなぎっ放しの手と反対の手で、慌てる綾子の頬を撫ぜた。

 外気にさらされていた冷たい慎太郎の手が、綾子の体温で熱を持つ。

 綾子の胸がとくんと高鳴りを覚えた瞬間、眼差しが重なり合った。



「綾子……」

「しん、たろー……」



 耳朶に響く慎太郎の声に背筋がぞくりと打ち震え、綾子は思わず身を任せそうになるが。

 喉の飢えに、だめよ、と。我に返り、手を振りほどいて身を離して慌ててキッチンに向かう。

 お腹に物を入れればきっと収まるわ、と自分すら満足に騙せない嘘を唱えた。



「綾子?」

「――朝食まだでしょ、私作るから待ってて」



 ハムエッグでいいよね、と。離れてく綾子に、慎太郎は名残惜しそうに手を伸ばした。

 しかし、その手を避けるように向けられた作り笑顔の前に沈黙し、大人しくダイニングの席に座る。

 綾子の動きを視線で追う中、彼女が芽衣の置いて行ったエプロンを着るのを見て、一瞬悲しそうな顔をしたのに気づいた。



「……やっぱり、気にしているのか」

「んー、何か言った?」

「なんでもない」



 慎太郎は、子供のようにムスッとした顔をしてそっぽを向いた。

 そして、綾子は婚約者である芽衣の存在を気にしているかも知れない、と思考した。無理もない事だろう何しろ彼女達は親友同士だ。

 きっと綾子は、裏切りを働いた事を気にして、悲しんでいるのだ。

 もしかしたら後悔をしているのかもしれない。

 想いを馳せる慎太郎を他所に、真実は、空腹で痛みを訴え出したお腹に顔を歪めただけだ。



 また、いなくなるのか、と。慎太郎は苛立ちを含ませながら小さく呟いた。

 慎太郎にとって綾子は、儚いと形容詞がつく女だった。

 それは、初めて綾子に会ったとき、幼い頃の彼女は体が弱くて、こほこほと咳をしながら一人寂しげに公園の隅っこで佇んで。

 今にも倒れて、けれど触ったら折れて粉々になって消えてしまいそうな、危うい雰囲気を出していたのが慎太郎の脳に染み付いて離れない。

 以来、二人でずっと一緒に過ごしてきたが、目を離すと繋いだ手をすり抜け何処かにいってしまう、ある種、猫のような綾子の行動力は余計に、慎太郎へ『儚い』というイメージを強く植え付けていた。


 そして一年前、彼女の母の死によって塞ぎ混んだ彼女は、その繋がっていた全ての糸を断ち切り、慎太郎の前から姿を消した。

 慎太郎はその時初めて、自分のほぼ全てが綾子で埋め尽くされている事を知り、同時に、空いた穴が他の何者にも埋まらない事を知った。

 まるで肩翼をもがれた鳥の様に、全てが上手くいかず、求めても手に入らない精神的な餓えが体を苛んだ。

 あんな思いは二度と御免だ、と。言葉になら無い声を出し、監視するように綾子を見つめる。

 ――もう、絶対離しやしない。



 綾子は、慎太郎の視線、言の葉の端が切なさと暗さで染めているに気がついたが、深く気にせずに料理に戻る。深く突っ込むと藪から蛇が出てくるに違いない、と逃避する。

 何より、ハムエッグ総じて目玉焼きというのは時間が勝負なのだ。

 既に、パンはトースターで焼いている途中、サラダ代わりのトマトも切ってある。

 ふんふんふーん、と。機嫌良く鼻歌を歌いながら、フライパンに水を少量入れて暫く蒸らす。

 黄身はお互い半熟が好みだ。

 ハムを焦がさないように、黄身が固まり過ぎないように、けれどキチンと火が通るように。

 


「…………うん、いい感じ」



 仕上げに、綾子は胡椒を振る。

 塩は慎太郎の分だけだ。綾子は後で醤油をかける。

 もう一品作りたいけど、と。材料不足を惜しみながら背後の食器棚から皿を出した。

 綾子は料理をする事が嫌いではない。

 より正しくいうと、作ることそのものが好きなのだ。

 自分の作り出した物で誰かが喜んでくれたら、もっといい。

 食べてる間は、喉の乾きを忘れられるものね、と。慎太郎に見えない角度で自嘲する。

 何だかんだと言って、吸血鬼としての業は深い。

 気を抜けば、その首筋に飛び付いてしまいそうだ。



「出来たわ、慎太郎」



 ビー、クール。ステイステイよ綾子、と。心に言い聞かせて、綾子はテーブルに朝食を並べる。

 その横で、慎太郎はペットボトルからカップにコーヒーを注ぐ。

 言わずとも、綾子の分は一対一にカフェオレにしてくれているのに、顔を綻ばせた。

 二人だけで朝食をとっていた、幼いころに戻った様な気がした。



「それじゃあ食べようか」

「ええ」



 いただきます、と。二人は向かい合って座り、食べ始める。

 こんがり焼いたパンに、慎太郎はバターを塗り綾子は素のままで、共にハムエッグを乗せる。

 慎太郎は半熟の黄身を潰してパン全体に塗り広げ、綾子は醤油をかけて齧り付く。

 我ながらいい出来だわ、と。綾子は笑った。

 なんだかんだで空腹だったのだ。


 口の中に広がる、香ばしく焼きあがったパンのサクサクもっちり感、さっぱりとした白身がハムの味を引き立て、温かな黄身の甘みと醤油の塩気が混じりあい。

 綾子の舌の上で絶妙なハーモニーが奏でられている。

 それが、堪らない程の幸福。

 今この瞬間は、慎太郎の何か微笑ましいモノを見るような生暖かい眼差しも許せる気がする。

 暖かくて美味しい食事は、この世の統べてを許すのだ。

 

 

「ふふっ」

「やっと機嫌が直った? 綾子」

「ええ、ちょっと意固地だったわね。謝るわ、ごめんなさい慎太郎」

「……君が謝る問題でもない。俺もちょっと焦り過ぎた。ごめん」



 照れくさそうに言う慎太郎に、綾子は優しく微笑む。

 それに見惚れた慎太郎は、顔を赤くして口をパクパクさせた。



「何変な顔しているのよ?」

「……なっ、んっ、なっ……んっ」



 以前は自覚できていなかったが、綾子の笑顔は慎太郎にとってどうしようもなく弱点だ。

 切れ長の瞳が細められ、桜色の唇が花が咲くように開き、頬が柔らかく丸み、緩くカーブの掛かった長い髪が揺れる。

 透き通るような輝きと、何かを憂うような儚げな瞳の光を併せ持った笑みは、慎太郎の動悸を激しく打ち鳴らす。

 思春期の少年もかくやという位にうろたえてしまう。

 まるで、彼女こそが運命の女だと訴える心の奥底を知られたくなくて。

 綾子の微笑みを見た後は、いつもそっぽを向いてしまう。 



「ん?」

「な、なんでもない。――それより、君デザート買ってただろ。食べないかい。冷蔵庫に入れてある…………って、珍しい。チョコケーキじゃないんだ」



 冷蔵庫の中のケーキを見つけた慎太郎が驚いた声を上げた。



「綾子がチョコ系以外を買ったの、久しぶりじゃないか」

「まあね。言ってなかったっけ? それしか無かったのよ。っていうか、あげないわよ。私が食べるために買ってきたんだから」

「そう言うなって、二人で食べた方が絶対美味しいよ」

「……好きにすれば」



 切るならとっとと切りなさいと。催促する綾子に、はいはい、と。慎太郎は笑いながら、台所から包丁を持ってくる。

 苺もきっかり二等分して切り分けたケーキを、綾子はるんるん食べ始める。

 まずは上部のクリームをフォークで剥ぎ取り、口に運ぶ。

 甘いものは正義、別腹、至福のときである。

 んまいー、と。目を細め、次いで脳裏に浮かんだ刹那的で破滅的な悪魔的な本能の囁きに、あ、駄目だわ、とあっさり抵抗を諦める。



 うっかりしていた。油断していた。見誤った。正直舐めていた。

 こうならないように気を付けていたのに――!



(もうこれ以上、我慢、できない)



 人間の食欲が満たされたからだろうか、それとも見ないふりをしていた喉の乾きがピークに達したからだろうか。

 例えば携帯電話の電源ボタンを押すような気軽さで、躯の中の何かが、すとんと切り替わった。

 


 綾子のやや茶色がかった虹彩が、一瞬にして猫の様に縦に細まり赫焉に染まった。

 思考が、理性が、人としてのそれが血を吸う鬼のそれに色付いていく。

 どうしようもなく欲していたのだ、初めて血の味を知ったあの時から。

 慎太郎の首筋に牙を突き立てて、その血を思う存分飲み干したい。

 その力強い光を放つ瞳を、相手を意のままに操る魔眼で絡めとり蹂躙したい。

 考える力を残し、その想いは弄び、尊厳の一欠片に至るまで、壊して、侵して、汚して。

 二度と取り返しのつかない状態になるまで、この手で破滅させたい。

 


 慎太郎を『餌』にする。

 

 

 自分に血を吸わせてくれる人間を、綾子は餌と呼んでいた。

 これ迄餌を吸い殺したことや、同じ餌を二度と吸う事は無かったが、慎太郎はきっと、綾子にとって特別な餌となるだろう。

 お腹一杯血を吸って、それでも生きていたら、綾子の生き人形として死ぬまで飼い殺しにするのだ。

 それは何より背徳的で、破滅的で、楽しい事だろう。


 普段、玉の輿玉の輿、と肉食系で自分勝手な愛情を向ける綾子であったが、慎太郎自体に向ける感情は意外なほど純粋で、常に自分と一緒の幸せを願っている。

 だからこれは本意ではないが、普段から欲望本意で動いている綾子にとって、抗いがたい衝動だ。

 綾子は捕食者の笑みを浮かべ、愉しそうに口を開く。



「ねーえ、慎太郎?」



 猫撫で声を出しニヤニヤと笑う綾子に、慎太郎は警戒する。

 彼の記憶によればこんな声を出した時、八割方録でもない事を思いついた時だ。



「……何だ?」

「一つ、ゲームをしない?」

「ゲーム?」

「簡単なゲームよ。――そして、勝者は敗者の言うことを一つだけ聞く」



 慎太郎は苦笑した。

 いつだって、綾子は回りくどくて不器用な奴だった。

 今回のゲームとやらも、彼女なりの歩み寄りだろう。

 ……しかし。

 何か様子が変だと、慎太郎は目線を綾子に送る。

 その楽しそうな口調の裏に、どこか悲痛な気持ちが隠れているような気がして、答えるのをほんの刹那だけ躊躇ってしまった。

 綾子は付き合いの長さ故にそれを読み取ってしまい。また、慎太郎も綾子が気がついたのを察した。

 ふん、と。綾子は苛立ちを隠さずそっぽを向く。



「それで、どうなの慎太郎?」

「……別にいいけど、それって問題先送りじゃないのか? 俺が絶対に勝つんだから」



 自信に満ち顔を、慎太郎は綾子に向けた。

 彼女が何を画策しようとも、もし昨日の事を無かった事にしようと思っても、そうはいかない。

 既にその躯は彼のものになっている事を思い知らせてやると、意気込む。



「随分と自信があるのね」

「ああ、確実に勝ってやる。だから覚悟しろよ……、俺は、君を逃す気はないからな」

「なっ――」


 

 慎太郎はニヤリと笑うと、綾子の手を取りその甲にキスをした。

 綾子は顔を真っ赤にして固まる。

 玉の輿だの言ってるわりに、色仕掛けには弱いのだ。

 動揺する綾子に畳み掛けるように、慎太郎は条件を突きつける。

 逃がす気はない、と。実益も兼ねて。

 


「ゲームっていうのは公正にやらなければ駄目だ。だから、君ゲーム中は俺の膝上だっこな」

「な、なんでよっつ!」

「不利になったら君、逃げ出すだろ」

「……うっ。そんな事……ないわよ?」

「嘘をつくな、嘘を。相手にゲーム仕掛けて騙し討ち逃亡するのは、綾子、君の常套手段だろう」

「ぐぅ」



 慎太郎は、唸りながらケーキを食べる綾子を見て溜め息をつく。

 今回は逃亡するつもりは無さそうだが、念には念を入れて、という事である。

 無意識ではあるが、慎太郎は今の綾子に妙な違和感を感じていた。

 だが、どこかピリピリとした感覚を置いて、なんでこんな面倒くさい女好きになったのだろう、という思考が慎太郎の頭によぎる、

 そこをかわいい、と感じてしまったのが運の尽きであるが。

 


 慈愛に満ちた生温かな慎太郎の視線を感じながら、綾子は残りのミニパフェを口に運ぶ。

 正直、戸惑っていた。

 こっちが、今までの人生を投げ出すような決断を密かにしたというのに。

 口に出して言った訳ではないから伝わっている筈もないが、身に纏わす雰囲気を読まずに手にキスまでしてくるとは。

 それに朝から、今までに無かったぐらいに彼の率直な感情を受けている。

 一年前では考えられなかった事だ。

 前はもっと、こう、同性の悪友の様な長年連れ添った夫婦の様な、ぞんざいとも言える扱いを受けていた筈だ。

 我彼に流れる空気に友情や親愛を感じていたが、決して女として見られていた訳ではない、と思う。

 この一年の間で彼に何かあったのだろうか、それとも――?



「ちなみに、その膝上だっこの提案を拒否したらどうなるの?」

「この場で押し倒して犯す」

「へぇ、犯すの」

「うん、孕むまで寝室閉じこめて犯す」

「ふーん……」

「……」

「……」

「……」

「え?」

「ん?」



 んん? んんんんんん!? と。綾子は首を傾げる。

 何だか酷く物騒で卑猥な言葉を聞いてしまった様な気がする。

 今更ながら、起床直後に逃げなかった事を後悔し始めた。

 恐る恐る視線を合わせると、爽やかそうな笑顔の中に、ねっとりと絡み付くような、地面に引きずり下ろされるような、変なモノを感じる。

 感じていた温度差が洒落にならないレベルに落ちいているのを感じるも、それと同じくらい吸血衝動が綾子を襲う。



(血が、飲みたいわ。……それはそれとして、慎太郎はただの人間のはずよね?)



 綾子の背筋が悪寒でゾクゾクと震え、奥歯の後ろがふわふわして何だか落ち着かない。

 嫌な予感、本能が全力で警鐘をならしているのだ。

 吸血鬼になって身体能力が異常なほど上がった筈だが、今の慎太郎には何だか勝てる気がしない。

 本能に忠実に生きてきた経験が告げる、慎太郎は哀れな『餌』になるような男ではないと。

 彼から感じる得体の知れない何かに、綾子は事態が想定外の方向へ向かっている

 直ぐ様逃げ出したくなる欲求を我慢し、動揺を悟られないように問いかけた。



「お、女の子相手に孕むまで犯すなんて。し、慎太郎? はしたないわよ?」

「何を言うか。君が昨日そう言って、中に出してと強請ったんだ? ……憶えてるだろう」

「あわわわわわわ!!」



 これはダメだ、ダメすぎる、と。綾子は超後悔した。

 昨日の私は何て事を言ってしまったのだろう。



(もう二度とお酒なんて飲まいわ――!)



 そう心に固く誓いながら、頭の片隅で理性が冷静に判断を下す。

 慎太郎は滅多に嘘をつかないし、良くも悪くも有言実行の男。

 下手な行動を取ると、本当にベットに連行されかねない。 

 獲物を前に舌舐めずりする獣の様に、唇を舐める慎太郎の動作が、とてつもなく艶めいて、その澄んだ瞳から放たれる秋波にくらくらする。

 綾子の意思とは関係なしに、体が勝手に怯えたような仕草を取ってしまう。

 それを見た慎太郎は、花が開くような笑みを浮かべ綾子に近づく。

 席を立ち、ジリジリと下がる綾子に追う慎太郎。



「う、うぅ~~~~」

「ああ、不安そうに震える綾子も魅力的だ」



 綾子の耳元で率直に愛の詞を言い、慎太郎は綾子を押し倒す。

 いつの間にかソファーの場所まで誘導されたことに気付き、綾子は戦慄した。

 なんとか主導権を握らなければと、慌てて思考する。



(ええと、つまり、その。その。その。

 母さんに習った限りでは、こういう場合、下手な拒絶は相手をそそらせてエロ行為を激しくさせるだけだから……。

 だから、たぶん。押すのが無理なら引いて、体を求められているならその欲望を肯定してあげて、情に訴えて気をそらして、そんな感じのあれやこれやで多分――?)



 女は度胸、黙って喰われるものかと、綾子は悪女の仮面を被る。



「綾子……」

「昨日もあんだけしたのに、朝からイケナイ人ね慎太郎」


 

 慎太郎が熱に浮かされたように綾子の名を呼び、顔に接吻の雨を降らす。

 綾子はそれに抵抗せず、恥じらいに顔を紅潮させるフリをしながら、慎太郎の髪を撫でる。



「ゲームに勝って、私を好きにするんじゃなかったの?」



 男の脳髄をとろかせるような媚びた声をだし、こてん、と首を傾げる。

 魅惑的に、蠱惑的に、自分から体を押し付けながら笑いかける。

 内心では様々な感情欲望がミキサーにかけられ、ぐるぐる、わーきゃーわーきゃーといっぱいいっぱいであるのだ、ぐるぐる。



 慎太郎は勿論の事、綾子の目論みなど読める筈もなく、見事に引っ掛かり欲望を加速させ、綾子ぉ、と熱い吐息とともにいい匂いのする首筋に顔を埋める。

 目があった時に気付いた赤い瞳の事なんて、思考の隅に追いやって性急に快楽を求めようとする。

 男という生き物は所詮、下半身に支配されている生き物である。



「ん、はぁ。……じゃあ、これがゲームだ。先にイったほうが敗けだよ」



(うぇい、うぇい、うぇーいと! ちょっと待って、待ってぇ! 同じ! だぶんそれきっと勝敗関係ないからーーーー!!)



 綾子は心の中で壮絶な悲鳴を上げながら、次の言葉を紡ごうするが、左手は難無く捕獲されて指をしゃぶられ、止まる。



「綺麗な指だ、ここが感じるのかな?」



 吸血鬼となった綾子は、コンクリートすら素手で破壊できるというのに、今のように血を飲んでいない状態では加減できず、故に物理的な対抗ができない。



(だから、演じるのよ)



 精一杯、情に訴えようとしてしまう憐れな女を。

 恥ずかしそうにしながら、しかし悲しそうに目尻に涙を浮かべて。

 怯えたように、体、震わせて。

 けれど、それを隠そうと虚勢を張る女を、全力で演じる。

 ――恐らくここが、勝負所。

 


「うぅ、ああっ、んんん、ねっ、ねぇぇ! はあ、はぁ。……聞いてくれる、慎太郎」

「……綾子?」

「私、頑張って慎太郎の事気持ちよくするわ。……だから」

「……」

「だから、私が勝ったらね。芽衣の事を…………」



 ごめんなさい、何でもないわ、と。涙を一筋ながして無理矢理笑った綾子から慎太郎は体を放した。

 こんな風に切なげに涙を流されて儚げに微笑まれたら、男して堪ったものではない。

 また、咄嗟に芽衣の名前を出した綾子であったが。それは、慎太郎にクリティカルヒットする単語であった。

 自分がキチンと精算していないばっかりに、目の前の好いた女が捨て身で縋ろうとして、その気持ちすら押し潰そうとする姿なんて、罪悪感ギンギンで正直萎える。

 こんなの悦ぶなんて、平時の綾子だけだ。



「慎太郎?」



 綾子の不安そうな声。 

 ピンク一色から、一気に重苦しい雰囲気になった部屋の中で彼女から背を向き、離れ落ち着かなさそうにして、先ほどまで食事していたダイニングの椅子に乱暴に座る慎太郎。


 

 綾子は、心の裡でうおっしゃらー! と勝利の雄叫びを上げながら体を起こす。

 綾子VS慎太郎、一撃KO。

 決め手は、女の涙と罪悪感である。


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