俺と私 2007年10月

 夜までの時間を持て余した俺は、特に用事もなくホテルまでの道のりの途中にあるデパートに入った。館内をぶらぶらとし、洋服や本を見て、おもちゃ売り場まで回った。それから最上階にあるカフェでコーヒーを飲みながら、タバコを三本吸った。それでもまだ七時にもなっていなかった。カフェを出ると、ちょうどエレベーターが到着したところだったので、中の人が出るのを待ってそれに乗り込んだ。


 静かに下る夜のエレベーターの中で、俺は最後の夜をどう過ごすかを考えていた。高級レストランで食事なんてどうだろう、と思ってから、さっきラーメンを食べたばかりだったことを思い出した。それから、テレビ塔に上ることや大倉山から夜景を見ることを考え、るるぶに載っているようなことしか思いつけない自分に少し失望した。だいたい、二週間以上自ら好んで特に何をするでもなく過ごしてきた男が、最後の夜だからといって、大倉山に登って夜景を見たりするのはどこか滑稽だった。それで俺は結局、いつものようにマスターのところで一杯やることに決めた。


 気づくと、十人弱ほどいた客はいつの間にか俺と麦わら帽子をかぶった中年の女性の二人になっていた。エレベーターの扉が開き、その女性が扉の向こうでエレベーターを待っていた人たちの間を足早に通り抜けていった。彼らはどういうわけかエレベーターに乗ってこようとはしなかった。彼らはみな一様に俺の顔を見ていた。まるで、お前は降りないのか、と言わんばかりだった。そして、それはまさにその通りだった。


「上へ参ります」


 巨大な箱は感情のこもらない声で容赦なくそう言い放った。俺はいつの間にか地上を通り越し、地面の中まで潜っていたのだ。科学とは時として残酷なものだ。もちろんそのまま乗っていれば地上に戻れたのだけど、俺はばつの悪さを感じてその場を動いた。


 地下一階の食品売り場は、すでに夕食時を迎えているにもかかわらず、多くの買い物客で賑わっていた。そのほとんどが主婦で、残りは家族連れかカップルだった。俺はせっかく来たのだから、と買うものはないか考え、ペットボトルのお茶とマスターの手土産にケーキを二切れ買った。以前に彼が、「甘いものには目がない」と言ったことがあったからだ。


 会計を済ませ、エスカレーターのほうに向かっていた俺は、ある人物に目を留めた。それは彼女だった。バーの奥から二番目の席の彼女だ。彼女もエスカレーターに向かっているようだったが、何かを買った様子はなかった。俺が彼女に気づいたのにわずかに遅れて、彼女も俺に気がついた。瞬間、彼女の顔がわずかに曇り、それから微笑んだ。何かを諦めたような微笑みだった。


「久しぶりですね」

 それ以外に掛ける言葉が浮かばなかった俺は、あまり気の利いたセリフではないと思いつつも、そう言った。話したこともないのに久しぶりも何もあったものではないが、彼女が俺に酒をおごってくれたのが事実だとしたら、少なくとも礼を言う権利はあるはずだった。

「あの、こないだはありがとうございました」

「何が?」

「バーで酒を奢ってくれたでしょう?」

「あぁ、いいのよ」

 彼女の澄んだ目は確かに俺の方向を見てはいたが、俺よりももっと後ろを見ているような印象を受けた。マスター、あなたの潔白が証明されましたよ。俺は心の中で呟いた。


「それよりさ、それよりさ」

 彼女は突然言葉に幼さを滲ませながら、俺の鞄を二度、バシ、バシ、と叩いた。びっくりするほど力強かった。まるで、力の加減を知らない小さな子供が駄々をこねるような言動だった。それから彼女は声を潜め、ほとんど囁くようにして俺の耳元で言った。

「無事にここから出れたら、お詫びにもう一杯奢ってあげるわ」

 お詫びって、何だ? だいたい、「無事にここから出れたら」なんていうのは、遭難した人か、そうでなければ監禁された人が吐くセリフだ。

「どういう意味……」

「ちょっといいかな?」


 俺が言いかけた時、俺の後ろから現れた何者かが彼女の肩を掴んだ。その瞬間、彼女の顔が強張るのがわかった。声を掛けたのは、四十そこそこの女性だった。パンツスーツにラベンダー色のブラウスという出で立ちで、光沢のあるストレートの黒髪を肩の辺りまで伸ばし、首元には落ち着いた輝きを放つネックレスが覗いていた。買い物客の主婦たちとは明らかに雰囲気が違っていた。食品売り場よりは、一つ上の階の化粧品売り場で接客をしているほうがしっくりくる。ひょっとして彼女も進みすぎた科学の犠牲者ではないか。そんな考えが頭を過ぎった。


「何です?」

 俺の横にぴったりと張り付くように立ち、そう言った彼女の声には、先程顔に浮かんだ強張りの欠片も感じられなかった。むしろ余裕すら感じられる。パンツスーツの女性は、彼女の肩から手を離すと、俺に一瞥をくれてから、満を持したように始めた。

「お会計のお済みでない商品をお持ちですよね?」

「え?」と声を上げたのは、彼女ではなく俺だった。反射的に、彼女の肩に掛かったショルダーバッグに目をやる。彼女は白いロングスカートに茶のカットソーを着、その上に七部丈の濃紺のジャケットを羽織っていた。ジャケットにはポケットがあったが、何か物が入っているようには見えなかった。だとすると、彼女がもし本当に、「お会計のお済みでない商品」をお持ちだったら、バッグの中以外には考えられなかった。


「バッグの中をお見せいただけますか?」

 スーツの女性はそう続けた。俺は彼女の顔を窺った。彼女が万引き犯だとは思えなかったが、濡れ衣なら濡れ衣で彼女がどういう反応をするのか気になった。ひょっとしたら、あまりに突然の事態に取り乱すかもしれないと俺は思った。それはそうだろう。たとえ無罪だとしても、突然そんなことを言われれば誰だって少しくらい動揺する。ただこの場に居合わせただけの俺だってしている。ここでは俺が彼女の唯一の知り合いだから、彼女のことを弁護しなくてはならないな、という勝手な使命感に襲われていた。


「その前に、あなたは誰です?」

 俺の予想に反して、彼女は落ち着き払った様子で言った。

「店内保安員のものです」と女性は言い、ご丁寧にスーツの内ポケットから名刺まで出した。彼女はそれを受け取ると、表、裏、表と一通り眺め、俺に手渡した。俺も同じように名刺の表と裏を一往復する。デパート名のあとに「保安部・主任」という肩書きが記され、その下に千田絵美と名前が印刷されていた。

「チダさん」

「センダです」と保安員の女性が、すかさず彼女の間違い訂正する。その反応の速さから、日常的に同じ過ちが繰り返され、その度に千田保安員はうんざりした気分で訂正していることが窺えた。俺は思わず噴き出しそうになったのを堪えた。

「千田さん」と言い直す彼女の口元にも微かに笑みが浮かんでいるように見えた。「もし仮に私が『お会計のお済みでない商品』を持っているとしても、今の時点での犯罪性はないんじゃないですか?」


 俺にしてみれば完全に予想だにしない反応だったが、千田保安員にとってはこの手の屁理屈もお馴染みなのか、ため息混じりに言った。

「確かにそれには議論の余地がありますが、レジを通す前に商品をご自分のバッグに入れられた場合、その時点で既遂と考えるのが一般的です。刑法二三五条の窃盗罪に該当します」

「十年以下の懲役、または五十万円以下の罰金?」

 夜ご飯はカレーとシチュー、どっちがいい? と尋ねるような気軽さで彼女はその文言を口にした。

「よくご存じで」と千田保安員は落ち着いた声で言ったが、その瞳がわずかにぶれ始めていることに俺は気づいた。「ショルダーバッグを買い物カゴ代わりに使うのは一般的ではないし、合法的でもありません。これから会計をするつもりだったという言い訳をした人は今までにもいましたが、私がそれを信じたことはないですので」

 千田保安員は牽制するようにそう言い放った。


「そこまで言うからには、私がやるところを見たんですよね?」

「えぇ、この目で確かに」

「私は何を盗みましたか?」

 彼女は相変わらずの余裕を持って、英会話の教材にも載っていないような、おそらく二度と聞くことはないであろう不自然な日本語を口にした。

「缶ビール一本」

 千田保安員のその言い方は、先ほどのエレベーターの音声を思い出させた。

「それから?」

「それから?」

 千田保安員が彼女の言葉を鸚鵡返しにする。この時ばかりは、千田保安員の顔にもはっきりと見て取れる動揺の色が浮かんだ。私は何かを見逃しているんだろうか。何か過ちを犯しているのではないだろうか。黒板に書いた間違いを生徒に指摘されたときの教師の表情だ。

「それだけです」

 そういう千田保安員の声は弱々しかった。彼女の顔に笑顔が浮かんだ。


「確かに私は万引きをしました」と彼女はオリンピックの開会を宣言するみたいに言った。

「あ、したんだ」

 俺は思わずそう言ってしまった。しかし、彼女が次に口にした言葉に俺はさらに驚いた。

「でも、この人もしたんですよ」

 彼女がそう言って指を指したのは俺だった。俺は念のため振り返ってみたが、後ろには誰もいなかった。

「え、俺?」

 まったくの不意打ちだった。「俺が何をしたって?」

「元はと言えば、この人が万引きしてたのを見つけて私が注意したんです。そうしたらこの人に逆ギレされて、脅されて。『ちくったら、ただじゃおかない』って。それで私にも無理やり万引きさせて、『これでお前も同罪だぞ』って。仕方なかったんです」


 彼女は泣き崩れこそしなかったが、目は潤んでいた。俺は訳がわからず、呆然と彼女を見ていることしか出来なかった。千田保安員は、明らかに混乱しているようだった。何が真実なのか、自分は誰を責めるべきなのか、決めかねているようだった。

「わかりました」と千田保安員は言ったが、何がわかったのかは彼女にもわかっていないようだった。その証拠に、そう言ったきり言葉が続かなかった。俺はまず自分の無罪を高らかに主張するべきだったかもしれないが、それ以上に気になっていたことがあって、そっちのほうが先に口を突いた。

「何言ってんの? どういうつもり?」

 もちろん彼女に対する疑問だ。しかし彼女は千田保安員を見つめたまま、こちらに目を向けようともしなかった。これは厄介な人間に関わってしまったかもしれない、と俺は思った。


「とにかく、まずはあなたが盗んだ缶ビールを確認させてください」と千田保安員は彼女に向かって言い、それから俺を見て、「あなたのバッグの中も一応確認させてもらいます。その上で事務所で話を聞かせてもらいますから」と言った。

 盗難品を確認してから連行するというマニュアルでもあるのかもしれない。千田保安員は、そのセリフを言う時だけは、最初に見せていた威厳を取り戻したように堂々としていた。これはマニュアルに書いてあることだから間違いない、とでも言いたげだった。


 まず、彼女が肩に掛けていたバッグから缶ビールを一つ取り出して千田保安員に渡した。千田保安員はそれをくるくると回して確認しながら、「間違いないですね」と言った。彼女に対する質問のようにも聞こえたし、自分自身に確認しているようにも聞こえた。彼女は悔しそうに唇を噛み締めながら、こくりと頷いた。

「じゃあ、あなたもバッグを見せてもらっていいですか?」

「俺は何も盗んでない」

 俺はそう主張したが、千田保安員は意味ありげな笑みを浮かべただけだった。俺は大人しくバッグを渡した。

「ごめんね」

 その時、彼女が俺にだけ聞こえる声でそう囁いたような気がした。俺は驚いて彼女の顔を見たが、表情に変化はなく、相変わらず視線を合わせようともしなかった。


「これはどういうことですか?」

 こっちは、千田保安員が向こう端の生鮮食料品のコーナーまで聞こえるような大声で言ったセリフだ。どうやら彼女は自信を取り戻しつつあるようだった。見ると千田保安員の手には缶ビールが握られていた。さっきのとは違うメーカーのだ。

「それが?」

「あなたの鞄に入ってましたけど」

「え……」


 俺は言葉を失った。何がどうなっているのか見当がつかなかった。まるで頭の中で竜巻が起きているみたいに混乱していた。頭の片隅に「冤罪」という言葉が浮かび、別の片隅では、こういうのって映画だとよく起こるよな、なんていうことを暢気に考えていた。身に覚えのない拳銃やら包丁やらが発見されて、殺人犯に疑われる。よくあるストーリーだ。映画ならほとんどの場合、主人公の無実は二時間以内に証明され、おまけに真犯人も捕まるが、もちろん俺は俳優ではないし、これは映画でもなかった。

「とりあえず、二人とも事務所に来てもらいましょうか」


 俺と彼女が並び、その後ろを千田保安員がぴったりと付くかたちで俺たちは歩き出した。少し進んだところで、彼女が何かを言った気がした。俺はその時、どうして俺の鞄に缶ビールが入っているのかと、どうやって自分の無実を証明するか、そして彼女がどういうつもりでこんなことをしているのか、ということで頭が一杯だったので、彼女が何と言ったかは聞き取れなかった。

「え?」

「え?」

 後ろの千田保安員も聞き取れなかったらしく、俺と同時に声を上げた。

「とりあえず、あなたを置いて先に逃げるわ」

 一回目で聞き取れなかったのも無理はないかもしれない。彼女はそれを早口の英語で言ったのだ。俺はどきっとして、思わず後ろを振り返った。千田保安員はぽかんとしている。どうやら英会話は苦手のようだった。


「俺はどうなる?」

 俺も早口で応じる。

「あなたに任せるわ」

「なるほどね。それは名案だ」

「ちょ、ちょっと、あなたたち何を喋ってるの?」

 余程焦ったのか、そう言う千田保安員の言葉にはさっき取り戻したはずの自信はもう感じられなかった。ほとんど、話の輪から除け者にされた女子高生みたいに見えた。


「ねぇ、そう言えば」と彼女は日本語に戻して言った。今まで聞いた彼女の声の中で一番大きい声だった。千田保安員があからさまにたじろいだ。「あの本で、どうして主人公の彼女は主人公を追わなかったんだっけ?」

「あの本?」と俺は訊き返す。

「だから、何の話?」

 千田保安員の言葉には次第に苛立ちがこもってくる。

「あの本よ」

 そう言って、彼女はある小説のタイトルを口にした。俺はその小説を知っていた。今だってバッグの中に入っている。


「ちょっとトイレに行ってもいいですか?」

 そう言ったかと思うと、彼女は千田保安員の許可も待たずに、すたすたと進むべき方向から逸れて歩き始めた。

「ちょっと……」

 理解の範疇を越えた言動が連続したせいか、そう声を上げたものの千田保安員はとっさには対処できずにいた。俺は彼女の姿を目で追いながら考える。主人公の彼女は主人公を追わなかったわけじゃない。追えなかったんだ。なぜなら……。次の瞬間、俺はある感覚に捉われた。難しい数学の問題の解法がわかった時の、複雑に絡まりあった糸が不意に、すっと解けるのに似た感覚だ。俺は千田保安員の足元に目をやる。


「あっ」

 千田保安員が短い声を上げた。俺は即座に保安員の視線の先を追った。トイレに行くと言った彼女は、トイレを目の前にしたところで、むしろトイレから逃げるみたいに左の方向に駆け出していた。

「ちょっと!」

 千田保安員は彼女を捕まえようと慌てて二、三歩踏み出す。しかしすぐにブレーキをかけ、俺のほうを見た。俺を置き去りにして行くことに躊躇しているようだった。どうすべきか迷いながら、「ちょ、ちょっと、その人を捕まえて!」と叫んだ。


 その声に、近くにいた主婦たちが驚いてこちらを見た。状況が飲み込めない主婦たちは呆然としている。俺もすぐさま逃げればいい話だったのだが、あたふたしている千田保安員が少し哀れになって、種明かしをしてあげることにした。


「千田さん」という俺の呼びかけに、哀れな保安部の主任は、今度は何よ、というふうに振り返った。「主人公の彼女は主人公を追えなかったんです。なぜなら」

 そう言って、俺は千田保安員の靴を指差す。「なぜなら、彼女はハイヒールを履いてたから」


 駈け出した俺の背後から、「ちょ、ちょっと!」と叫ぶ、千田保安員の困り果てた声が追ってきた。さっきからあの人はそれしか言ってないな。彼女の背中を追いながら、俺は思った。

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