「ジョン・レノンや坂本龍馬が、どうして人気があるかわかる?」

 彼女は唐突にそんなことを言った。

「死んでるから?」

 死んだ人は偉大だ。

「あなたがさっき言ったことをやったからよ。黒船がやってきて、それでもお偉方が藩がどうこう言ってる時に、龍馬は日本の未来を考えて動いてた。アメリカ政府がベトナムに侵攻しているときに、ジョンは戦争のない世界を想像してた。彼らは、社会が間違ってると思ったときに、自分の正しいと思うことを貫いた。だから英雄になれたの。でも、彼らが英雄になったのは死んでから。生きてる彼らには何がもたらされたか、わかる?」


 彼女が俺の答えを待っているとは思えなかったので、俺は黙って話の先を待った。「迫害であり、死よ。龍馬は幕府に殺され、ジョンはホワイトハウスによって国外追放を言い渡された。彼らはその時彼らがいた社会に迫害され、殺されたのよ。わかる? 自分が正しいと思うことをやるのは簡単なことじゃない」

「君はジョン・レノンになりたいのかい?」

「正しいと信じることをしたいのよ」と彼女は答えた。「社会に所属するということは、間違ってると思うことをやらなくちゃいけないということとイコールなの」


 彼女は空き缶を地面に置くと、力任せに踏みつけた。空き缶は静かな夜の空気の中で一際派手な音を立てて、ぐしゃりと潰れた。彼女は社会の代わりに空き缶を踏みつけたのかもしれない。

「俺は完全にイコールだとは思わないけど、君の言っていることにも一理あるとは思う」

 それから俺は、今まで頭の中でぼんやりと考えていた事柄を初めて言葉にしてみることにした。「君が言うように、子供の頃には『大人が間違ってる』と思うような理不尽なことはたくさんあるし、おそらくほとんどの人が多かれ少なかれそういった大人に対する反抗的感情を持ったはずだ。『あんな大人にはならない』と子供心に誓う。でも結局はなってしまう。自分が大人に近づくにつれて忘れちゃうんだ。あるいは、正しいことをしてやると思いながら社会に入る。でも、仕事に追われて忙しくしてる間に社会のあり方に慣れてしまう。それが当然だと思うようになる。昔抱いた感情は、時間が経つにつれて忘れてしまうし、時間に追われているうちにどうでもよくなってしまう。ある意味で最も恐ろしいのは、時の流れだよ」


 彼女は少しの間黙っていたが、やがて「時間、か……」と呟き、「私もあなたの意見に賛同するわ」と言った。

「ありがとう」と俺は答えた。


 それから二人はそろってため息を吐いた。二人の国家元首の意見が一致すれば世界は少しは平和になるかもしれないが、二人の若い旅人の意見が一致したところで世界が変わらないことぐらい、俺たちだってわかっていた。

「最近はずっとそんなことを考えてて」

「そんなことって、モラトリアムのこと?」

「そう、それ。大人になるってことについて考えてたら、昔のことを色々思い出して。それでちょっとやってみたくなったのよ。昔みたいに」

「なるほど」

「納得できる理由かしら?」

「さっきのよりはずっとね」


 俺も最後のビールを飲み干し、空いた缶を足で勢いよく踏み潰した。空き缶は、彼女のときよりも大きく甲高い音を立て、彼女の空き缶よりも平たく潰れた。「モラトリアムか」


 今日あった二人の大学生が二人とも、同じ単語を口にしたのは単なる偶然ではない気がした。それは日米関係や長引く不景気なんかよりもずっと、俺たちにとって重要で切迫した問題なのだ。俺は潰れた空き缶を拾い上げると、水切りの要領で、ただ川面ではなく夜空に向かって投げた。回転のかかった空き缶は、夜の涼気を切り裂くようにシュッという鋭い音を立て、左の方向に緩やかなカーブを描きながら飛んでいった。彼女が子供みたいな無邪気な歓声を上げた。それから俺のまねをして自分の空き缶を投げたが、その時だけ特別サービスで引力が増したみたいに、数メートル先の斜面にほとんど直角に近い角度で落ちていった。


「一つ信じてることがあるんだけど」とため息混じりに彼女が言った。「人間ってのは、あらゆる側面から評価すればみんな同等だっていうこと」

「どういうこと?」

「例えば、すごく足の速い人が方向音痴だったり」

「刑事にはなれないね」

「美人な女優が実は性悪だったり」

「仕事が恋人だろうね」

「何かに秀でた人は何かに劣っていて、そうやって人間は均衡が保たれてるってこと。私はこれだけ徹底して運動神経がないんだから、きっとスプーンの一つや二つ曲げられるに違いないわ。あるいは瞬間移動ができるとか」

 俺は笑った。

「でも、ヘリコプターを設計して、おまけに絵画の才能もあった人がいるけど」

「きっとものすごく歌が下手だったに違いないわ」

 彼は作曲もしたんじゃなかったな、と思いながら、そのことは口にせず、「髪の毛が薄かったりね」と言った。


 俺たちは来た道を戻り、駅へ向かった。例のデパートの前には『本日の営業は終了しました』という看板が置かれ、入り口に立った店員が出て行く客に深々とお辞儀をしていた。顔を上げると、「缶ビールの一つや二つ、別にどうってことないよ。何なら明日もおいでよ」とでも言うように、巨大な建造物が俺たちを見下ろしていた。「残念ながら、明日はもうここにはいないんだ」と心の中で答えながら前を見ると、彼女はすでに数メートル先の横断歩道を渡り終えていた。


 地下鉄の駅に着くと、二人とも二駅分の切符を買い、ちょうど到着した電車に乗り込んだ。彼女はほとんど何も喋らなかった。光が丘で喋った分、今は押し黙ることで均衡を取り戻そうとしているみたいだった。実際、電車が動き出すと彼女は、「今日はちょっと喋りすぎたわね」と反省の弁を述べた。

「そんなことないよ。話が聴けてよかった」と俺は本心から言った。


 すっかりお馴染みになった駅に着き、ホテルまでの道のりを歩いていると、彼女が再び口を開いた。

「さっきの話じゃないけど、私はジョン・レノンとかビートルズが好きよ。彼らはギター一本で世界を変えられることを証明したわ。ジョンは死んだけど、彼の音楽は四十年経った今でも地球の裏側で聴かれてる。彼の歌を聴いた人たちが、『音楽で世界は変えられる』って信じて、彼の歌を歌い続けてる。彼の音楽は何十年も先の未来まで歌い継がれる。ジョンの音楽と魂は、きっと永遠に生き続けるのよ」

「それってすごく素敵なことだ」

 それっきり彼女は黙っていたが、ホテルが見えてきた辺りで、「私はそういう人になりたいわ」と照れたように言った。


 ホテルのロビーでどちらともなく立ち止まると、俺たちの間に決まりの悪い間が生まれた。明け方まで電話で恋愛話に花を咲かせた高校生の男女みたいに、どのタイミングで、どうやって別れの言葉を切り出すべきかお互いに探り合っていた。頭上で輝くシャンデリアの派手やかな光が気まずさを助長した。


「何階に泊まってるの?」

 彼女が耐え切れなくなったように口を開いた。光を得た彼女の瞳の美しさに、俺は息を呑んだ。

「五階の五一〇号室」と俺は答えた。「よかったら来ない?」

 言ってから俺ははっとした。そんなことを言ってしまったことを後悔し、そんなことを言ってしまった自分に呆れた。「もう少し話がしたいし」

 ばつが悪くなって取り繕うように言ったセリフは、余計にばつを悪くしただけだった。


「ありがとう。でも、今日は疲れたから遠慮しとくわ」と彼女は冷静に言った。俺は自分の顔が紅潮するのを感じながらも、少しほっとした。

「だよね」

「それに」

 彼女は少し言いづらそうに俺の顔を見上げると、泣いてるみたいに表情を崩した。「私たち、今ぐらいの交わり方がちょうどいい気がする。その、変な意味じゃなくて」


 俺は彼女が言わんとしていることを考え、妙に納得した気持ちになった。きっと彼女は、ただの知人ではなく、仲のいい友達でもなく、缶ビール片手に未来を語り合いながら、長い秋の夜のほんの一時だけを一緒に過ごす相手を求めていたのだった。

「そうかもしれない」と俺は言った。


 それから彼女はバッグの中をあさると、何かを取り出し、俺の前に差し出した。紺青色の万年筆だった。かなり年季の入ったものらしく、表面には細かい傷がいくつもあり、シャンデリアの光の中でも鈍く落ち着いた色合いを保っていた。

「これは?」

 無意識のうちに、万年筆を摘み上げながら尋ねた。

「昔、小さな頃にある賞を受賞したことがあって、その時にもらったものなの」

「賞品ってこと?」

「そう」

 万年筆が賞品ということは、文学に関する賞なのかもしれない。


「あなたにあげるわ」

「くれるって?どうして?」

「さっき言ったでしょ、私の人生の一つの局面が終わったって。それで思ったんだけど、私の人生の第一幕は、その万年筆とともに始まった気がするの。それに象徴される、とも言えるかも」

「どういうこと?」

「第一幕は、題して」と言い、彼女は人差し指を立てた。「『大人への反抗と過去への固執』」

「『大人への反抗』ってのはさっき聞いたよね?『過去への固執』っていうのは?」

「その賞を含めて、自分が輝いていたときにいつまでもすがっているのが嫌なのよ。だから、それはあなたにあげる」

「それはつまり、第一幕の象徴であるところのこの万年筆を手放すことで過去を清算し、新たな気概を持って第二幕に臨もうってこと?」

「まぁ、そんなところ。社会への反骨心は消えないでしょうけどね。『大人なんかクソ食らえ』みたいな態度はやめるってこと」

「どうして俺にくれるの?」

「もう必要ないけど、私にとっては大切なものなの。だから、捨てられない」と彼女は言った。


 机の奥にしまう代わりに俺にくれるわけか。それでも俺は彼女の気持ちがわかる気がしたから、それをもらうことにした。

「それに、あげるなら、あなたにもらって欲しいのよ」と彼女は呟いた。


 結局、彼女が先に別れの言葉を言い、その場を立ち去った。俺は足早に歩いていく彼女を見送り、エレベーターを待つ彼女を見守り、彼女の姿が消えるのを見届けた。彼女がこちらを振り返ることはなかった。少ししてから俺も歩き出し、彼女を運んで帰ってきたエレベーターに乗り込んだ。

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