女神と悪魔 軍艦島デスゲーム

安藤 圭

第1話 日常


 女神がいるならば、それは上野千尋ではないか。そんな考えに、男は取り憑かれていた。

 いや、「ならば」などと仮定の表現を使う必要はない。この地上に神がいないということが、どうして常識としてまかり通っているのか。その事実の方が、彼には不思議だった。

 千尋は完璧だった。欲望を持つことを禁忌と思わせる、芸術的な白い肌。見る者の心を捉えて離さない理知的な瞳。一ミリの誤差もなくバランスを保持した鼻筋。微笑むと、慈愛を湛える唇。造物主がつくり給うた奇跡、といったレベルをすら、千尋は遥かに凌駕していた。彼女こそが美を産みだす源泉であろうと、男は思った。彼は、できれば千尋の一番の崇拝者でありたいと願っていた。

 男は、おのれの想いを抑えられなかった。なにがなんでも、女神を我がものとしたかった。目的のためなら、どんな罪でも犯す覚悟だった。

 そのせいで、どれだけ多くの命が喪われようと、彼の知ったことではなかった。



 ボルダリングは通常、スタートホールドを両手で持ってはじめるが、そのホールドの下には右手スタートと書かれていた。貼られているのは紫色のドクロのマーク。このジムには初級、中級、上級、有段者、という四つの大まかな区分があって、紫は上級をしめす色だ。マークは他の課題と区別するためのもので、別に意味などないのだけれど、ドクロというのは実に象徴的だと香穂は考えた。とりあえず、今の自分にとっては鬼門だ。

 スタートホールドを右手で持ち、同じドクロマークのついたホールドを左手で握る。そして右のつま先を右手の横に乗せ、左のつま先を壁に当てて身体を浮かせたら開始だ。

 右手で新たなホールドを掴み、右足を踏ん張って左のつま先をホールドに乗せる。そして、今度は左手でホールドを掴みにいく。垂直な壁ならなんとかこなす香穂だが、これは百四十度の傾斜壁。難度が全然違う。けれど、それがかえって香穂の闘志を燃やした。

 途中までは順調に登り、ずっと行き詰まっている場所まで辿り着いた。次の一手が遠い。アウトサイドフラッギングを使い、勢いをつけて左手を伸ばしたがうまく握れず、香穂は落下した。

 マットの上で尻餅をついたまま、香穂は眉間を曇らせた。色も形も様々なホールドがとりつけられた白い壁は、前衛的なアートみたいだ。それを、睨む目で見上げた。

 昨日からずっとこの課題にばかり挑戦しているのに、未だに成功しない。なぜだろう。身長が足りないのか。いや、ジムのスタッフは「遠藤さんなら、大丈夫です。登れますよ」と笑顔で請け合ってくれた。まだ香穂は、その言葉を信じていたかった。

 ほんのささいなきっかけではじめた趣味なのに、登れないと悔しくて堪らない。なにをそんなに熱中しているのかと、時折我に返って、自分でも奇妙に感じるほどだった。

 三十路に達し、ウエスト周りの肉が気になって、少し焦りを感じた頃だった。テレビの情報番組でボルダリングを楽しむ人たちを観て、香穂は興味を持ったのだ。ダイエットを中途で断念する連続記録も、これなら破れるかもしれないと希望を持った。中高の六年間、バレー部でリベロを務めていたし、運動は大好きだ。それで、香穂はネットでボルダリングジムについて調べて、自宅と同じN区にあるこのジムに決めたのだった。

 初めはジムのスタッフが指導してくれたが、まず貸しだされたシューズのサイズが小さくて、驚かされた。つま先を丸めた状態で固定した方が登りやすいと聞かされ、納得はしたものの、たまに針で刺されたような感覚が走る。最初から、気が重くなった。

 だが、両手にチョークをつけ、初級者の課題を次々と登っていくうちに、少々の痛みなど、どうでもよくなっていった。

 単純に、面白かった。登れない課題に工夫を凝らして、登れるようになると嬉しかった。疲れたら休憩を挟んでまた登って、と繰り返し、気がついたら娘が小学校から帰ってくる時間を大幅に過ぎていた。

 その日と翌日は、筋肉痛で包丁が使えないほどだった。なまじ能力に自信があるため、腕の力に頼ってしまったせいだ。初心者が陥りがちな失敗だった。けれど、香穂は反省などせず、痛みが癒えるとジムに行き、またがむしゃらに登った。多少強引でも、簡単な課題ならクリアできる。二週間ほどかけて、香穂は初級者の課題をすべて登り切った。

 ところが、中級者の課題に進むと、いきなり壁にぶつかった。なんとホールドが丸いのだ。手のひらで押さえつけるパーミングをスタッフに教えてもらったけれど、うまくいかない。ここで、香穂は大きく軌道の修正を強いられた。

 これ以上先に進むためには、もっとボルダリングについて勉強しなければ駄目だ。そう悟った香穂は、ネットでムーブと呼ばれるテクニックを調べ、ジムで実際に一つひとつ試した。ボルダリングに関する本を買い、自宅でトレーニングできるシミュレーターまで購入して玄関脇の壁に取りつけた。毎日、筋トレも行った。そのようにして半年ほどが過ぎると、痩せるどころか腹筋が縦に割れてきたので、思わず笑い声を上げた。

 努力の結果、八カ月かけて、香穂は中級者の課題もすべて制覇してしまった。もちろん、それで満足などせず、香穂はすぐに上級者の課題に挑んでいった。だが、当然難度はさらに上がる。香穂は再び、壁にぶつかっていた。

「こんにちはぁ」

 明るい声が耳に響く。香穂は慌てて立ち上がった。近づいてくるのは、ワインレッドのTシャツと、茶色いハーフ丈のクライミングパンツを身に着けた安本遙花だった。このジムで知り合った、二十三歳の女の子だ。

「相変わらず、頑張ってますねぇ」

「全然、駄目だけどね」

「そんなことないですよぉ。私なんか、半年以上通ってるのに、未だに初級ですよ?」

 愛嬌たっぷりに、遥花は微笑む。

「そりゃあ、私は平日は毎日来てるし、主婦だから、時間はあるのよ」

「それは、私も同じですよ。なんてったって、無職ですから」

 無職、といっても、遥花はまったく気にしていない様子だ。なんでも彼女は仕事がきつかったので辞めてしまい、暇なのでジムに通いはじめたそうだ。自宅住まいだから、たまにバイトする程度でもなんとかなるらしい。

「やっぱり、毎日来ないと駄目なんでしょうか」

「そりゃあ上達したいのなら、回数は増やした方がいいでしょうね」

「でも、そこまで熱心になれないんですよねえ」

 遥花は軽く吐息を洩らした。「他にもやりたいことがいっぱいあるし」

 ふふ、と香穂は笑った。遥花みたいに若い子なら、遊びたい盛りだから、時間が足りなくて困るのが普通だ。香穂は、彼女と同じ齢ぐらいの頃の自分を思い起こした。

 高一の時、鬱病で父親が自殺したため香穂は大学に進めず、卒業すると、友達の知人に紹介してもらった会社で事務として働きはじめた。立体駐車場やエスニック料理店の経営など、手広くやっているというと聞こえはいいが、何がメインの事業なのかよくわからない会社だった。そのうち、社長がヤクザと関係のある人物だと知り、いかつい男たちがオフィスに出入りする場面に出くわした香穂は怖くなって、すぐに辞表届を書いた。

 それからは、バーなど主に水商売で香穂は働くようになった。客を相手にくだらない話をして笑っているのは気楽で、性にあった。店などどこでもいいわけだから、色々と経験してみたくなり、名古屋や大阪などふらふらと気の向くままに動いてまわった。貯金など無視して、お金はあるだけ洋服や食事や遊びに使っていた。

 恋愛も数多くした。若いうちに父親を失ったせいか、付き合う相手の男はいつも一回り以上年上だった。彼らに甘えるのが、香穂はとても好きだった。四十過ぎの恋人の前では、香穂の精神年齢は極端に低くなって、子供とさして変わらなくなった。

 けれど、三十路、四十路の男ばかりとなれば、必然的に妻帯者が多くなる。実りのない恋に嫌気がさした香穂は、東京に舞い戻ってスナックで働きだした際、求婚してくれた客とさっさと結婚した。それが二十二の時だった。

「私があなたぐらいの頃は、寝る間も惜しんで遊んでたなぁ」

「あはは。おじさんの恋人と、でしょう?」

「そうそう、あなたは年上趣味はないんだっけ?」

「ええ、ヤですよ。臭いじゃないですか、加齢臭」

「別にそんなの……」

 いいかけて、他の男性客の姿が視界に入ってくるのに気づいた香穂は口を閉ざした。無駄なお喋りのために場所を塞いでいたら、迷惑だ。香穂は再び壁に挑戦することにした。

「じゃあ、もう一度やるわね」

「いきます? だったら……もし登れたら、向かいの喫茶店のジャンボチョコパフェ、奢りますよ」

「あ、いったな。約束だからね」

 微笑をひらめかせ、香穂はもう一度、スタートホールドを握った。視線を意識すると少々やりにくいけれど、なるべく遥花の存在は忘れるようにして、壁を登っていった。

 さほど苦もなく、先ほど落下した場所までやって来た。さぁ、ここからが問題だ。ふっと息を吐き、集中する。すると、下から遥花の「頑張れー」という声が聞こえて、香穂は頬を緩ませた。

 再度アウトサイドフラッギングを使った。今まで失敗ばかりだったのに、やっと指先が届いた。すかさず、左のつま先をかけ、体重を乗せてさらに上のホールドを右手で掴む。ここまで到達するのは初めてだ。成功の予感が瞬いて、香穂の胸は躍った。

 脚がいい感じに広がったので、左の膝を内側に入れて腰を落とし、両脚で突っ張って固定して、左手でホールドを掴んだ。キョンと呼ばれるムーブだ。このテクニックを、香穂は得意としていた。さらにもう一度キョンを決め、上へと進んでいく。

 次に掴んだ左手のホールドが薄く、カチ持ちで保持したが辛かった。落下の危険を感じる。ここまで来て、失敗するのは嫌だ。一か八か、香穂は腕をたたんでいったん壁に身体を寄せてから、落ちる前に素早く右手でホールドを掴んだ。成功だ。

 ゴールが目前に迫っている。しかし、あと一歩、というところで、ホールドが高い位置に設定されていた。身長が百五十センチの香穂には、かなり厳しい距離だ。

 仕方ない。香穂は、ランジというムーブを選択した。

 左脚を上げてホールドに乗せ、そこに体重を乗せて、飛ぶ。

 左の指先ががっちりとホールドを掴む。その瞬間、勝利を確信した。

 勢いに乗ってさらに登り、香穂は二階の床に立った。額の汗を拭う。

──トップアウト。香穂にとって、初の快挙だった。

 膝に手を置き、荒い息を吐いた。それから、やった、と両の拳を天井に向かって突き上げる。歓喜が急速に膨れ上がり、爆発した。文字通り、香穂は壁を乗り越えたのだ。こんな達成感は、もしかしたら人生の中でも数えるほどしかないかもしれなかった。

 やりつづけて良かった、と思った。夜の生活が長かったせいで、怠惰な性格に成り果て、一つのことに長く打ちこむなんて、香穂には到底できなくなっていた。それが、ボルダリングに出会ってから、百八十度変わった。なんだか、バレーに明け暮れていた学生時代に戻れたような気がする。スパイクを決めたチームメイトと、ハイタッチを交わしていた頃の気分が蘇ってきた。

「やったね、遠藤さん」

 下を見やると、遥花が一生懸命手を叩いていた。


 ビッグサイズのパフェグラスにバニラアイスがこれでもかと詰めこまれ、たっぷりとチョコレートソースがかけられたホイップクリームやバナナなどが頂上を飾っている。千キロカロリーくらい軽く越えていそうな眺めに、怯む心が生じた。

 まさか、本当にジャンボチョコパフェを奢られるとは思わなかった。香穂が「あれは冗談よ」と手を振っても、遥花は「約束だから」と主張して、聞く耳を持たなかったのだ。いくら激しい運動をした後だとはいっても、これはいささかまずいのではないだろうか。

 ボルダリングに熱心に取り組むようになってからは、香穂は、生活から不健康な要素は極力排除する姿勢を貫いている。煙草は完全に止めたし、毎日飲んでいた酒も、今は週に二、三度ビール缶を一本空けるぐらいだ。だから、パフェを前にしても罪悪感を覚えるが、同時に食欲も大いにそそられた。

「じゃあ、いただきます」

「どうぞどうぞ」

 向かいの席に座っている遥花は、屈託なく笑って手を差しだす。香穂はスプーンでクリームをひと匙掬い、口に運んだ。美味しい。久しぶりに味わう甘みが、疲れた身体にしみ渡っていくようだ。

「本当いうと、これ、一度食べてみたかったのよね」

「やっぱり、心魅かれますよね」

「でも、こんなには無理だから、あなたも食べてよ?」

「はい、いただきます」

 瞳を可愛らしく細めて、遥花は答えた。汗で崩れた化粧は、すでに直されている。白いオフショルダーのワンピースを身にまとい、ピンクのルージュを引いた彼女は、輝くほどに若々しく目に映った。そんな遥花を前にすると、最近、目尻の皺が目立ちはじめた香穂は、年齢の差を感じざるを得ない。たぶんあと数年も経てば、張り合う気持ちもなくなるのだろうが、今のところ、香穂は「まだ若い」という意識を捨てきれないでいた。ダイエットを志したのも、どちらかというと夫のためではなく、女の本能である美意識のためだ。

「でも、目覚ましい進歩じゃないですか。今日で上級の課題、三つもクリアしちゃって」

「うん、なんか勢いがついたみたい」

「私には、無理。今日も全然駄目だったし」

 ため息を一つ吐き、コーヒーカップを口に運んだ。

「遥花ちゃんは、まだ無駄な力を使い過ぎなのよ。だからすぐ疲れるの」

「ムーブの選択が悪いんですかね」

「そうね。私も我流だから、あんまり偉そうなことはいえないけど」

「いえ、遠藤さんはすごいですよ。追いつけないなってどうしても思っちゃう。もう諦めた方がいいのかもしれませんね」

「まぁ、趣味なんだから、無理してやるものでもないけど」香穂はスプーンを使う手を止めた。「あなたの場合、そろそろ就職しなくちゃいけないんだろうし」

「就職かあ、面倒だなあ。それより私、結婚したいな」

 遥花はコーヒーについていたスプーンを使って、バニラアイスを削り取った。そんな姿を見ていると、部活の帰りに友達とファーストフード店に立ち寄っていた学生時代が目の前で重なった。遥花と話していると、時折、忘れている感覚が呼び起こされる。放浪していた間に縁が切れてしまった友人と、もう一度会いたいという気持ちがこみ上げてくるのだった。

 と、遥花の瞳が、知りたがりの子供みたいな光で輝いた。

「ねえ、主婦って大変ですか?」

「え、どうかな。家事が苦にならなければ、問題ないでしょうけど」

「子育てはきつそうですよね」

「ウチはそうでもなかったよ。寝る前にたくさんミルク飲んでくれたから、夜泣きはほとんどしなかったし」

「へえ、そういうものですか」

 遥花は感心したような声を出した。

「抱き癖をつけないために、泣いても触らなかったしね。そしたら、泣き疲れて眠ってた」

「えー、それってよくないんじゃないですか?」

「そうなの? でも、問題なかったわよ」

 遥花の口調が非難の色を帯びても、香穂は気にしなかった。「育児ノイローゼになる人とかいるみたいだけどさ、私は気楽に構えていればいいと思うのよね。無理して頑張るから、疲れるの。案外、なんとかなるもんなんだから」

「で、子供は放っておいて、母親はボルダリング三昧と」

「……ちょっと。何それ、嫌味なの?」

 香穂が目を細めると、遥花は笑って「すみません」と頭を下げた。

「今、夏休みですよね。望海ちゃんはどうしてるんですか?」

「大体、友達と遊びに行ってるかな。もう女の子なのに、やたらと活発で。いっつもどこかにすり傷つくって帰ってくるの」

「ふふ、元気があっていいじゃないですか」

「どうかしら。いつか大怪我するんじゃないかって、冷や冷やするんだけど」

 香穂は首を傾げた。私に似たのかと思うと、不思議な気持ちになる。自分が小さかった頃はジャングルジムで遊ぶのが好きだったぐらいで、もう少しおとなしかった気がするのだ。少なくとも、あんなどこへ飛んでいくかわからない鉄砲玉みたいではなかった。風邪をひいていても外で遊びたがるので、一度、紐で手足をきつく縛ったのだけれど、それでもいつの間にか自力で解いて部屋から姿を消していた。まったく、とんでもない娘だ。

 小学一年の時、走り回った挙句に、教室の入り口で顔をぶつけて唇の下を切っているし、不安は常にあった。いじめなどとは無縁のようだし、友達もたくさんいるみたいだから、その点はいいのだけれど、女の子が元気すぎるのも考えものだと思う。

「まあ、そうやって外で遊んでくれてるから、私は趣味に没頭できるんだけどね」

「旦那さんは何もいわないんですか?」

「そうね、子育ては私に任せきりだし」

「確か、卵のお仕事されてるんですよね。どういう人なんですか?」

「どういう……」

 問われて、香穂は両手をテーブルに置いた。夫の幹也はどういう人間なのか。あまり、考えたことがなかった。良い点を挙げるとするなら、よく娘の相手をしてくれる。それに、家事に関しては一切、苦情を洩らさない人だ。その代わり、褒めもしないけれど。

 彼は、鶏卵のみを扱う小さな会社に毎日、黙々と通っている。仕事の内容は主に配達と集金だ。時間があれば、新規開拓のために営業もする。結構きつい仕事で、早朝というか、夜中の三時にいったん家の近くにある会社に行き、卵黄と卵白に分けた液卵をチェックしなければならない(たとえば、ケーキ屋が卵白のみをほしいといった場合、ビニール袋に分けて納品するのだ)。液卵は痛みやすいが、幹也は袋の上からでも臭いを嗅ぎ分け、大丈夫かどうか判断できるのだと自慢していた。

 そのようにしてチェックを終えると、また家に戻り、少し眠ってから六時に出社する。きつい仕事の割に給料は安く(卵はあまり儲からないらしい)、家計のやりくりは大変だけれど、ローンはちゃんと払えているし、ギャンブル癖みたいな質の悪い病気は持っていないし、彼自身にはほとんど問題はない。香穂が幹也を気に入ったのは、そういう真面目さと、一軒家を購入するための頭金を払うには充分な貯蓄を持っていたためだった。

「うーん、いい人かな。明るいし」

「へえ……」

「遥花ちゃんは? 付き合っている人はいないの?」

「いないんですよ、残念ながら」

「そうなの? モテそうなのに」

「それが、私って男運が悪いんです。もう、うんざり。前のカレシだって……」

 いけない。うっかりスイッチを入れてしまったようだ。遥花は口調を速め、男の愚痴を延々と繰り広げた。奢ってもらった手前、話を遮るわけにもいかない。しょうがないなと諦め、香穂は機械的に相槌を打ちながら、彼女のお喋りを聞きつづけた。


 望海の嫌いな人参とピーマンを、包丁でみじん切りにした。それをひき肉と一緒にボウルに入れ、卵を片手で割って落とす。殻を三角コーナーに放りこんでから塩と胡椒をふりかけ、それから、右手でひたすらこねまわした。

 今日の夕食のメニューは、野菜ハンバーグだ。香穂の料理に対しては辛辣で口うるさい娘も、これなら騒がないお気に入りの一品だった。ただし、つくる度に多少の出来栄えの差は、どうしても生じてしまうのだけれど。

 ハンバーグなんて、香穂にとってはとても手間のかかった料理だ。母親は、経理の仕事に就いていて忙しかったせいもあるのだが、とにかく驚くほどの料理嫌いで、野菜をただ煮て醤油で味付けしただけのものとか、手抜き以下の代物ばかり食べさせてくれた。肉や魚もろくに食卓に出て来ず、そのため、バレーが好きだったのに香穂の身長は全然伸びなかった。それに慣らされたので、普通の人とはそもそも料理に対する基準が違うのだった。

 空気を抜くために種を掌に叩きつけていると、玄関の扉が開き、勢いよく閉じられる音がした。靴を脱ぎすてている気配がする。鉄砲玉娘のお帰りだ。

 どたどたと廊下を走り、望海がダイニングに飛びこんできた。

「あれっ、ママがいる!」

「……そんな人聞きの悪いこと、いわないでよ」

 香穂は苦笑を頬にのぼらせた。娘に悪気はなさそうだが、家を空けてばかりいる母親の怠慢を非難されているみたいで、ちょっぴり心が痛む。

「『ボル』はどうだった?」

 望海は香穂の抗議を無視して、椅子に飛び乗った。『ボルダリング』という言葉は長すぎるといって、望海はいつも『ボル』と勝手に略した言葉を使っている。

「今日は上級者の課題、三つこなしたよ」

「おー、すごい」

 望海はぱちぱちと手を叩く。後ろ髪をゴムで無雑作に束ね、チョコレート色に日焼けした娘は、身体中に生命力が満ち溢れているようだ。病気も滅多にしないし、よくぞこんなに丈夫に育ってくれたと、香穂はその点に関しては神様に感謝していた。

「ママは『ボル』が大好きなんだね」

「ええ。そうだ、望海もいっぺんやってみる?」

「ううん、いらない!」

 元気いっぱいな声で拒否され、香穂はがくんと肩を落とした。活動的で身体を動かす遊びは大好きなのに、ボルダリングは嫌なのか。変な娘だ。

 でも……ボルダリングはともかく、この子にもそろそろ習い事とか、させた方がいいのではないだろうか。運動系よりは少し落ち着きを学べるように、書道とか。ああ、でもこの子は、筆とかすぐに放り出しそうだなぁ。簡単に、映像が頭に浮かんでくる。

「今日は、誰と遊んでたの?」

「高志と鉄平」

 いつもの通り、男の子だった。どうも女の子とは、さっぱり合わなくて遊んでも楽しくないらしい。モテるのはまぁ結構なのだけれど、望海の場合、彼らを顎で使うボスとして君臨しているから、それってどうなんだろうと思う。

「今日はね、自転車でずーっと走ってね、池まで行ってね、カエルをつかまえてね」

「うんうん」

「それで、カエルつぶして遊んでた」

「望海っ」

 香穂は血相を変えた。

「生き物を殺しちゃ駄目って、いっつもいってるでしょう! どうして止めないの!」

 飛び上がった望海は、すぐさま椅子の後ろに身を隠した。

「ごめんなさい……」

「本当にもう」

「でもさぁ、おもしろいよ?」

「まだゆうかっ!」

 香穂が右の拳を振り上げると、望海は風みたいな速さで寝室に逃げこんでいった。

 まったく、確かに住まいは東京二十三区の中でも鄙びたN区ではあるけれど、どうしてここまで野生児に育ってしまったのか。香穂は不思議でしょうがなかった。百害あって一利なし、とねだられてもゲーム機を頑として買い与えなかったのが良くなかったのか。でも逆に、内向的なオタクになられても困るし。難しいところだった。

 香穂は望海を呼び戻し、生き物を殺してはいけない理由を懇々と説いて聞かせた。例として、望海が可愛がっている隣家のマンチカンが死んだら悲しいでしょうというと、それはイヤ、と娘は声を張り上げた。

「モモもあんずもチョコも、すっごく可愛いの。死んだら、ダメ」

 望海が並べ立てたのは二ヵ月程前、マンチカン夫婦が産んだ子猫の名前だった。隣の藤村家には現在、五匹の猫がいるわけだ。それは夫をなくし、年金暮らしをしている藤村聡子にとって、日々の無聊と寂しさを埋めてくれる存在だ。香穂が時間を気にせずボルダリングに没頭できるのも、聡子がいつも学校から戻った望海を預かってくれるからだった。

 香穂自身は、動物を飼う人に共感ができない。それは、悲しい別れを経験したせいだ。子供の頃、やはり隣家の住人が雑種の犬を飼っていて時々遊んでいたのだ。

 確か、小学五年生の時だ。「犬を貰った」という隣に住む男の子の嬉しそうな自慢につられて、香穂は遊びに行った。犬は人懐っこく、数日通うと香穂が姿を見せただけですぐに寝そべり、腹を晒すようになった。それが可愛くて、よく撫でてあげていたものだ。そうすると、犬はとても喜んでいる様子だった。餌を掌に乗せて差し出すと、歯で傷つけないようにちゃんと顔を横にして食べるのも、また可愛かった。

 だから、四年後にその犬が死んだ時、香穂はたくさん泣いた。泣きながら、隣の犬の死ですらこんなに悲しいのに、我が家の飼い犬だったら、私はどうなるのだろうと怖れた。その時、ペットは絶対に持たないと決めたのだ。犬や猫が見たければ、ネットにアップされている動画を鑑賞すればいい。別れが決まっているのに、わざわざ自分で飼う意味が香穂にはわからなかった。

「ああ、そうだ。そろそろまた、お伺いしないと」

 香穂は望海を迎えに行く際、大体、二週に一度はお礼の品を持っていく。けれど、夏休みに入ってからはまだ、一度も訪れていなかった。

「藤村さんとこ? だったら、望海も行くっ」

 望海が香穂の右腕をとり、ぶんぶんと振り回した。


 幹也は普段通り、八時過ぎに自宅に帰ってきた。

 扉を開けた夫は「ただいま」もいわず、玄関で靴を脱ぐと「風呂、沸いてるかぁ」と訊いてくる。いつものように「沸いてるよ」と答えると、彼は寝室に入り、すぐに下着姿になってあらわれた。これが毎日の習慣で、幹也はお湯に浸かってから、十分も経たないうちに上がってくる。それは、風呂が嫌いだからではなく、時間が勿体ないからだった。その証拠に、彼は休日だと一時間ぐらいはかけて、ゆっくり風呂に入っている。

 バスルームから出てくると、幹也はパジャマを着てダイニングテーブルにつき、夕食をとった。並んでいるのは野菜ハンバーグと付け合わせのサラダ、そしてシーチキンの卵とじだ。彼はシーチキンが大好きで、これ以外の料理にはほとんど興味をしめさない。だから香穂は、いつも色々アレンジして食卓に出している。

 これも十分足らずで食べ終え、幹也はリビングへと急いだ。これから、週末にまとめて借りてあるDVDを観るのだ。ホラー映画鑑賞が、彼の唯一の楽しみだった。

 結婚後、夫の趣味がかなり偏っている事実を知った時、当然香穂は顔をしかめた。なにが面白くて、ホラーなど好んで観るのだろうか。たかが映画に小娘みたいに怯えたりはしないが、だからといって積極的に観たいとは全然思わない。香穂は夫にまったく共感できなかった。離婚事由となるほど重大な問題でもないので、極力無視してはいるが。

「おい、望海―、ゾンビ観るぞ」

「おー、ぞんびいっ」

 ご近所迷惑すれすれの大きな幹也の呼びかけに応えて、望海が階段を勢いよく駆け下りてきた。仲良く並んでソファに座る二人は、もはや見慣れた光景だ。親子だなぁと感心しつつ、香穂は夫が使った食器をキッチンに運んで洗った。

 幹也の倍ぐらいの時間をかけてお湯を使ってから頭にタオルを巻き、バスローブを着る。リビングに戻ると、夫と娘はやっぱり映画に集中していた。

「あのさあ、もういい加減にしたら? 気持ち悪いのばっかり観て」

「馬鹿、これコメディーだぞ」

「えー?」

 腰に手を当てて文句を放った香穂はいい返され、目を点にした。半信半疑のまま画面を観ていると、ゾンビへの攻撃のために不要なレコードを選んで投げつけたり、執拗にゾンビをぶちのめしたり、確かにコメディーだった。幹也によるとイギリス製で日本未公開だが、かなり評価の高い映画だということだ。

 結局、香穂もソファに腰を落ち着けて最後まで観てしまった。エンディングクレジットがあらわれはじめると、幹也は再生を止めてDVDを取りだした。

「どうだ、望海。面白かったか?」

「すっごく、面白かったー」

 顔中に笑みを広げて、望海は答える。本当にわかっているのだろうか、と香穂は首を傾げた。小学二年生の娘が、大人向けの映画を充分に理解できたとは思えない。たぶん、この子はゾンビが出てくれば、それで満足なのだろう。

 ゾンビ映画をまったく怖がらずに面白がる娘。香穂は、ふと疑惑を持った。この子が野生児へと成長したのは、父親の影響もあるのではないだろうか。

「どうしてあなたって、こんな気持ち悪い映画が好きなのかしら」

「何をいう。現実で味わえない感覚を体験したいから、映画を観るんだろうが」

「だからって、ホラー映画ばっかりというのは」

「安全に恐怖が楽しめるんだ。素晴らしいじゃないか。日本も、もっとゾンビ映画を撮ればいいんだ」

 幹也は人差し指を立てて自論を展開した。彼は、和風テイストのじめっとしたホラーはあまりお気に召さないらしい。派手で、血しぶきがどばどば飛び散るスプラッタータイプのものが好みなのだ。どこか、おかしいんじゃないかと疑いたくなる。

「どうかしら。日本人にはウケないんじゃないの?」

「いかにも日本らしい映画にすればいい。そうだなあ、時代劇+ゾンビってのはどうだ」

「は?」

 それは、あまりにB急臭がきつすぎるのではないだろうか。

「タイトルは望海姫VSゾンビだ。どうだ、望海?」

「おー、しゅやくぅ」

 望海は喜び、小さな腕でガッツポーズをつくった。興が乗ったらしく、幹也は目を閉じて、さらに語りつづける。

「時は戦国、諸国がしのぎを削って覇を競う血なまぐさい時代。ある城下町に突然、中国から渡来した魔導士があらわれた。彼は夜な夜な彷徨い、呪文を唱えて回る。すると、怖ろしいことに墓場から死体が次々と蘇った!」

「どうして中国なの? それだとキョンシーになっちゃわない?」

「そうか、まずいな。じゃあロシアにしよう、名前はピロシキンがいいな」

「……」

 なんとまぁ、適当なこと。香穂は呆れて、唇を曲げた。きっと、今急ごしらえで話を創作しながら喋っているのだろう。

「それを退治するために立ち上がったのは、八代将軍吉宗のおとしだね、望海姫だ」

「ちょっと、ちょっと。戦国時代じゃなかったの?」

「ん? そうだったか? いいじゃないか。細かい齟齬は気にするな」

 いや、時代設定ぐらいは気にしてほしいのだけれど。数秒前の発言を忘れるなんて、あなたは鶏ですか?

「望海姫は、服部半蔵率いる忍者軍団の力を借りて、ゾンビたちと戦う」

 服部半蔵って、江戸初期ぐらいまでの人じゃなかったっけ。それとも、忍者は棟梁の名前を襲名するのだろうか。訊きたかったが、それも阿呆らしいので香穂は黙っていた。

「恋愛要素も欲しいな。よし、イケメンのゾンビを出そう」

「そっちなの? せめてロマンスの相手は忍者にしてよ」

「別にいいけどな。とにかく、ゾンビと忍者軍団の双方が全滅し、クライマックスは望海姫とピロシキンの一騎打ちだ。剣を構え、睨み合う二人」

「お、盛り上がってきたじゃない」

 すでに興味を失っていた香穂は、単調な声で応じた。

「激しく刃を交えるも、次第に劣勢になる望海姫。だが、忍術を使って隠れていた光里姫が刀でピロシキンに一撃を与え、窮地を救う! あらわれた彼女は、望海姫とそっくりな妹であった!」

「何? 双子オチ?」

 あくびを噛み殺しながら、香穂は尋ねる。

「いや、まさか。そんな、つまらん話じゃないよ」

「あ……そう」

「ピロシキンを斃し、大団円を迎えて、満開の桜を前にして花見を楽しむ一同。そこへ息せき切って駆けこんでくる木霊姫! 彼女こそ三つ子である望海姫たちの一番下の妹だった! 彼女がもたらす驚愕の知らせとは? そこで、つづくのクレジット!」

「とうびいこんてぃにゅーど」

 すかさず、望海が口を挟む。さすが親子、絶妙のコンビネーションだ。

「どうだ、望海? 面白そうだろ?」

「うん、すごく見たい!」

 両手の拳を固めて、望海は興奮した声を上げる。なるほど、幹也のチープな妄想でも、子供を喜ばせるぐらいのことはできるようだ。

 香穂は壁にかけてある時計に目をやった。時刻は十時五十分。そろそろ、幹也が寝なければいけない時間だ。けれど、二人はいつまでもゾンビの話で盛り上がっている。

 毎日、大体こんな感じで遠藤家の一日は終わる。ひと言で表すなら、平和、という言葉に尽きるだろう。楽しそうな夫と娘の様子を眺めながら、我が家は実に素晴らしい、と香穂は密かに苦笑した。

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