一を知り、十を知る者

 人の気配を感じた。己の真後ろ、すぐ後ろに立っている。いつだ、何故気付かなかった。こんなにも近い距離だぞ。劉備は瞬時に振り向く――がいない。

「……気のせい、か」

「そんなはした金を集めて、本当に母君が救えると? 相変わらずのお人好しには惚れ惚れしますがね、劉備殿」

 響いた低音。腹の奥底まで透き通る声。芯のある、力強い声。覚悟の籠もった声は劉備を撃ち抜いた。振り返れば、桑の木の前に一人の男が腕を組んでもたれていた。漆黒の色の中に太陽の赤を含んだ巾で纏められている髪は月夜に照らされている。瞳は血のように赤く輝いており、何処か不思議な感覚に囚われた。服装は役人が着用するような漢服を着用しており、風になびいている。優雅な雰囲気を感じさせる。

「ひ、人の名を呼ぶなんて失礼だぞ、お前」

「ああ、これはすみませんね、劉備殿。あなたがあまりにも愚かで、情けない事をしようとしているので気になってしまって」

 男は劉備に謝罪するも、その顔には悪人のような僅かな笑みが浮かんでいる。劉備は少し畏怖した。何故そう思ったのかわからないが。ただ彼の風貌が人間離れしているからかもしれない。だがそれよりも己を愚かと言い放った意味を知りたかった。

「愚か、だと?」

「ええ、愚かです。凡愚ですね」

 男は劉備に歩み寄り、腰に手を添えると腰を折り劉備の目線に合わせる。その赤い瞳に吸い込まれそうだった。

「いいですか、その金があってもなくてもあなたの母君が救われる事はありません。何故なら、甘家にとってあなたは金のなる木だからです」

 何故そこまで知っている。劉備は警戒した。そして抱えている木箱を後ろへ隠そうとするが、男に腕を掴まれる。

「何故なら甘家はあなたの母君を助けようとも思っていないからです。そもそも、金を一定以上持っている豪農が、この荒れ果てた国で他の者を助けようなんて思う方が稀ですよ。……劉備殿のような存在は、ね」

「だけど、甘家は言ったのだ。俺の母上を助けてくれるって! そのためには金が必要だから、金を集めて来てくれと!」

「洛陽の医者に診せる金ですか? 洛陽への交通費、滞在費用、医者にかかる金――それらを合わせてもそんな大金は要らないでしょうね」

 第一あなたの母君は治りませんよ、そういう病気でもないでしょうし。男は劉備の手を離してぶっきらぼうに告げた。手には赤く痕が残る。

「劉備殿、あなたは純真無垢で清廉潔白だ。一を知るが十を知らない。善悪を知らない。そんな劉備殿だからこそ、甘家は利用するのです」

 男の赤い瞳は劉備を捉えて離さない。劉備は吸い込まれるように視線を外す事が出来なかった。そんな劉備を余所に男は話を続ける。

「こんな世界で信じる事が出来るものなど少ないでしょう。金を手に入れた甘家は買官し、朝廷内部に入り込む。そしてあなたを処刑でもするでしょうね」

 何故――と劉備が問う前に男は言った。

 金を手に入れた先を見つからないためですよ――と。

「そ……そんなの――ッ!」

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