タワシが生きていようがいまいが、恋は突き刺さるものです

 午後7時すぎに、ふたりは支社を出た。外は日が沈みきっていたが、まだ蒸し暑い。浮足立つような夏の夜だった。

 歩きながら、とりとめのない話をした。ナオコは由紀恵との会話が、たまらなく好きだった。彼女とごく普通のOLのように話をしていると、ささくれ立つ気持ちが癒される。


 住宅街をつらぬく坂を下り、大通りに出たところで、ふいに由紀恵が

「ナオコちゃんは、どういう男性がタイプだったかしら?」と、言いだした。ナオコは気恥ずかしいような嬉しいような気持ちで、

「タイプですかあ」と、ひとしきり考え、「包容力のある人ですかね」と答えた。


「お兄ちゃんみたいな感じというか。一緒にいて落ちつく人がいいですね。好きになる人も、そういう人が多いです」


「前の彼氏さんも、そんな感じだったのよね?」


「はい。一個年上で、それこそお兄ちゃんみたいでしたよ。映画研究会の先輩で、優しくて、だれにたいしても気を遣うような人で……二年で別れちゃったんですけどね」


 ナオコは以前の彼氏を思いだそうとした。しかし、うっすらとしか目鼻だちしか記憶から掘り起こせない。それほどまでに時間がたったのだな、と感慨深い気持ちになる。彼とは、大学四年生になるかならないかの折に別れたので、もう四年間も彼氏がいない計算になる。


「ナオコちゃんが、そういう人と付きあっているの、すごく想像つくわ」と、由紀恵はほほえんだ。


「なんでしょうね、すごく守りたくなるもの」


「ええ……それは、由紀恵さんのほうですよ」と、ぱたぱた両手をふる。


 由紀恵と夜道を歩いていると、女の自分でさえも、彼女を守らなくては、という気になる。今日は両者ともシャツにスラックスという服装だが、由紀恵の線の細さや色の白さが、暗がりに一段と際だつ。

 純粋にうらやましかった。こんな女性なら、きっとだれからも大切にされるのだろうと思ったのだ。


 ――――山田さんだって、由紀恵さんには紳士的にふるまっているもの。


 ふと横切った考えに、顔をしかめる。表情の変化に目ざとく気づいた由紀恵が、

「どうしたの?」と、たずねる。


「いや、なんでもないです」


 ナオコは自分の思考回路が嫌になった。ここ最近、常駐警備部の仕事の合間をぬって、山田の尾行を試みている。そのため、なにかというとすぐに彼の顔が頭をよぎってしまうのだ。

 ただし、その試みはまったく順調ではなかった。

 相棒から外れたとたん、彼は恐ろしいほどに姿を見せなくなった。早朝に玄関を見張っていても出勤してこない。退社の姿も見あたらない。部署が違うとはいえ、三週間近くも姿を見かけないなんて信じられなかった。


 きっと今頃、自分というお邪魔虫なしの生活にもどれて、楽しく仕事をこなしているのだろう。そう考えると、腹の立つことこの上ない。

 だが同時に、山田に罵倒されない生活に違和感を感じてしまっている。一年以上、バディを組んでいたのだ。心のすみに、針の通し穴ほどの喪失感があるのは否めない。


 そんなことを考えていたため、急に

「山田さんとかは?」と、水をむけられて、「はい!?」と、変な声をだしてしまった。


 由紀恵はおかしそうに、

「山田さんとかは、タイプじゃないの?」と、もう一度聞いた。


 ナオコは、ぽかんと口をあけた。


「けっこう格好いいわよ、あの人?」


 どこかためすような言葉に、動揺する。

 格好いいかどうか、というと、たしかに顔は悪くない。〈虚像〉と戦闘する姿に見ほれることがなかったとも言えない。だが、まさか山田だけはありえない。

 ナオコは、ぶんぶんと首を横にふった。


「わたしのこと、親の仇かってくらい嫌いなんですよ、あの人。そういう人をタイプだとは思えないです。こわいし、意地悪だし、皮肉ばっかり言うし……」


「あら、そうなの? 山田さんって、ナオコちゃんには特別優しいのに?」


 ナオコは絶句した。あまりに驚きすぎて、電柱と正面衝突しそうになったところを、「ナオコちゃん、まえ、まえ」と腕を引っ張られる。

 われに返って、電柱を回避する。そして「山田さんが……やさしい?」と、地球が平面ではなく球体でした、と告げられた宗教家のようにつぶやいた。


「そんな世界の終わりみたいな顔しなくても……」

 と、由紀恵は笑いをこらえた。


「だ、だって、山田さんが優しいわけないじゃないですか!」


「べつに優しい人だとは、わたしも思っていないわよ。だからナオコちゃんへの態度が、特別優しいなあって思うのよね」


 ナオコはうろたえた。発言の意図が、まるで理解できない。


「うーん、ぜんぜん分からない?」


 由紀恵は口元に人差し指をあてて、くすくす笑った。


「本人には分からないものなのねえ」


「なにをもってそう言っているのかが、わたしには、ぜんぜん理解できないです……」


 うなだれながら、そう返す。


「逆に、由紀恵さんはどうなんですか。山田さんって、アリなんですか?」


「そうねえ」


 ふたりの視線が、ぴたっと合う。由紀恵は悪女のように笑った。


「アリだけど。だめよ、ナオコちゃん。情熱的な男っていうのはね、どちらの身をも滅ぼす定めにあるんだから。そういう男と付きあっちゃ、だめ」


 ナオコは目をまるくした。「なんてね」と、由紀恵はほほえむ。


「山田さんみたいな人は、わたしみたいな修道院育ちじゃあ、とてもとても。刺激が強くて持てあましちゃうわ。ナオコちゃんも気をつけなさいね」


「は、はい」


 気をつけるもなにも、山田から嫌われているので、心配をする必要はない。

 ただ、勢いにのまれるようにうなずいた。由紀恵こそが、だれよりも情熱的な女性のように思えた。

 由紀恵のような女性がそばにいると、嬉しい反面、なにかに目覚めてしまいそうで怖い。それくらい彼女は、魅力的なのだ。穏やかな植物のようで、ふいに燃えあがる火炎のような人である。

 だからこそ、

「わたし、由紀恵さんみたいになりたいなあ」との言葉は本心だった。


 由紀恵は、きょとんとして「ありがとう」と口元をゆるめた。


「でも、わたしはナオコちゃんになりたいわ」


「うそだあ、わたしになったら、万年彼氏なしになっちゃいますよ?」


 笑ってそう返すと、由紀恵は「あら、そんなことどうでもいいわ」と肩をすくめた。


「それは、由紀恵さんに彼氏がいるから言えるんですよ」と、唇をとがらせる。


「それはそうね」


「ほら!」


 あえて怒ったふりをすると、由紀恵は「ごめんなさいよ」とふざけて肩をたたいた。 


「……じゃあナオコちゃんに彼氏ができたら、チェンジしてちょうだい。それなら公平でしょ」


「もう、なんですかそれ」


 由紀恵は、冗談めかして両手をくんだ。


「ナオコちゃんがステキな殿方と出会って、よい恋愛にめぐまれますように」と声にだす。


 ナオコも「めぐまれますように」とくりかえし声にだす。

 くだらなさに笑いあいながら、街を歩いていく。


 まさか本当に出会いがあるとは、ふたりとも思っていなかった。

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