不幸なピンク

 ナオコは、最後まで言葉を言いきれなかった。「ふふ」と声がきこえて、きょとんとする。山田が口元を抑えていた。しばらくはこらえていたが、やがて声をあげて笑いはじめた。


「すき、そうか……すき、ね。なるほどな、君はそう考えるわけだ」


 なにがツボにはまったのか、もはや爆笑しているといっても過言ではない。ここまで笑っている姿を見るのは、初めてだった。ナオコはあぜんとして、義憤の気持ちをすっかり忘れてしまった。

 彼はひとしきり笑うと、目じりに涙をうかべて口をひらいた。


「君は、本当になにも分かっていないんだな」


「な、なんですか」


 また罵倒される時間がやってきたのか、とナオコは身がまえた。こういった話の流れになると、たいてい山田はナオコの無知や世間知らずを馬鹿にしてくる。


「いや、いい。ふふ、構わないさ。なにも分からないんだろう?」


 彼はにやにやしながら、ナオコをながめた。


「分からないって、だからなにが?」

 と、焦ってたずねる。こんなに笑われる覚えはないのだが、まずいことを言っただろうか。


「だから、そうだな」

 と、山田は説明しようとした。しかしまた笑いの発作が襲ってきたのか、顔をそらして話すのをやめてしまった。


「やっぱりいい。はあ、いやはや、これは心配だな。君には困ったものだ」


 山田はいまだに、くすくすと笑っている。

 ナオコは困惑しながら考えて、はっとした。彼は同棲していた女性を、なんとも思っていなかったのではないか、という思いつきに辿りつく。

 青ざめながら、

「もしかして、その人のこと好きじゃなかったんですか……?」と、たずねる。


 ナオコにとって、そのような形態で同棲をつづけるなんて信じられなかった。だが聞く話によれば、そういうお付き合いをする男女もいるらしい。


 山田はうなずきも否定もしなかったが、ただ笑いの残滓をのこしたまま、

「君、本当に男と交際したことがあるのか?」と言った。


「あ、ありますよ!」

 と、叫んでから今度は赤くなる。なぜ山田の家で、そんなことを主張するハメになっているのだろう。


「そうか、そうか。それなら良い男と付きあってきたんだな」


 山田はなぜか楽しそうにつぶやいた。これで話は終わりとばかりに、リビングの左にある寝室らしき部屋に入る。

 すかさず、ナオコの顔に柔らかいなにかが投げつけられた。奇妙な声をあげながら、顔からはがす。ベージュ色のスカートだった。


「ラッキーだったな」


 次々と投げつけられる服をよけながら部屋のなかをのぞく。この部屋は、それほど荒れていなかった。ベッドの上が荒れ狂い、暴れた痕が残っていたが、破壊はされていない。部屋の奥、小さなタンスからあふれた服のまえに、山田が膝をついている。ナオコはたじろいだ。女性らしい人となりが分かるような衣服ばかりだった。


「勝手に持っていけ」と言いながら、山田は服を投げつけてくる。


「これ、その人の服でしょう!」と、言うナオコの顔に薄い緑色のシフォンブラウスがかぶさる。うなりながら、服をはぎとる。

「ダメでしょう。取りに来るかもしれないし……それにこれ、ぜんぶ良い服ですよ」


「これほど人の家を滅茶苦茶にしておいて戻ってこられるとしたら、素晴らしい胆力だな。それならそれでいい。とりあえず今は、君のひどい恰好をどうにかするのが先決だ」


 山田は服を吟味して「これなんて男受けしそうだな?」と、あわいピンク色のサマーセーターを投げた。思わず受け取りながら、

「なんで山田さんが、わたしの男受けを気にするんですか」と、ナオコは目を三角にした。


「さっきも言っただろう。君が無事に寿退社を迎える日に、投資するためだ」


「なんですか、その投資」


 ナオコはうなだれながら、セーターに目をやった。服のことはよく分からないが、高級そうな服である。


「協力してやろうと言うのだから、おとなしく従え……男をみる目はあるのだから、さっさと結婚でもして幸せになればいいじゃないか」


 彼は両手にもった服の色を比較しながら、軽い口調で言った。ナオコは、なんともいえない気持ちになった。


「……山田さんは、わたしに不幸になってほしいんですか、それとも幸せになってほしいんですか?」


 なかば罠にかけるような形で、ナオコを特殊警備部から追い払ったのだ。嫌われているはずである。そのはずだが「寿退社をしろ」などと、セクハラまがいの、だが親切から言っているらしい言葉を投げもする。

 山田がなにを考えているのか、まったく理解できなかった。


 彼はその質問に、服をあさる手を止めた。


「どう思うんだ?」


 じっと見上げる表情は、彼らしくなかった。どこか子どもじみた、純粋な興味が目にうかんでいる。ナオコはなぜだかぎくりとして、目をそらした。


「俺は、君に幸せになってほしそうに見えるか? そうは見えないだろう」


 彼は苦笑した。


「それとも、そう見えるか? 中村ナオコという女性の幸せを、願っているように」


「え、いや、ぜんぜん」と、全力で否定する。


「だろう。血迷ったことをぬかしているんじゃない」

 と、いつもの皮肉っぽい表情に戻って、肩をすくめる。


「俺が君に望むことは、ひとつだけだ」


 後につづく言葉を予想して、

「HRAをやめること?」と言う。


 彼はよく分かっているじゃあないか、と言うようにほほえんだ。


「ほらせっかくだ。下に着るものも持っていけ。そのスカートもおかしくはないが、品の良さに男は弱い……もっと上質なものを選ぶべきだ」


 その後、ほぼ強制的に着替えさせられた。化粧道具も残っていたので、脱衣所に押しこめられて顔をつくるように命令される。ナオコは、もはや抵抗する気も失い、だまって従った。

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