Go Ahead!

@nozeki

第1話

午前0時過ぎ。

原付を飛ばして職場へ急ぐ。

道すがら、いかにも飲み屋の帰りと見える連中とすれ違う。

いい気なもんだねぇ。こちとらこれから仕事だってのにさ。

つい愚痴ってしまうのも無理はない。

この仕事に就いてから、日付が変わるまで飲んだことがない。

商売柄仕方ないと言ってしまえばそれまでなんだが。


……おっと、いかんいかん。

急がないと間に合わん。

今日は俺んとこ一番目で出さなきゃならんのだ。

7月のぬるい夜風が頬を撫でる。


職場に着いて照明をつける。

案の定、馬たちは飯の時間だと思って大騒ぎ。

まだ飯じゃねぇ。稽古つけてからだぞ。

こんなことを言いながら担当馬に近づく。

昨夜もこいつはだいぶ夜遊びをしたらしい。

寝わらは散らかってるし、水桶をひっくり返したと見えてそこら辺が水浸しだ。

寝わらを取り替えたら馬装をつけてやらないと。


頭絡をつけ、調教ゼッケンに鞍を置き、引き綱を持って準備完了。

馬場の開門まで曳き運動でウォームアップしてやる。

視線の隅で先生が乗り役に指示を出してる。


午前2時。そろそろ開門だ。

乗り役さんが馬に乗る。引き綱を離して一言。「よろしくお願いしまーす」

担当馬を見送ったらすぐに引き返して次の仕事だ。


ここはとある地方競馬の厩舎。

そして俺はここで働く厩務員。

おっと、手を休めてる場合じゃない。

もう一頭の担当馬にも支度してやんないと。

こっちはこっちで馬房の中はめちゃくちゃだ。

まず掃除してやんないとなあ……。

わかっちゃいるがため息のひとつも出たりする。

いやいや、こんなことでため息ついてる場合じゃねえんだわ。

誰にも気づかれないよう、こっそりと気合を入れてボロを拾う。

これが終われば朝飯の支度。もちろん馬のだ。

今日は飼葉当番だから全頭分の飼い桶を用意しなくちゃ。

まったく、息つく暇もありゃしない。

でも、これが俺の日常。


俺ら厩務員はだいたい3つのパターンに分けられる。

牧場の三男坊とか元騎手だとかでもともと馬に触れてた経験のある人。

経験はないけど馬が大好きでやってきた人。

そして、俺みたいに経験もなきゃ馬好きでもないけど、求人広告でやってきた人。

経験ある人は何でもテキパキとやってしまうし、未経験でも馬好きだったら多少の苦労はなんとも思わずやってしまう。

でも、未経験でさして馬好きでもないのは、やっぱり手が遅い。

俺も入った当初は手が遅いって何度も怒られた。

今ではそれなりにやれてるらしいけど、それでも手が遅いって自覚があるもんだから意識して早め早めに動くようにしてる。

おかげで最近は怒られることはなくなったけど。

何をしてもうまく行かなくて、やっと掴んだ仕事だからさ。

きっちりやりたいよな。


……あ!?

最初に出した馬がもう戻ってきた。

予定よりはるかに早い。何かあったな。

大慌てで引き綱を持って迎えに走る。

「ハッキングからキャンターに移ってすぐにガクンと来た。すぐ獣医さん呼んでくるっす」

乗り役さんは今にも泣きそうな顔でこう言う。

了解です。これで来週の競馬は無理ですねと俺も返して馬を引き取る。

装備を外しながらあちこち触ると、左の前脚が熱い。

来週どころじゃねぇかもなあ。せっかく調子良く来てたのになぁ……。

今度こそ勝てると思ってたから、ガックリ来た。


俺の担当した馬ってのは何頭かいたけど、今まで勝ったのが一頭もいない。

最初は仕上げが下手だからだと思ってた。

先輩に教えてもらい、時には手伝ってもらって納得の行く仕上がりになったって勝てるもんじゃない。

そうしてるうちによその競馬場に転厩したり、引退したり。

勝てなくても入賞すれば賞金は入るし俺の手元にもいくらか入るけどさ。

でも……いつかは勝ってみたいよな。

そう思って、今回も仕上げて来てた。

先生も納得の出来だったし、来週は勝ち負けだぜって気合いれてたのにな……。


馬はその日のうちに放牧に出された。

たぶん半年かそこらは戻って来られないだろう。

どうかすると、戻らずそのままってこともあるかもしれない。

なかなか、世の中思うようには行かないもんだ。

わかっちゃいるがため息のひとつも出てしまう。


それから数日経ったある日のこと。

調教終わりで一息ついてた俺は、先生に呼ばれた。

うちの先生はいつも大らかで笑顔を絶やさない。

とても勝負師に見えないあたりが成績につながんねぇんだよなって、厩務員仲間ではよくネタになる。

その先生が珍しく真顔でこう言い出した。

「馬房空いたし2歳を入れる。キミやってくれるかい?」

ああ、2歳ですか、いいすよ。

いつものように返事をしたら、先生はこう続けた。

「すごいのが来るんだ。キミの初勝利も期待出来るはずだよ」

はぁ、それはありがとうございます。で、どのぐらいすごいんで?

滅多にすごいだの自信あるだのと言わない先生がこう言うからには、きっと素質のある馬に違いない。

思い切って聞いてみた。


「……馬乗り始めてから今までで一番、だ」

先生、言い切っちゃったよ。こりゃあ相当なのが来るんだな。

初勝利だなんだと言う前に、それだけの馬を預かることの重大さに気がついて。

俺も真顔でわかりましたと答えた。

何をしてもうまくいかない俺の人生。

今度来る2歳に賭けてみてもいいのかな。

そんなことを頭の隅でちらっと考えた。

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