私 2007年9月

第三章

 あれから一週間後の日曜日(つまり、喫茶店であの不思議な男に出会った次の日曜日)私は別の喫茶店の前にいた。焦茶色の丸太で造られた山小屋のような建物で、扉の上には「Crossroads」と書かれた、あまり大きくはない木製の看板が取り付けられていた。それ以外にこの建物が何なのかを知るための手がかりはほとんどなかったが、扉に張られたガラスの奥に見えるテーブルや椅子から、私はそれが喫茶店らしいという見当をつけた。


 しかし店内はひっそりとしていて人の気配はなく、営業しているのかどうかはわからなかった。ただ日曜の夕方ということを考えれば、いま営業していないのなら営業しているときはないと考えるのが妥当そうだった。私は恐る恐る扉を押した。扉は思った以上に軽かった。扉に付けられた鐘の乾いた音が、静まり返った店内に響いた。


 私はしばらくの間入り口の辺りに立ったまま、何かが起こるのを待った。しかし、思ったとおり、何事も起こらなかった。鐘の音が止み、その余韻が止んでしばらくしても、誰も姿を現すことはなかった。窓から差し込む西日に、漂う埃が煌めいていた。


 店はそれほど広くなく、L字型のカウンターとその向かい側の壁際に小さなテーブルが二つあるだけだった。丸椅子がカウンターの長い辺に六つ、短い辺に三つ置かれ、背もたれの付いた四角い椅子がそれぞれのテーブルを挟むように四つずつ置かれていた。ここにある十七の椅子がすべて埋まることがないのは、まず間違いなかった。十七の椅子は、十七人の客が座るためではなく、一人の客が座る場所を選べるようにそこにあるのだ。


 私はカウンターの長い辺の左から二番目の席を選んで腰掛けると、改めて店内を見渡した。建物自体はもちろん、テーブルや椅子、戸棚などの家具も可能な限り深い茶の木目調で揃えられていた。壁には等間隔にランプが掛けられ、ランプとランプの間には小さなパステル画があった。それらは橋の絵であり、山の絵であり、建物の絵だった。そして夏の風景であり、冬の風景だった。テーブルの真ん中には小さな花瓶があり、小さな花が飾られていた。カウンターの奥に見えるガラス張りの戸棚の中には、皿やグラスがまるで博物館の展示品のように整然と並べられていた。


 私はどうすべきか考えた。差し当たり、私の目前には二つの選択肢しかないようだった。この場を去るか、留まるかだ。私は右の手のひらに刻まれたしわを左手の親指でなぞりながらしばらく考え、結局待つことにした。私にはそれに十分なだけの時間が与えられていた。


 店内は恐ろしく静かだった。そこにある全てのものが息を潜め、来るべき時を待っているような、不思議に緊張感を持った静寂が辺りを占めていた。積み上げられた何本かの丸太によって街の雑踏から切り取られ、置き去られた空間はまた、時の流れからも外れているようだった。長い間隔で強弱を繰り返す冷蔵庫の抑圧されたような低い唸りと、時折聞こえる製氷機から氷が落ちる音だけが、少なくとも時が完全に止まってはいないことを示していた。


 西日が薄れ、夜の気配が店内に忍び入り始めたころ、何の前触れもなく扉が開き、鐘が高らかに鳴った。夜のプールのように穏やかな時の瀞に漂っていた私は、自分が何かを待っていたことを半ば忘れかけていた。だから扉が開いたときも、咄嗟にはそれが自分の待っていた「何か」であることに気づかなかった。


 入口のところに一人の老紳士が立っていた。彼は手にした新聞に目を落としたまま、ちょうど彼の顔の横にあるランプからたれている紐を引いた。赤みを帯びた明かりが彼と彼の回りのわずかな空間のみを浮かび上がらせた。彼は私がいることには気づいていないようだった。長くも短くもない髪の毛は灰色で、鼻が高く、切れ長の目が印象的だった。薄い唇の周囲には髪の毛と同じ色の髭を蓄えていた。大柄な体格で、彼の年齢にしては肉付きがよかった。そんな彼の風貌にはどこかしら人を落ち着かせるものがあった。私は自分が正しい判断をしたのだと漠然と感じた。


 彼の容姿を一通り観察するのに十分なだけの時間があった後、彼はやっと私の存在に気づいたようだった。彼は一瞬驚いた表情を見せ、それからいかにもすまなそうに詫びた。

「申し訳ない。客人がいたとは」

「いえ」


 彼は上着を脱ぐとランプの脇のフックに掛け、新聞をカウンターの端に置いて厨房に入った。どうやら彼がここの店主らしかった。彼が厨房内の壁についているつまみをひねると、徐々に温かみのある明かりが壁際のランプに灯っていった。

「暗くなったら、ここで電気をつけてください」と彼は言った。

「私がですか?」と私は驚いて言った。

「えぇ。あなたのほかに誰もいなかったら、の話です」と彼は事もなげに言った。それから彼は腰に黒いエプロンを巻き、手を洗った。

「ここは喫茶店で間違いないんですよね?」

 私のこの質問はともすれば滑稽なものだったが、今のこの状況ではごく妥当であるように思われた。

「まぁ、そんなところです。ある場所から違う場所へ移動する人たちが、ふと立ち止まる場所がクロスロードです」

 彼はそう言うと、カウンターの横の壁を指差した。そこには、木立の中で十字に交差する二本の幅の広い道と、その四辻を前に立ち止まる男を描いたパステル画があり、その上には建物の外壁にあったものと同じ木製の看板が掛けられていた。


「クロスロードというのがこのお店の名前なんですか?」と私は尋ねた。

「えぇ、そうです。犬に犬という名前を付けたり、駅を駅と呼ぶのと同じことです。洒落た名前は思いつけませんが、それでも名前がないと何かと不便ですからね」

 彼は笑いながらそう言ったが、私には彼の言った意味がよくわからなかった。私はよくわからないという表情をしてみせたが、彼はそれには気を留めることなく、ソーサーとコーヒーカップを私の前に置いて、ガラスのポットからコーヒーを注いだ。白いカップに注がれたコーヒーは、抑えられた照明の中でほとんど漆黒に近かった。手に取れそうなほどはっきりと明確な形をもった湯気が揺らめき、芳ばしい香りが広がった。


 彼がいつの間にコーヒーを淹れたのか、私にはわからなかった。蛇口をひねれば淹れたてのコーヒーが出てくるのではないかと思えるほど素早く、そして静かに彼はそれを作った。私は彼に礼を言い、そのコーヒーをブラックのまま一口啜った。美味しいコーヒーだった。正確に言うと、とても美味しいコーヒーだった。私が他の場所で口にする多くのコーヒーとどこが違うのかと尋ねられれば、その違いを的確に表現する言葉を私は持たなかったが、一つ言えるのは、それは私が今までに味わったことのないほどの逸品だったということだ。しかし私はそうは言わずに、ただ一言、「美味しい」と呟くように言った。


「コーヒーには自信があるんですよ。もっとも、だからこそここにいるわけですが」と彼は言い、笑った。「お腹が空いておられれば、サンドウィッチもお作りしますが?」

 言われるまで気づかなかったが、随分お腹は減っていた。私が正直にそう告げると、店主は冷蔵庫の中を覗き込み、レタスやらトマトやら卵やらを取り出すと、黙ってサンドウィッチ作りに取り掛かった。


 扉の向こうの世界は薄闇の中にあった。今では外の世界が一日の役割を終えて静かな床に就こうとし、それに代わって、クロスロードの中の暖かい空間が正統な時の流れを引き継ごうとしているようだった。つい先刻まで店内を占めていた予感に満ちた静けさも、今は扉の向こう側にあった。私は腕時計を見た。六時を少し回ったところだった。


「どうぞ。お口に合うといいですが」

 店主はそう謙遜したが、果たしてその味は絶品だった。ここでもまた私は彼の作品を賛美するに足る言葉を知らなかった。それは実にもどかしいことだった。

「美味しいです。本当に、美味しい」

 それでも彼は、私の言葉を聞くと嬉しそうに微笑んだ。

「実はサンドウィッチにも些か自信があるんです」と彼は言った。

「サンドウィッチとコーヒー以外には何があるんですか?」

 この店にはメニューらしきものがなかった。

「基本的にはその二つだけです。ただここにある材料で作れるものなら、私が作れるものならということですが、何でも作ります」


 その時、三度扉の鐘が鳴り、一人の老人が店に入ってきた。

「いらっしゃい」と店主が声をかけた。どうやら顔馴染みらしかった。

「サンドウィッチもくれや」

 老人は私の二つ隣の席に腰かけると、そう言ってポケットから出したくしゃくしゃの千円札をカウンターの上に置いた。店主は答えるよりも早くコーヒーを老人の前に置くと、再び包丁を握った。

「夜は少し涼しくなったね」

 老人がコーヒーを音を立てて啜りながら言った。

「そうですね」と店主は答えた。


 時折風が強く吹き、窓がかたかたと鳴った。やがてサンドウィッチが出来上がると、店主はそれを老人に出し、帰り際に千円札を拾った。そして無造作にカウンターの端に置いてある箱の中に入れた。どうやら釣りはないらしかった。


 私はサンドウィッチを食べ終え、最後のコーヒーを啜ると立ち上がった。そして財布から千円を取り出すと店主のほうへ差し出した。

「ごちそうさまでした。美味しかったです」

 私がそう言うと、老人はちらりとこちらを見た。サンドウィッチはすでにあらかた平らげられていた。店主は笑顔でありがとうございますと言い、お代を受け取った。彼は先程と同じようにそれを箱の中に入れた。しかし先程と違ったのは、釣りがあったことだった。


「コーヒーとサンドウィッチで千円じゃないんですか?」

 私は彼の差し出した五百円玉を受け取りながら尋ねた。

「これで十分です」

「でも」

「ここでの決まりはな、お嬢ちゃん」と老人が言った。「多くは払いすぎないことだ。少ない分には、マスターは甘んじて受け取るじゃろう。だが余分には決して受け取らん」

「そのとおりです」と店主が言った。「もし、それではあなたが納得できないというなら、次回からは千円いただきます。今日はその五百円で、あなたがもう一度クロスロードへ来てくださるという確約を取り付けたい」

「確約?」

「えぇ。安すぎますか?」

 店主は笑った。

「ほう、マスターがそんなことを言うとはね。来る者は拒まず、去る者は追わずじゃなかったのかい?」

「そうでしたね」

 そう言って店主は頭を掻いた。

「あんた、旅の人かい?」と老人が今度は私に向かって尋ねた。

「いえ」

「なら、遅かれ早かれまた来るじゃろうよ、マスター。心配なさんな」


 老人は空になったコーヒーカップを前に少しだけ押し出した。店主はそれにコーヒーを注ぎながら、私のほうを見て言った。

「お待ちしてます」


 後ろ手に扉を閉めると、頬に涼しい風が吹きつけた。街はすでに夜の帳にすっぽりと包まれていた。

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