第3話 消えた娘


 我が子に対して放任主義をとっていた香穂は、望海が小学一年生の時、夏休みの宿題をほとんど無視して担任教師に怒られた事実を知って、反省せざるを得なかった。だから今年は毎朝少しずつ、強制的に宿題をやらせている。最初のうちは何度も逃亡を試みていた望海だったが、そのうち、母親の意志の固さを身をもって感じ、諦めたようだ。おとなしく香穂に従うようになった。

 驚いたことに、望海は体育が得意なだけで、他の科目は全滅だった。小二の算数レベルで四苦八苦している。香穂が子供の頃でも、もう少しましだった。病気の可能性すら疑ったけれど、宿題をしている時はそれなりに集中できている。ただ単に、勉強が徹底的に嫌いなだけらしい。

 リビングに寝そべり、算数のドリルを広げていた望海は、案の定、シャーペンを鼻と唇の間に挟んだままで、ちっとも捗らない様子だった。

「うーん」

「何? また悩んでいるの?」

 ソファに座って時代小説の文庫本を読んでいた香穂は、背後を振り返っていった。

「だってさあ……〝かっこ〟って何?」

「そこを先に計算するのよ」

「足し算は関係ないじゃん」

「引き算だと変わるでしょ?」

「どうして、〝かっこ〟があるだけで変わってくるの?」

「……」

 子供の素朴な疑問は、時に大人を困らせる。すぐには答えられなくて、香穂は視線を泳がせた。「どうして」と訊かれても、そういうものなのだから、しょうがないではないか。

「とにかく〝かっこ〟の中を先に計算すればいいのよ」

「……むう、わかった」

 納得しがたいという顔で、望海はそう返事した。

 それから、しばらく望海は静かに問題を解いていた。

「ねえ、ママ」

「今度はどうしたの?」

「なんで、人間は勉強しなくちゃいけないの」

 香穂は、思わず噴きだした。

「なあに? 今度は哲学なの? 色々すっとばすわねえ」

「パパは、『スーガクなんて、大人になっても何の役にも立たない』っていってたよ」

「あのね、あんたがやっているのは数学じゃなくて算数。それは普通に生活に必要だから」

「えー、でも〝かっこ〟とか、普通は使わないでしょ?」

「……」

 またも、香穂は沈黙を強いられた。変なところだけ、論理的な娘だ。

「必要な時があるかもしれないでしょ。いいから、やんなさい。そんなんじゃ、高校にも入れないわよ」

「高校って、入らなきゃいけないの?」

「そりゃそうよ。ママだって、高校は出てるんだから」

「パパが『大学出て、ホームレスしてる人もいる。勉強がんばったって意味ない』って、いってた」

「それは、そうならないように努力すればいいだけでしょうが」

 苛立ちを覚え、段々と、幹也に対して腹が立ってきた。あの人は、子供に余計な知恵をつけて何がしたいのだろう。いい合いになって苦労するのは、こっちなのに。

「望海は、中学まででいいかなー」

「それじゃ、ろくな仕事に就けないわよ」

「いいよ、ケッコンするから」

 手の上で器用にシャーペンをくるりと回して、望海はいう。

 香穂の脳裏に、ヤンキー男の子供を身ごもり、十代半ばで赤ん坊を育てている望海の姿がぼんやりと浮かんだ。それは、とても可能性の高い未来のように感じた。別に、それが悪いとはいわないが。旦那がちゃんと働いてくれるなら。

「今からそんなふうに将来を決めなくてもいいでしょ。高校って楽しいわよ? 友達がいっぱいできるから」

「あー、そっかー」

 やっと、望海は得心した表情になった。

「望海は友達が欲しいでしょ?」

「うん、ほしい」

「だったら、勉強頑張んなさい。でないと、あとできっと後悔するから」

 わかった、と大きな声でいって望海は下を向く。けれど、すぐに唸りはじめる。そして、愚痴りだす。同じ映像を何度も再生しているみたいだった。

 娘の相手をするのが面倒になってきた香穂は、十一時を過ぎると、逃げるようにお昼の用意に取りかかった。昼食はいつも簡単なものしかつくらない。今日はそうめんにした。ねぎと海苔を刻んで、そうめんに乗せて出してやると、望海は数分でたいらげた。

「ママは今日も『ボル』?」

 食後のお茶を飲みながら、望海が尋ねてくる。

「ええ、そうよ。もしかしたら遅くなるかも、だけど」

「いいよ。望海もたぶん、遅いから」

 湯呑みを傾けてお茶の残りを一気に流しこみ、望海は椅子から飛びおりた。そのまま、玄関の方へ勢いよく駆けていく。

「危ないところへ行ったら駄目よー」

 遠ざかる小さな背中を見送りながら、香穂は声をかけた。うん、と望海が返事をする。いつも通りの会話だ。何の変化もない、親子のやり取りだった。

 そう、問題など起きるはずがなかった。少なくともこの日の香穂の頭には、そんな可能性を怖れる意識など、かけらもなかった。

 大きな音を立てて、扉が閉まった。


 夢の世界を漂っていた香穂は、起きた途端何の夢だったか、きれいに忘れていた。

 頬に触れる布地の感触が心地よくて、無意識のうちに寝なおそうとする。いけない。香穂は目をぱっちりと開けて、半身を起こした。

 唇の端が涎で濡れていたので、急いで手で拭う。状況が認識できなくて、ぼんやりとリビングを見回した。木目調のタンス、地デジ化の際に買い替えた42インチのテレビ、灰色のカーペット。いつもの我が家の風景だ。

 ああ、そうだわ。ジムから帰った後、ソファで寝ちゃったんだ。

 近頃は、上級の課題をどんどんクリアできるようになっている。その嬉しさで、少し張り切りすぎたようだ。いつも以上に疲労し、家に戻ってシャワーを浴びると、倒れこんでそのまま深い眠りに落ちてしまったのだった。

 壁の時計を見ると、六時を少し回ったところだった。じっとりとした汗を首筋に感じ、香穂はリモコンでエアコンのスイッチを入れた。

 マキシワンピースの胸元に指をひっかけて広げ、送り出される風を直接肌に受ける。エアコンの動く音以外は何も聞こえない静かな午後だった。窓を光らせている陽は弱まってきたとはいえ、まだ明るい。香穂は腕を上げて、ん、と大きく伸びをした。

 外で遊んでいる望海もそろそろ帰ってくるはずだ。お腹が空いているだろうから、夕飯の前に買ってあるスイカを少し食べさせてやろう。あの子ったら、遊び疲れて食事もとらずに眠っちゃうことがあるから……。

 そんなことを考えていたら、空腹が意識された。香穂はキッチンへと歩き、冷蔵庫から半玉のスイカを取りだして包丁で切り分け、かぶりついた。暑いのは苦手だけれど、こうしてスイカの甘みを味わっていると、夏も悪くないな、という気分になれる。

 残った種と皮をごみ袋に捨ててから、再び時計を見た。時刻は六時半に近くなっている。

 遅いな……。

 陽が沈んだら危ないので、望海には六時までに戻るようにいってある。親の命令に逆らってばかりいる娘でも、帰宅時間はちゃんと守っていた。特に最近は厳しく躾けるよう心掛けているから、「ママ、うるさい」と文句を零しながらも、望海は従っている。

 それがどうしたことだろう。静かだった胸に、ふいにさざ波が生じた。

 まさか、事故にでも遭ったんじゃ。

 池で溺れている望海の姿が目に浮かぶ。不吉な想像を、香穂は慌てて打ち消した。そんな緊急事態が起きたら、友達が一緒にいるのだから、すぐに連絡が入るはず。大丈夫、少し遊びに夢中になっているだけだ。まったく、あの子は。帰ったら、また叱らなきゃ。

 そろそろ、夕食の準備をしなければならない。今日はカレーをつくる予定だった。別に、難しい手間はかけない。ガラムマサラなどのスパイスも使わない、ごく普通のカレーだ。ただ娘と夫の舌に合わせるため、甘口と中辛のルーを合わせるのが遠藤家流だった。

 人参をイチョウ切りにし、たまねぎを薄く切る。じゃがいもの皮を剥き、手を止めてもう一度時計に目をやった。あれから十分ほどが過ぎたが、望海が帰ってくる様子はない。

 具材を煮こんでいると、胸騒ぎが大きくなった。我慢ができなくなり、香穂は廊下に置いてある電話台へと小走りで向かい、受話器を取った。

 自然に指が動いて、登録してある聡子の番号を発信する。

「──はい、藤村です」

「あ。あの、すみません。遠藤ですが」

 望海がそちらへお邪魔していないかと、香穂は早い口調で訊いた。答えは否だった。たぶん、猫と遊んでいるんじゃないか、という甘い考えは、打ち砕かれてしまった。

 キッチンへ戻り、機械的にルーを割り入れて、カレーを完成させた。その途端、香穂の不安は最大にまで膨れ上がった。コンロの火を止めると脱兎のごとく走り、クラス名簿を片手に上から順番に電話をかけた。

 けれど、電話口に出た同級生の誰もが、今日は望海と遊んでいないという。高志君も鉄平君も、知りませんと戸惑った声で応じるだけだった。

 では、望海はどこへ行ったのか。

 額に指を当て、香穂は必死になって娘の行動を振り返った。午前中に、夏休みの宿題に手をつけ、少し早目の昼食にそうめんを食べると、いつも通りに走って出ていった。行き先は……聞いていない。危ないところへ行っては駄目よ、と声をかけたはずだが、それが最後の言葉だった。

 最後? 最後って何よ。

 縁起でもない思考をするんじゃない。自分を叱りつけてから、香穂は今度は夫の携帯に電話をかけた。

 呼出音の一つひとつに、じりじりするほど焦りが募っている。十回に達したところで、やっと幹也が出た。

「──何だよ、今仕事中なんだけど」

 声が不機嫌だったので、ごめんなさいと謝ってから、事情を急いで告げた。

「戻らないって……あいつなら心配いらないだろ。まだ遊んでるんだよ」

「だって、七時を過ぎたわよ。こんなに遅くなったことは今までなかったわ」

「いやあ、でも望海だからなあ」

 何を呑気な。香穂は腹が立ってきた。

「ふざけてんの? 事故にでも遭ってたら、どうするのよ」

「ああ、はい、はい。今日は早く帰れそうだから、それまで待ってろ」

「心配だわ。警察に電話した方がいいかな?」

「だから、待ってろって。もうすぐ帰れるから」

 幹也の声に宥める響きが加わる。香穂はやむなく、わかったと返事した。

 受話器を置いてから、爪を噛もうとして、ボルダリングをはじめて以来伸ばしていないことに気づいた。代わりに、香穂はリビングをぐるぐると歩きまわった。

 落ち着こうと、胸の膨らみに手を置いた。まだ七時だ。そんなにうろたえるような時間じゃない。親に心配をかけておきながら、望海は平気な顔でもうすぐ「ただいま」と元気な声を響かせるだろう。そう、杞憂だ。

 けれど、望海の女の子らしからぬやんちゃぶりが、どうしても不安を抱かせた。学校から顔を怪我したと聯絡が入った時は、冷たい感覚が背筋を走り抜けたものだ。いつかこの子はとんでもないことをしでかすのではないかという恐怖は、あの時から心に強く根を張っている。もしかしたら、道路に飛びだして車にはねられたのかも。どうしよう。もし一人で遊んでいたのなら、身元をしめすものをあの子は持っていないから、連絡は入らない。

 香穂は、いてもたってもいられなくなった。家で無為な時間を過ごしていないで、外へ捜しに行くべきだろうか。けれど、夫が待ってろといったので、それもできない。じわじわと弱火で炙られているような気分のまま、ひたすら耐えるほかなかった。

 ソファに腰を落とし、苛々するのでテレビを点けたけれど、バラエティ番組の笑い声が癇に障ってすぐに消した。壁の時計に目を据え、早く娘が戻ってくるよう祈りつづける。時間が経つのが、故障でもしているのかと疑うほど遅く感じられた。

 時計の針が二十六分十七秒をさした時に、ようやく微かな車のエンジン音が聞こえた。夫の運転するアルトが戻ってきたに違いない。

 香穂はじっと動きを止め、扉が開く音がしたのと同時に、素早く玄関へと走った。

「あなた」

 焦れながら、夫に声をかけた。

 幹也は返事をしない。書類を持って帰ってきたのだろうか。折り目のついた紙に目を落とし、熱心に読んでいる様子だった。

「ねえ、何してるのよ。仕事はもういいでしょ? それより望海が」

「ちょっと黙って」

「でも」

「いいから!」

 怒鳴られて、びくりと震えた。

 なぜ、ここで怒られなければならないのか。理不尽な仕打ちに、香穂は唇を噛む。

 よく見ると、幹也の下ろされた左手は厚みを持った茶封筒を握っていた。何か、郵便物が届いたのか。それがどんなに重要な要件だろうと、今はそれどころではないのに。

 やがて、幹也は顔を上げ、大きく息を吐いた。

「何よ、どうしたの」

「うん」

 幹也の口調は重かった。「……つまり、誘拐ってやつだ」

「え?」

「望海はさらわれたんだよ」

「……」

 反射的に、表情筋がひくっと痙攣した。

 何? この人は何をいっているの?

 質の悪い冗談としか思えなかった。ひたすら事故の心配をし、それ以外の可能性にはまったく思い至らなかった香穂には、誘拐などという話は到底受け入れられなかった。

 ユーカイ。その単語が脳に染み渡るまで、十数秒の時間がかかった。やっと反応できるようになると、香穂は額に汗が滲みだすのを感じた。

 誘拐? 本当に? あれって、成功率は0%なんじゃなかったっけ。なのに、そんな犯罪を行う馬鹿が今時いるの?

 信じられない。誘拐なんて、ドラマか映画で描かれるだけの絵空事のような感覚しかなかった。もう内容を忘れてしまった夢のつづきを見ているみたいだ。

「何なのよ、誘拐って。じゃあそれ、犯人からの手紙なの?」

「そうだ」

「そんな!」

 香穂は、絶叫に近い大声を放った。

「嘘よ。だって、ウチみたいな貧乏な家の子をさらって、どうするっていうの。そいつ、どういうつもりなの?」

「さあ、知らないけど……。でも、一億だ」

「一億!」

 声が裏返った。こんな時であるにもかかわらず、笑いの衝動に襲われる。やっぱり、この犯人は馬鹿だ。それとも子供か。香穂は狂言かも、と疑った。望海がどこかで仕入れた知識を実際に使ってみようとして友達に協力してもらい、一芝居打っているのではないか。

 本当に真相がそれなら、散々望海を叩いて叱りつけ、その後、香穂は安堵の涙を流すだろう。もしそうだったら、どんなにいいだろうか。

「話にならない。一億って、どうやったら払えるのよ」

「違うんだよ、香穂」

「何が違うの」

「一億円、俺たちにくれるっていうんだ」

「……」

 今度こそ、頭の内側が真っ白く塗り潰された。

 夫は黙って、封筒に手を入れる。そして、何かを取りだした。

 それは帯封で束ねられた──おそらくは百万円の札束だった。

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